禁断の辛口スープと魔女の結界
金曜日の夜は、私とおばさんの「秘密の定例会」になりつつあった。
二歳の双子は夜の八時半にはコテッと眠りに落ちた。母も「もう限界……」と呻きながら、片付けもそこそこに寝室へ消えていった。
静まり返ったリビングで、私はローテーブルに宿題の漢字ドリルと図書室で借りてきた本を広げていた。時計の針が夜の十一時を回った頃、きしむ階段の音とともに、あのお香のような甘くスパイシーな香りが降りてくる。
今夜の類おばさんは、深い藍色のゆったりとしたカフタンドレスのような部屋着を着ていた。首元には細い革紐のチョーカー、長い黒髪を無造作にお団子にまとめている。
おばさんは冷蔵庫からラップのかかった冷やご飯とおかずを取り出して手早く平らげると、「……んー、なんか物足りないな」と呟き、パントリーの奥をごそごそと漁り始めた。
「あったあった。最後のひとつ」
おばさんが取り出したのは、真っ赤なパッケージに炎のイラストが描かれた、見るからに刺激的な輸入物のカップ麺だった。
私は思わず目を丸くしてそれを見つめた。
わが家では、母が「カップ麺なんて添加物だらけで体に悪いから絶対にダメ! あんなの人間が食べるものじゃないわ」と口を酸っぱくして禁止していたから、私にとってはテレビのCMや友達の噂話の中でしか知らない、滅多に口にできない禁断の食べ物だったのだ。
電気ケトルでお湯を沸かし、三分後。フタを剥がした瞬間、ツンと鼻を刺激する唐辛子とニンニク、魚介エキスの混ざった強烈に美味しそうな匂いがリビングいっぱいに立ち込めた。体に悪いと言われても、このジャンクで暴力的な香りは、子ども心にとてつもなく魅力的だった。
「……すごく辛そう」
ごくりと喉を鳴らして私が呟くと、おばさんは割り箸を割り、眼鏡の奥の目をいたずらっぽく細めた。
「食べる?」
「えっ……でもお母さんが……」
「姉貴には内緒にしてあげる。ただし、後悔しても知らないよ」
差し出されたカップから、おそるおそるスープに浸ったちぢれ麺を箸でつまみ、ふうふうと息を吹きかけてから口に運んだ。
「――っ! か、からいっ!!」
舌先がビリビリと痺れ、喉の奥がカッと熱くなった。慌てて冷たい麦茶を流し込む私の横で、類おばさんは「あっはは!」と声を立てて笑った。
「まだ子どもには早かったか。この辛さとジャンクさが脳の疲労に効くんだけどねえ」
おばさんは平然とした顔で真っ赤な麺をすすり、ふうと息をついた。それから割り箸を休め、眼鏡の奥の切れ長の瞳で、じっと私の顔を覗き込んできた。
「……何、あんた。なんかあったの?」
「え?」
「さっきからずっと元気ないじゃん。顔に『悩んでます』って書いてあるよ」
「え……な、なんでわかるの?」
思わず自分の頬を手で覆うと、おばさんはふっと口角を上げて、スープの湯気の向こうで肩をすくめた。
「さあね、勘?……まあ、話したいなら聞くけど? 話したくないなら無理に言わなくていいし」
押しつけがましくない、淡々としたその距離感が心地よかった。母のように「何かあったんでしょ!早く言いなさい!」と問い詰められるのではなく、扉を開けるかどうかをこちらに委ねてくれている。
そのフラットな優しさに背中を押されるようにして、私は昼間の出来事をぽつりぽつりと話し始めた。
転校して一ヶ月。私はクラスの女子グループ――いつも教室の中心で目立っている四人組と、なんとなく一緒に過ごしたり、移動教室を共にしたりしていた。
けれど、仲が良いわけではない。彼女たちが好きなアイドルの話や、誰かの持ち物を「ダサい」と笑うノリに、私はどうしても馴染めなかった。かといって輪を乱せば、今度は自分が標的にされるかもしれない。いつも顔色を窺い、愛想笑いを浮かべ、話題に必死についていこうとして、放課後にはぐったりと疲れてしまうのだ。
今日の昼休み、ついにそのグループのリーダー格の女の子から「志穂ちゃんってさ、ノリ悪いよね」と、半分冗談のような、半分本気のような冷たい目で言われてしまった。
帰宅後、落ち込んでいた私に気づいた母にそのことを話すと、母はため息をついてこう言ったのだ。
『あなたが変なこと言ったんでしょ!わがまま言ってないで、ちゃんとみんなに合わせなさいよ』
母の言葉を思い出すと、今でも胸の奥がキュッと痛む。
私の言葉を、類おばさんは口を挟まずに最後まで静かに聞いていた。
母のように「あなたが悪い」と決めつけもせず、「かわいそうに」と大げさに同情するわけでもなく、ただ「へえ」「で、どうなったの」と、淡々と受け止めてくれた。それだけで、窒息しそうだった胸にすっと空気が通るようだった。
おばさんはカップ麺のスープをずずっと一口飲むと、割り箸を置いて私をまっすぐに見つめた。
「無理して仲良くする必要なんて、これっぽっちもないよ」
おばさんは事も無げに言った。
「私なんてね、小学生の頃から友達なんてほぼゼロだったよ。今でも友達は少ないけどね。でもそれでいいの。全員に好かれる人なんて、絶対にいないんだから」
「でも……嫌われるのは、怖いよ」
私は膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「嫌われたら、無視されたり、いじめられたりするかもしれないし……」
「どうして?」
おばさんはあっけらかんと問い返してきた。
「だって……みんなと違う行動をしてたら、生意気だと思われるし」
「あのね、」
おばさんは肘をつき、細い指先をチチチと振った。
「人間っていうのはね、不思議な生き物でね。『嫌われたくない』と思ってオドオドして、相手の顔色ばかり窺っているヤツを、無意識に見下して攻撃したくなるようにできてるの。自分の領域にズカズカ踏み込ませてあげてるのと同じなんだよ」
「自分の……領域?」
「そう。自分と他人の間には、見えない境界線があるの。あんたの心は、あんただけの城なんだよ。その城の扉をガバガバに開けっ放しにして『どうぞ土足で入ってきて私を評価してください』ってやってるから、相手も調子に乗って『ノリが悪い』なんて言ってくるわけ」
おばさんの言葉は、まるで古い魔導書に書かれた呪文の解読を聞いているみたいに、すとんと私の頭の中に落ちてきた。
「周りの空気なんて、読まなくていいの。あんたはあんたの好きな本を読んで、好きなように座ってればいい。何も悪いことなんてしてないんだから。いじめてくる度胸なんて、そんな狭い教室で群れてるだけの連中にはありゃしないよ。もし何か言ってきたら、心の中でこう唱えな。『私の城に勝手に入ってくるな、この愚民どもが』ってね」
「愚民……!」
思わず吹き出してしまうと、類おばさんもニヤリと笑った。
「そう。嫌われたって、痛くも痒くもない。あんたの価値は、誰かが決めるもんじゃないんだから。自分のことは自分で守る。それが賢い方法だよ」
おばさんは立ち上がり、空になったカップ麺の容器をゴミ箱に捨てると、マグカップにお湯を注ぎ直した。
「……類おばさん」
「ん?」
「おばさんって、人の心が読めるの?」
私が感心して見上げると、類おばさんは階段に足をかけ、振り返って眼鏡のブリッジをくいと押し上げた。
「ただの観察と経験則だよ。……じゃ、あんたも夜更かししすぎないで早く寝な」
パタパタと静かな足音を残して、おばさんは二階の奥へと消えていった。
週が明けた月曜日。
昼休み、いつもの四人組が「ねえ、今日何して遊ぶー?」と教室の後ろで固まり始めた。
いつもなら、私は慌ててその輪に駆け寄り、何を話せばいいのかと心臓をバクバクさせていたはずだった。
けれど、私は立ち上がらなかった。
机の上には、図書室で借りたばかりのファンタジー小説。
深呼吸をひとつして、心の中でそっと唱えてみる。
(私の城には、誰も勝手に入らせない)
私は小説を抱え、彼女たちの輪に背を向けて、一人で静かに教室を出た。
背中に「あれ、志穂ちゃんどこ行くの?」という声が飛んできたけれど、「図書室行ってくるね」とだけ穏やかに告げて、足を止めずに歩いた。
図書室の窓際の席は、ぽかぽかと暖かくて、驚くほど静かだった。
誰の顔色も窺わず、誰の話題にも合わせず、大好きな物語の世界に没頭する。
教室に戻ると、不思議なことが起きていた。
無視されることも、陰口を叩かれることもなかった。それどころか、グループのリーダー格の子が「志穂ちゃん、さっき読んでた本面白いの?」と、いつもより少しだけ遠慮がちに、対等なトーンで話しかけてきたのだ。
(……本当に、おばさんの言った通りになった)
帰り道、ランドセルを揺らしながら歩く足取りは、羽が生えたように軽かった。
他人の顔色を窺うのをやめただけで、世界がこんなにも息をしやすくなるなんて。
あの人は、やっぱりただのおばさんじゃない。
人の心の仕組みを知り尽くしていて、見えない結界を操る――本物の「魔女」なのかもしれない。
夕暮れに染まる祖母の家を見上げながら、私は二階のあの閉ざされた扉の奥に想いを馳せて、胸の奥を小さく震わせていた。




