魔女の天秤と、ほどけない結び目
自分だけの「心の城」を持ってから、学校での毎日は見違えるほど息がしやすくなっていた。
無理に誰かの輪に入らなくてもいいし、愛想笑いで顔の筋肉をこわばらせる必要もない。そうやって図書室の窓際で静かに本を読むようになってから間もなく、私には初めて「心から大切だと思える友達」ができた。
同じクラスの、真衣ちゃん。
真衣ちゃんも読書が大好きで、休み時間になるといつも静かに本を開いている子だった。ある日、私が机の上に置いていたファンタジー小説を見て「それ、私も読んだよ! すごく面白いよね」と声をかけてくれたのがきっかけだった。
私たちはすぐに意気投合し、読書クラブにも一緒に入った。放課後にはお互いの家を行き来して、お気に入りの場面について何時間も語り合ったり、手作りのしおりを交換したりした。
家族や教室の誰にも話せなかった「物語の面白さ」を、真衣ちゃんとは全部分け合えた。私の言葉に目を輝かせて頷いてくれる真衣ちゃんの存在は、まるで奇跡のように思えた。
――それなのに。
金曜日の夜。時計の針が十一時を指す頃、私は居間のこたつに突っ伏して、誰にも見つからないように息を潜めて泣いていた。
きっかけは、本当に些細なことだった。
二人で同じファンタジーシリーズの最新刊を読み終えた放課後、図書室の片隅で感想を言い合っていた時のことだ。
主人公の旅の仲間である騎士が、ある事情から敵の軍門に下ってしまうシーン。
私は「あんなの裏切りだよ、どんな理由があっても主人公を裏切るなんて許せない」と言った。けれど真衣ちゃんは「違うよ、主人公の命を守るために自分が泥をかぶったんだよ、すごく切なくて一番好きなシーンなのに」と譲らなかった。
「志穂ちゃんは何もわかってない!」
「真衣ちゃんこそ、裏切られた主人公の気持ちを考えてないよ!」
ただの物語の解釈の違いだったはずなのに、お互いに一歩も引けず、言葉はどんどん尖っていった。
そして極めつけに、翌日の昼休み、読書クラブで二人で並べて展示していた「おすすめ本の紹介ポップ」のカードが、本棚の隅にぐしゃぐしゃに丸めて捨てられているのが見つかったのだ。
『……志穂ちゃんがやったの? 私の書いたポップ、気に入らないから?』
真衣ちゃんに冷たい目でそう言われた瞬間、頭の中が真っ白になった。
『ち、違うよ! 私じゃない! 真衣ちゃんこそ、私のことが嫌だからってそんなこと言ってるんじゃないの!?』
感情が爆発して、そのまま私たちは背を向け合ってしまった。
帰りの会が終わっても一言も口を利かず、真衣ちゃんは一人で走って帰ってしまった。
もう、おしまいだ。
あんなに仲が良かったのに。私のことなんて、もう大嫌いになったに決まっている。初めてできた大切な友達を、私は自分のつまらない意地のせいで失ってしまったんだ――。
母に話せば、きっとまた『あんたが余計なことを言ったからでしょ! 友達を疑うなんてみっともない、すぐ謝りなさい!』と頭ごなしに怒られるに決まっている。誰にも言えず、胸が張り裂けそうだった。
ギ……ィ。
静かな廊下に、かすかな床鳴りが響いた。
ハッとして涙を袖でぬぐい、慌てて本を開くふりをする。
すーっと開いた襖の隙間から、ふわっと香るサンダルウッドの匂い。
今夜の類おばさんは、深いフォレストグリーンのロングカーディガンを羽織り、髪を後ろで銀のかんざしで留めていた。
おばさんは台所へ向かおうとして、こたつに縮こまる私の姿を横目で捉えると、ピタリと足を止めた。
「……何、その世の終わりみたいな顔」
「え……」
「目、真っ赤じゃん」
おばさんは迷うことなく私の正面に回り込み、どさりと座布団に腰を下ろした。隠しようのない私のぐしゃぐしゃな顔を、眼鏡の奥からじっと覗き込んでくる。
「何かあったの?話したいなら聞くけど」
そのいつもの飄々とした、でもどこまでも逃げ場を塞がない声を聞いた途端、こらえていたものが決壊してしまった。私はしゃくりあげながら、真衣ちゃんとのケンカのこと、ポップが破かれて疑われたこと、もう絶交かもしれないという恐怖を、途切れ途切れにすべて打ち明けた。
「……っ……私、真衣ちゃんにひどいこと言っちゃった……。もう、口も利いてくれないかも……」
話し終えて俯く私を、おばさんはただ静かに見つめていた。
母のように叱ることも、子ども扱いして笑うこともなく、ほうじ茶の湯気をふうと吹きながら、ゆっくりと口を開いた。
「まず、その破られたポップだけどさ」
「……え?」
「あんたも真衣ちゃんも、犯人じゃないでしょ」
「で、でも……」
「図書室の展示棚って、低学年も通る場所でしょ。誰かが走ってぶつかって落っことして、気づかずに踏んづけて、それをゴミだと思って捨てられた。そんなとこ」
事も無げに言われたその推理は、あまりにもあっけらかんとしていて、私の涙がピタリと止まった。
「お互い、意見が食い違って心がざわついてたから、一番疑っちゃいけない相手を結びつけちゃっただけ。不安になると、人間ってそうやって勝手に最悪のシナリオを作りたがる生き物なんだよ」
おばさんはマグカップを両手で包み、窓の外の暗闇に視線を向けた。
「今、あんたの中にどんな気持ちがある?」
「え……?」
「悲しいとか、怒りとか、悔しいとか。頭の中で渦巻いてるやつ」
突然そう問われて、私は膝の上で指をぎゅっと絡ませながら、自分の胸の奥をじっと見つめ直してみた。
「……うん。その時はすごくカッとしてイライラしてたけど……今は、疑われて悲しいとか、わかってもらえなくて悔しいとか……。でも一番は、真衣ちゃんと離れたくない、大好きだなって気持ち。どうしてあんなひどいこと言っちゃったんだろうって……」
「後悔だね」
おばさんの静かな声に、私はこくりと小さく頷いた。
「気持ちがぐちゃぐちゃになって混乱してしまうのってさ、一見すごく悪いことのように思えるけど、実はいいことでもあるんだよ。それだけあんたにとって真衣ちゃんが大切で、お互いに譲れないものがあるっていうサインなんだから」
「サイン……」
「そう。それにね、感情なんて天気みたいなものだよ。その時は土砂降りのイライラだったかもしれないけど、今は後悔の曇り空。刻一刻と変わっていくの。もしかしたら真衣ちゃんも、今頃同じように後悔してたりするんじゃない?」
「そう、かな……」
「物語の解釈も、ひとつじゃなくていいんだよ。ふたりでいっぱい話してさ、『私はこう思う』『あなたはそう思うんだね』って認め合えば、それでいいじゃない。どっちが正しいか白黒つけようとするから、おかしなことになるんだよ」
おばさんはふうと小さくため息をついた。
(……もしかしてお母さんとのこと言ってるのかな)と思ったけれど、私はあえて口には出さなかった。
「仲直り……できるかな?」
「それも話し合いだよ。『私は仲直りしたいと思ってる。真衣ちゃんはどう?』って素直に聞いてみな。もし否定されたら、その時はその時。人間なんて、言葉にして話すことでしか分かり合えない不器用な生き物なんだから。自分の意見もちゃんと伝える。でも、相手の話にもしっかり耳を傾ける。それができたら上出来だよ」
おばさんはマグカップをローテーブルに置き、真っ直ぐに私の目を見た。
「後から『あの時、意地を張らなきゃよかった』って後悔するくらいなら、かっこ悪くても、自分の気持ちをちゃんと相手に伝えな。そうすれば、どんな結果になっても絶対に後悔しないから」
心臓の奥が、トクンと跳ねた。
おばさんの言葉は、大人の諦めも、人間関係の難しさも全部知った上で紡がれた、本物の「知恵」だった。
傷つくのが怖いからって殻に閉じこもるんじゃない。今、大切に思っている友達の手を、絶対に離したくないんだ。
「……うん」
私は袖でしっかりと涙を拭い、顔を上げた。
「月曜日、真衣ちゃんに話してみる。私の意見と、真衣ちゃんの意見は違ってもいい。でも、真衣ちゃんのことが大切だから、仲直りしたいって」
「いいね」
おばさんは満足そうに頷き、よいしょと腰を上げた。
「あー、お腹減った」
「今日はハンバーグだよ」
「やった。デミグラスソース?」
「うん」
おばさんはニヤリと魔女の笑みを浮かべ、長い裾を揺らしながら電子レンジへ向かい、温めたお皿を持って階段を上がっていった。
トントン、と遠ざかる足音を聞きながら、私は胸の奥にあった重たい結び目が、綺麗にほどけていくのを感じていた。
翌週の月曜日。
朝の読書タイムの前、私は意を決して真衣ちゃんの机の前へ歩み寄った。
真衣ちゃんは気まずそうに視線を落としていたけれど、私が「真衣ちゃん、おはよう」と声をかけると、おそるおそる顔を上げた。
「……あのね、真衣ちゃん」
私は深呼吸をして、おばさんからもらった魔法の言葉を胸に浮かべた。
「金曜日はごめんね。……それに、あの本の感想も。私はあの騎士が許せなかったけど、真衣ちゃんがそう思う理由も、今はわかる気がする」
真衣ちゃんは目を丸くして、私の言葉を聞いていた。
「意見が違っても、私は真衣ちゃんと一緒に本を読む時間が一番好きなの。……だから、また一緒に図書室に行ってくれる?」
真衣ちゃんの瞳に、みるみるうちに涙がたまっていった。
「……志穂ちゃん! 私の方こそごめんね! 私、志穂ちゃんに否定されたみたいでカッとなっちゃって……私こそ、志穂ちゃんのこと疑ってごめんなさい!」
真衣ちゃんが私の手ぎゅっと握りしめてくれた瞬間、胸の奥のモヤモヤが全部吹き飛んで、温かい光で満たされた。
窓から差し込む朝の光の中で、私たちは顔を見合わせて、少し泣きながら笑った。
その日の放課後、二人で並んで歩く図書室までの廊下は、いつもよりずっとキラキラと輝いて見えた。
遠い未来のことは分からない。いつか離ればなれになる日が来るのかもしれない。
けれど、今この瞬間の温もりだけは、絶対に嘘じゃない。
夜、祖母の家の階段を見上げると、二階の扉の隙間からかすかに光が漏れていた。
(ありがとう、類おばさん)
私は心の中でそっと呟いた。
やっぱりあのおばさんは、人の心の一番奥にある痛みを癒やしてくれる、本物の魔女なのだと信じながら。




