真夜中の読書と、魔女の晩餐
母の実家での生活が始まって一週間が過ぎても、食卓の空気はあいかわらず張り詰めたままだった。
夕方六時半。ダイニングテーブルの上には、祖母が腕を振るった肉じゃがと焼き魚、具だくさんのお味噌汁が並んでいる。けれど、そこに並ぶ椅子のひとつ――類おばさんの席だけは、いつもぽっかりと空いたままだった。
「……ねえ、お母さん。類は今日も降りてこないの?」
母が苛立ちを隠そうともせずに、おたまを鍋にカツンと当てながら祖母に尋ねる。
その足元では、二歳の蓮がスプーンを床に投げつけて「いや! これたべない!」と泣き叫び、葵は自分の手づかみした白米をテーブルクロスになすりつけていた。母の額にはくっきりと青筋が浮かんでいる。
「ええ、さっき声をかけたら『後でひとりで食べるからラップしておいて』って言ってたわよ」
祖母は困ったように眉を下げながら、双子の口元をウェットティッシュで手際よく拭う。
「本当に自分勝手よね!」
母は耐えかねたように声を荒らげた。
「みんなでご飯を食べるのが家族ってもんでしょ。あの子、朝から晩まで部屋に引きこもって、顔を合わせる気もないわけ? いつまで親に甘えてるつもりなんだか」
「まあまあ。あの子にはあの子の仕事のペースがあるんだし、もう立派な大人なんだから、放っておきなさいな」
「大人なら一人暮らしすればいいじゃない! 実家に居座って、ご飯だけ都合のいい時間に食べるなんて、都合のいいホテルか何だと思ってるのよ」
母の愚痴は止まらない。祖母はため息をつき、私はといえば、なるべく気配を消して肉じゃがを口に運んでいた。
母とおばさんの間には、何年もかけて積もり積もった分厚い氷の壁があるみたいだった。そこに双子の怪獣たちの鳴き声が加わるのだから、夕食の時間は団らんというよりは、もはや神経を削るサバイバルである。
(……二階、どうなってるんだろう)
お味噌汁をすすりながら、私は視線を天井へと向けた。
初日以来、二階の突き当たりの扉をこっそり覗いてみたいという衝動は、日増しに強くなっていた。けれど、類おばさんは一日のほとんどを部屋の中で過ごしているらしく、階段を降りてくるのは一日に数回、トイレか水分補給の時くらい。常に部屋の中に「魔女」が潜んでいるのだから、忍び込む隙なんてこれっぽっちもなかった。
その日の夜。
時計の針は、すでに夜の十一時を回っていた。
お風呂上がりに大暴れした双子は、母の絵本の読み聞かせの途中でようやく力尽き、母もそのまま泥のように隣で眠りこんでしまった。祖母もとっくに自分の部屋へ引き上げている。
家の中が、信じられないほど静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った一階のリビングで、私は一人、こたつに入ってスタンドライトの明かりをつけていた。
手元には、小学校の図書室で借りてきた分厚いハードカバーの本。
転校先の小学校には、私の背丈よりも高い本棚が並ぶ図書室が「ふた部屋」もあった。前の学校よりもずっと広くて、棚の隅から隅までびっしりと並んだ本を見たとき、この引っ越しで唯一「ラッキーだった」と思えたくらいだ。
いま夢中になっているのは、森の奥で暮らす見習い魔女と、気難しくて博識な大魔法使いを描いた長編ファンタジーシリーズ。
明日は土曜日。学校は休みだから、今夜はどれだけ夜更かしをしても誰にも怒られない。そう思うだけで、心臓の奥がじんわりと温かくなり、物語の世界へ吸い込まれるようにページをめくっていた。
――ギ……ィ。
静まり返った廊下に、かすかな床鳴りが響いた。
(……あ)
思わず背筋が伸びる。
トントン、と静かな足音が階段を降りてきて、リビングの引き戸がすーっと開いた。
そこに立っていたのは、類おばさんだった。
初日のあの派手で妖しい黒衣の衣装ではなく、今夜はチャコールグレーのシンプルなリネンワンピースを着ていた。胸元と袖口にだけ、異国の草花を模したような細い銀色の幾何学刺繍が施されていて、飾り気配のない部屋着なのに、どこか不思議な品配がある。長い黒髪はゆるく三つ編みにして肩の前に流され、手首のブレスレットも外されていたけれど、爪先には深い真紅のネイルが塗られていた。
類おばさんは目をしばたたかせ、こたつに入っている私を見て足を止めた。
「……あれ。まだ起きてたんだ」
「あ……うん。こんばんは」
怒られるだろうか、と少し身を縮めた私に、おばさんは特に気にした様子もなく、台所の冷蔵庫へ向かった。電子レンジでラップのかかったお皿を温める音が、静かな空間に低く響く。
温め終わったお皿――肉じゃがとご飯を載せたお盆を持って、おばさんはリビングに戻ってきた。てっきり二階の部屋へ持って上がって食べるのかと思いきや、私の斜め向かい、ローテーブルの反対側にすとんと腰を下ろした。
トレイの上から、湯気と一緒に醤油の香りが立ち上る。
間近で見る類おばさんは、眼鏡の奥の彫りが深くて、どこか浮世離れした顔立ちをしていた。
おばさんは割り箸を割ると、ふと私の手元に視線を落とした。
「……あ、その本」
「え?」
「懐かしいな。あんた、それ好きなの?」
「う、うん……」
思わぬ問いかけに、私は小さく頷いた。
「へえ。それ、私も小学生の頃に図書室で借りて読んだわ。全五巻のやつでしょ」
「そ、そうなの?!」
思わず声が上ずってしまった。
私の母は、双子の世話に追われているせいもあるけれど、あまり本を読む人ではなかった。私が夢中になって読書をしていると、「部屋にこもってないで、もう少し外で遊んだら?」とか「たまにはお友達と公園にでも行ってきなさいよ」と、どこか小言のように言ってくるのが常だった。だから、身近な大人から「自分もその本を読んだ」と言われたこと自体が、初めての経験だったのだ。
「うん。面白いよね」
おばさんは肉じゃがを小さく口に運びながら、事も無げに言った。
「で? 登場人物は誰が好き?」
「え……」
急に聞かれて、私はページを指で押さえたまま考え込んだ。
「んー……主人公の女の子も一生懸命で好きだけど……でもやっぱり、街外れの塔に住んでる、ちょっと偏屈な魔法使いのおじいさん、かな。口は悪いけど、本当はいろんなことを知ってて、大事なところで助けてくれるから」
すると、類おばさんは箸を止め、口元を小さく緩めた。
「ふっ……わかる」
笑った。
母の前では一度も見せたことのない、柔らかくていたずらっぽい笑い声だった。
「あんた、案外いいセンスしてるね。姉貴とは全然違うみたいだ」
その一言が、なんだか胸の奥にすっと染み渡っていくのを感じた。
「あんたは姉貴とは違う」――それはまるで、母の言う「普通の子ども」の枠組みから外れた私の読書好きを、まるごと肯定して、仲間として認めてもらえたような気がしたのだ。
少しだけ勇気が湧いてきて、私はずっと気になっていた質問を口にしてみることにした。
「……ねえ、類おばさん」
「ん?」
おばさんはお茶を一口すすりながら、視線だけで私を見る。
「……本当に、二階の部屋にはライオンがいるの?」
おばさんは動きを止め、それから眼鏡の位置を中指でくいっと押し上げた。
そして、初日のあの妖しさをほんの少しだけ瞳に宿して、にやりと唇の端を吊り上げる。
「さあねえ。……いるかもねえ」
「えー、教えてよ」
「教えたら面白くないでしょ。猛獣の正体は、自分の目で確かめるまで秘密にしておくのが物語のお約束だよ」
煙に巻くような言い方。けれど、その声には意地悪さはまったく混ざっていなかった。
それから類おばさんは、ご飯を食べ終えた後もすぐに二階へ戻ろうとはせず、テレビの深夜番組を音量を小さくしてつけながら、ぽつりぽつりと本の話をしてくれた。
あの魔女シリーズの作者が他にどんな本を書いているかとか、昔の児童文学には実は怖い裏設定がたくさんあるんだとか、私が今まで知らなかった面白い話ばかりを、まるで古いおとぎ話を語るように聞かせてくれた。
時計の針は、いつの間にか午前一時を指そうとしていた。
深夜の薄暗いリビング。微かに響くテレビの音と、おばさんの低くて心地いい声。
お父さんの急な単身赴任。
双子の怪獣たちに占領された家。
母のイライラと、窮屈な居候生活。
災難だらけの引っ越しだと思っていたけれど――。
(……案外、悪くないかも)
私は手元の本をそっと閉じ、温かい緑茶の湯気の向こうで、退屈そうにテレビの画面を眺める「魔女」の横顔を盗み見ながら、小さく口元を緩めたのだった。




