ライオンと黒衣の魔女
私の平和で静かだった日常が終わりを告げたのは、小学五年生の春、桜の花びらが散りきらないうちにやってきた突然の「緊急事態」のせいだった。
事の発端は、父の単身赴任である。
メーカーに勤める父が、遠く離れた支社へ一年間という期間限定で異動することが決まった。それだけなら「お父さん、たまに電話してね」で済む話だったかもしれない。本当に恐ろしいのは、わが家に生息するふたつの小さな怪獣――イヤイヤ期真っ只中、魔の二歳児である男女の双子、蓮と葵の存在だった。
二歳児の破壊力は、人間の理解を超えている。
片方が「自分で靴を履く!」と床に突っ伏してこの世の終わりのように泣き叫べば、もう片方は「ご飯のニンジンが星の形じゃない!」と皿ごと宙へ放り投げる。着替えさせようとすればタコのように暴れ、追いかければ別の部屋でティッシュを一箱まるまる引き抜いている。朝起きてから夜寝るまで、家の中はサイレンと爆撃音が鳴り止まない戦場だった。
ワンオペレーションでこの二匹の怪獣を育てながら、私の小学校の面倒まで見られるわけがない。そう悟った母は、ある日ぷつりと何かの糸が切れたようにリビングの真ん中で頭を抱え、父に向かって叫んだ。
「無理。絶対に無理! あなたがいなくなったら、私、一週間でこの子たちを連れて発狂する! 実家に帰らせていただきます。お父さんの赴任が終わるまでの、一年間だけ!」
こうして私たちは、父の不在期間である「一年間限定」という条件付きで、母の実家である祖母の家へと引っ越すことになったのだ。
母の実家は、少し古びた木造二階建ての日本家屋だった。
重厚な瓦屋根、薄暗い玄関、きしむ廊下、そして昭和の匂いが染み付いた静かな家――のはずだった。しかし、私たちが荷物を運び込んだその瞬間から、静寂は木っ端微塵に粉砕された。
「ぎゃあああ! れんくんのトラックとったー!」
「あおいちゃんの! あおいちゃんがさきにつかってた!」
「あんたたちいい加減にしなさい! おばあちゃんの家の畳でお茶をこぼさないの! 志穂、ちょっとその段ボール開けて、蓮のオムツ出して!」
新居に到着してわずか三十分。廊下には脱ぎ捨てられた靴下が散乱し、居間には引っ越し用の段ボールがバリケードのように積み上がり、母の怒号が吹き抜けの天井にこだましていた。優雅にお茶を淹れてくれていた祖母も、双子が障子に指を突っ込もうとした瞬間から、引きつった笑顔で家中を駆け回る羽目になっている。
「……はあ」
私は自分のランドセルを抱えたまま、廊下の隅で深いため息をついた。
小学四年生。大人の事情も分かるし、母が限界なのも理解している。だから手伝おうとは思うけれど、この騒音と混沌の中にいると、頭の芯がじんじんと痛くなってくる。私には、静かに本を読んだり、学校の宿題を広げたりする安全な場所が必要だった。
その時だった。
フワリ、と鼻腔をくすぐる不思議な香り。
お寺のお線香とも違う、甘くてどこかスパイシーな……白檀やハーブを煮詰めたような、嗅いだことのない異国の匂い。
同時に、ギ……ギ……と頭上の階段がきしむ音がした。
見上げると、薄暗い二階の踊り場から、音もなく誰かが降りてくるところだった。
「ひっ……」
居間で暴れ回っていた双子が、ピタリと動きを止めた。
母の金切り声も、祖母のお茶をすする音も、一瞬で凍りつく。
そこに立っていたのは、全身を深い紫と黒の布で包んだ、この日本家屋にはあまりにも不釣り合いな女性だった。
くるぶしまで届くオリエンタルなロングワンピースに、幾何学模様の大判ストール。首元からは銀色に光る大ぶりなペンダントが下がり、手首には何重もの木製ビーズのブレスレット。長い黒髪はゆるくウェーブがかかり、大きな黒縁メガネの奥にある切れ長の瞳が、冷たく、妖しく光っていた。
母の妹――つまり私の叔母にあたる、類おばさんだった。
年齢は三十代前半。祖母の家でずっと独身のまま同居している変わり者だとは聞いていたが、法事などでたまに見かけるくらいで、まともに会話をした記憶はほとんどない。その頃よりも、ずっと「魔女」めいていた。
類おばさんは、階段の途中で足を止め、手にした真鍮のマグカップから立ち上る紫色の湯気の向こうから、冷ややかにリビングを見下ろした。
そして、ジャラリ、と腕の銀細工を鳴らしながら、人差し指をすっと二階へ向けた。
その指先には、黒く塗られたマニキュアが光っている。
「……そこのチビども」
低く、部屋中の空気を震わせるような、やけに響くハスキーな声だった。
二歳の蓮と葵は、持っていたおもちゃを取り落とし、怯えたように抱き合って固まった。
「二階にはね、絶対に来ちゃダメだよ。……お腹を空かせた獰猛な『ライオン』が棲んでいるからね」
「……らい、おん……?」
蓮が震える声で呟く。
「そう。血に飢えた百獣の王。騒がしい人間の子供の肉が大好物なんだ。もしあの階段を一段でも上がったら最後、扉の隙間から大きな爪が伸びてきて、バリバリと頭から丸呑みにされるよ。骨のひとかけらも残さずにね」
類おばさんは口元だけに妖しい笑みを浮かべ、カチャリとマグカップの底を鳴らした。
その迫真の演技に、双子は「……うわああああん!!」と絶叫し、母のスカートの裾に顔を埋めて泣きじゃくった。
類おばさんは満足そうに鼻を鳴らすと、一度もこちらを見ることなく、長い布の裾を翻して音もなく二階へと戻っていった。
トントン、とリズミカルに階段を上る足音が消え、やがて二階の奥で、重々しい扉が閉まる『バタン』という音が響いた。
「もう! 類、あんた何余計なこと言って子供たちを脅してんのよ!」
我に返った母が、二階の階段に向かって怒鳴り声を上げた。
しかし二階からは何の返事もない。母は悔しそうに地団駄を踏み、双子の背中をあやしながら私に向き直った。
「志穂! あの子の言うことなんて真に受けちゃダメだからね! 昔からあいつは偏屈で、怪しげなオカルトや変な本ばっかり読んで……三十過ぎても実家に居座って、ろくに外にも出ないで何をしてるんだか! いつまで独身で遊んでるつもりなのよ! いい? 志穂も二階には絶対近づいちゃダメ。変な呪いでもかけられたら大変だから!」
母はおばさんを「偏屈なニート」と罵り、おばさんは母を「思考停止した世間体モンスター」と見下しているらしい。二人の仲が絶望的に悪いのは一目瞭然だった。
けれど、母のその剣幕は、かえって私の好奇心を掻き立ててしまった。
その日の夜。
夕食を終え、お風呂に入り、双子がようやく泣き疲れて眠りについた後、家の中はようやく静けさを取り戻した。
私は一階の客間に敷かれた布団の中で、目をぱっちりと開けていた。
枕元には、最近図書館で借りて夢中になって読んでいる、西洋のファンタジー小説が置いてある。黒いローブを纏い、人里離れた森の奥の館で、怪しげな薬を調合しながら世界の秘密を知る『魔女』の物語。
(……類おばさん、本当に魔女なのかな)
あの異国のお香のような不思議な匂い。
ジャラジャラと鳴る銀の装飾品と、深い紫色の布。
そして、「二階にはライオンがいる」という奇妙な警告。
昼間、母が「あいつは家で仕事をしてるみたいだけど、何の仕事だかさっぱり怪しいもんよ」と愚痴っていたのを思い出す。外に出ず、誰とも会わず、部屋の中で一体何をしているのか。
もしかして、あの二階の突き当たりの部屋には――。
床一面に怪しげな魔法陣が描かれていて、机の上には煮えたぎる大鍋と、干からびたトカゲや薬草の瓶が並んでいるんじゃないだろうか。
そして、部屋の隅には本当に、魔女の使い魔である巨大な猛獣が鎖に繋がれて眠っているのでは……?
コト、と頭上の天井から微かな物音がした。
二階の奥の部屋からだ。
耳を澄ませてみる。
……カタカタカタカタ……カタカタカタカタ……。
それはまるで、魔女が何かの呪文を一心不乱に羊皮紙に書き殴っているような、奇妙でリズミカルな音だった。
時折、低く唸るような、重たくてかすかな振動が、古い木造の梁を伝って私の部屋まで響いてくる。
ゴロゴロ……ゴロゴロ……。
(……ライオンの、喉の音……?)
私は掛け布団をぎゅっと胸元まで引き上げた。
ライオンがいるはずなんてない。魔女なんて現実にいるはずがない。
小学五年生の頭ではそう分かっているのに、背筋をスーッと冷たいものが通り過ぎていく。
二階のあの分厚い扉の向こうで、類おばさんは一体、何をしているんだろう。
私の頭上には、恐ろしくて、美しくて、誰にも言えない秘密を抱えた「魔女の部屋」がある。
私は天井の木目をじっと見つめながら、まだ見ぬ二階の扉の向こうを想像して、怖さとワクワクで胸を高鳴らせていた。




