境界線の崩壊と、禁断の聖域①
桜の蕾がようやく膨らみ始めた春休み。十歳から十一歳へ、小学五年生になろうとする私の心の中には、自分でも持て余すような、正体不明の「黒いモヤモヤ」が渦巻くようになっていた。
ほんの半年前までは気にならなかったことが、針のようにチクチクと胸に刺さる。
たとえば、学校で友達が「自分の部屋の模様替えをした」とか「新しい机を買ってもらった」と楽しそうに話している時。
たとえば、休日に友達の家に遊びに行って、パステルカラーのカーテンや可愛いクッション、自分だけの本棚がある「個人の部屋」に通された時。
私には、自分の部屋がなかった。
祖母の家での仮住まい。私に与えられているのは、一階の客間――夜になれば母と、二歳半になってますます怪獣化した双子がなだれ込んでくる、ただの雑魚寝スペースの片隅だけだった。机なんてものはなく、宿題は居間のローテーブル。プライバシーなんて言葉は、この家には一ミリも存在しなかった。
友達を家に呼ぶことなんて絶対にできない。
呼んだところで、玄関を開ければ脱ぎ散らかされた靴とオムツのゴミ箱が鎮座し、リビングに入れば蓮と葵が奇声を上げて突進してくるのだ。お気に入りのファンタジー小説も、真衣ちゃんとお揃いで買った可愛いキーホルダーも、油断すれば怪獣たちの餌食になる。
(……なんで私ばっかり、こんな思いをしなきゃいけないの)
父は遠い福岡で気楽に一人暮らしをしているように見え、母は毎日イライラとヒステリックに怒鳴り散らし、双子は際限なく甘やかされているように思える。
私だって、本当はやりたいことがたくさんあった。
放課後は外で元気にドッジボールをするより、静かな部屋でピアノを習ってみたかった。可愛い雑貨を集めて、真衣ちゃんを招いてお茶会をしたかった。
だけど、母の口から出るのは、判で押したような言葉ばかり。
『志穂、蓮の靴下履かせて!』
『志穂、葵がジュースこぼしたから拭いて!』
『お姉ちゃんなんだから、少しは手伝ってよ!』
その日、事件はあまりにもあっけなく起きた。
春休みの午後、私がコツコツとお小遣いを貯めて買った、大好きな作家さんの小説。真衣ちゃんと一緒に本屋へ行って、何週間も悩んでようやく手に入れた宝物だった。
それをほんの五分、トイレに行くために居間の棚の上に置いておいたのだ。
戻ってきた時、私の視界に飛び込んできたのは、地獄のような光景だった。
「あ! ねーね!」
満面の笑みを浮かべた蓮の手には、真っ赤な油性マジック。
そして私の宝物の表紙には、ぐちゃぐちゃの渦巻きと、無残な落書きがこれでもかと塗りたくられていた。見返しは乱暴に破かれ、床に散らばっている。
「……あ」
声が出なかった。全身の血が、音を立てて足元から引いていくのが分かった。
「……あ……あああああっ!!」
悲鳴を上げて駆け寄り、蓮の手から本をひったくった。
表紙の美しい銀箔押しが、油性インクで無残に潰されている。破れたページを拾い集めようとしたけれど、震える指先がうまく動かない。涙が一気に視界を滲ませた。
「な、何してんのよ! これ、私の大事な本なのに! なんで触ったの!? バカ! 蓮のバカ!!」
私が怒鳴りつけると、蓮はビクッと体を震わせ、次の瞬間には顔を真っ赤にして「ぎゃあああああん!」と火がついたように泣き叫び始めた。
その泣き声を聞きつけて、台所から母が血相を変えて飛び込んできた。
「ちょっと志穂! 何やってるの!? 蓮に何したのよ!」
「何したのって……蓮が私の本に落書きしたの! 破いたの! これ、私がずっと欲しくてやっと買ったやつなのに!」
私が破れた本を突きつけると、母は一瞬だけ気まずそうな顔をした。けれど、すぐに疲れ切ったため息をつき、蓮を抱き上げて背中をトントンと叩きながら、苛立ちを隠そうともせずに言った。
「……悪気があってやったんじゃないでしょ。まだ二歳なんだから、わからなかったの。そんなところに置きっぱなしにしてたあなたも悪いのよ」
あなたも悪い。
その一言が、私の頭の中でプツンと、音を立てて何かの導火線に火をつけた。
「……置きっぱなし? 五分だよ!?ちょっとトイレに行っただけじゃん! なんでいつも私が悪いの!? 蓮をちゃんと見てなかったお母さんのせいでしょ!」
「なっ……!?」
母の眉がつり上がり、声のトーンが一段跳ね上がった。
「こっちはね、朝から晩まで洗濯してご飯作って、あなたたちの世話で座る暇もないの! 少し目を離した隙のことじゃない! だいたい、そんな高い本ばかり買わないで、図書館で借りてくればいいでしょ! お姉ちゃんなんだから、少しくらい我慢しなさいよ!」
お姉ちゃん。
我慢。
いつもの、都合のいい言葉。
胸の奥に溜まっていたドロドロとしたマグマが、限界を超えて一気に噴き上がった。
止めようと思っても、口が勝手に動いてしまう。言ったら取り返しがつかないと分かっているのに、トゲだらけの言葉が怒涛のように溢れ出した。
「お姉ちゃんだから何なの!? 双子なんて産まなきゃよかったのに! お母さんは全然私のことなんて見てくれない! 私の気持ちなんて何も分かってないくせに!」
「志穂、言っていいことと悪いことがあるでしょ!」
「なんで?! みんな自分の部屋があるのに、なんで私にはないの!? 私も可愛い部屋に友達を呼びたい! 本当はピアノだって習いたかったのに、お金がないからダメって言ったよね!? 外で遊ぶのなんて大嫌い! 本ばっかり読んでないで運動しろって押しつけないで! 家の手伝いだって、双子の面倒だって、本当は大っ嫌い!」
「志穂!!」
母が手を振り上げた。
叩かれる、と思って目を固く閉じたけれど、風が頬をかすめただけで、乾いた平手打ちは飛んでこなかった。
目を開けると、母は震える手をおろし、鬼のような形相で肩を上下させていた。
「……そんなに嫌なら、出ていきなさい! どれだけお母さんが苦労してると思ってるの!? 文句ばっかり言うなら、お父さんのところへ一人で行けばいいじゃない!!」
母の口から出た「出ていけ」という拒絶の言葉。
それが、私の胸の真ん中に深く突き刺さった。
視界が涙で完全に歪んだ。
破られた本を胸に抱きしめ、私は「お母さんなんて、大っ嫌い!!」と叫ぶと、居間を飛び出した。
「志穂! 待ちちなさい!」
背後から母の怒鳴り声と、葵の泣き声が追いかけてくる。
玄関へ向かって家を飛び出す勇気はなかった。外は冷たい春の雨が降り始めている。
逃げ場のない私は、無我夢中で階段を駆け上がっていた。
一段、二段、三段。
ギシギシと悲鳴を上げる階段を一気に駆け上る。
二階の薄暗い廊下。
冷え切った空気の中に、あのお香のような、甘くてスパイシーな香りが微かに漂っている。
私の足は、吸い寄せられるように、廊下の突き当たりへと向かっていた。
普段なら決して近づいてはいけない、禁断の場所。
もう、ここしか逃げ場がなかった。
私は震える指先を握りしめ、壊れそうな心臓の音を聞きながら、その扉を遠慮がちに、けれど必死に叩いた。
コン、コン……。
中からの返事はない。
ただ、かすかに「カタカタカタ……」というリズミカルな音が止まった気配がした。
「……る、類おばさん……っ」
涙でぐしゃぐしゃになった声が漏れる。
「……入っても、いい……?」
沈黙が数秒続いた。
拒絶されたら、私は本当にこの世界に居場所がなくなってしまう。息が止まりそうになったその時、扉の向こうから、低くてため息混じりのハスキーな声が降ってきた。
『……一人?』
「……うん……ひとり……」
ガチャリ。
ゆっくりと、内側から扉が開いていく。
隙間から現れたのは、黒いロングカーディガンを羽織り、眼鏡を少し鼻先へずらした類おばさんの姿だった。私の真っ赤に腫れ上がった目と、胸に抱きしめられたボロボロの本を一瞥すると、おばさんは眉間をわずかに寄せて、頭をポリポリと掻いた。
「……まったく。下でギャーギャーうるさいと思ったら。……仕方ないな」
おばさんは半歩横に退き、顎で部屋の奥をしゃくった。
「入りな。早く」
私は促されるまま、生まれて初めて、その禁断の「魔女の部屋」へと足を踏み入れた。
バタン、と背後で扉が閉まる。
「――わあ……」
涙で濡れた頬を拭うのも忘れ、私は呆然とその場に立ち尽くした。
そこは、築数十年の和風建築の二階だとは到底思えない、息を呑むような「異世界」だった。
八畳ほどの部屋の壁という壁は本棚で埋め尽くされていた。背表紙の金文字が鈍く光る洋古書、分厚い医学や心理学の専門書、色鮮やかな文庫本、漫画、同人誌らしき薄い冊子までが、テトリスのように詰め込まれている。
部屋の天井近くには、木製のキャットウォークが幾重にも張り巡らされ、部屋の隅には天井まで届く巨大なキャットタワーがそびえ立っていた。
デスクの上には、青白く発光する巨大な湾曲モニターが二枚。虹色のグラデーションに妖しく光るキーボード。そしてデスクの脇には、本物の鉱物標本、紫水晶のクラスター、タロットカードの束、異国の真鍮の天秤、さらには鳥の骨格標本のような怪しげなオブジェが所狭しと並べられていた。
薄暗い部屋を照らしているのは、モニターの光と、机の上のアンティーク調のステンドグラスランプの琥珀色の灯りだけ。
空気中には、あの白檀とハーブを煮詰めたような魔女の香りが満ちている。
そして――。
キャットタワーの最上段から、音もなく「それ」が降りてきた。
「……グルルル……」
低い喉鳴らしとともに、漆黒と真紅のゲーミングチェアの背もたれの上に、ドスンと着地した巨大な影。
ふさふさとした灰色の長毛、首回りに蓄えられた見事なタテガミ、そして金色にギラリと光る瞳。
一般的な猫の倍はあろうかという、巨大な猫が、私を値踏みするように見下ろしていた。
「……あ……ライオン……」
思わず口から漏れた言葉に、類おばさんはくすりと鼻を鳴らし、ゲーミングチェアにどさりと腰を下ろした。コタロウがすり寄ってくると、その大きな頭を長い指先で乱暴に撫でる。
「言ったでしょ。ライオンがいるって」
おばさんは眼鏡を指で押し上げ、モニターの電源をスリープに落とした。
部屋の中が、ステンドグラスの温かい琥珀色の光だけに包まれる。
おばさんは背もたれに深く体重を預け、腕を組んで、部屋の入り口で立ち尽くす私をまっすぐに見つめた。
「で? 何があったの」
その低くて静かな問いかけに、私は胸に抱いたボロボロの本をぎゅっと抱きしめ直した。




