転校生と魔法のノート③
金曜日の夜。
一階では母も双子もおばあちゃんも寝静まり、家全体が心地よい静けさに包まれていた。
二階の物置部屋で、私は文机に突っ伏しながら、さっきから込み上げてくる笑いを噛み殺していた。
昼間に図書室で見た七海さんの黒いノート。迫力ある銀色の幻獣と、ぎっしり詰まった物語。
本は読むだけじゃなくて、自分で書いてもいいんだという発見が、胸の奥で炭酸水みたいにシュワシュワと弾けて、嬉しくてたまらなかったのだ。
ガララ……。
引き戸が静かに開き、ふわっとサンダルウッドとハーブの香りが流れ込んできた。
マグカップを片手に、ゆったりとした部屋着姿のおばさんがひょっこり顔を出す。
「……何、あんた。さっきから一人でぐふぐふ笑って、気味悪いんだけど」
おばさんは敷居のところに寄りかかり、目を細めて私を見下ろした。
「なんかご機嫌だね。いいことでもあった?」
「おばさん! 聞いてよ、大発見なの!」
私は座布団から跳ね起き、身を乗り出した。
「小説ってね、自分で書いてもいいんだよ!」
おばさんはポカンと目を丸くし、それから吹き出すように笑った。
「ぶっ……あはは! 何それ、世紀の大発見みたいな顔して。当たり前でしょ、誰かが書かなきゃ本にならないんだから」
「そうだけど! でも、本屋さんにある本って、大人のすごい人たちが作ってるものだと思ってたの。自分で作れるなんて、発想したこともなかったんだもん! 今日ね、転校生の西野さんがノートに自分で物語を書いてるのを見ちゃって……もう、すっごくかっこよくて、本物の魔法使いみたいだったの!」
図書室で見た迫力のある絵と文章、七海さんの真剣な横顔。
身振り手振りで興奮気味にまくし立てる私を、おばさんはコーヒーをすすりながら、面白そうに眺めていた。
「へえ。……なら、あんたも書いてみりゃいいじゃん」
「えっ……!? む、無理だよ! 私なんかにできるわけないじゃん!」
思わず手を振って否定すると、おばさんはふっと優しく目を細めた。
「何言ってんの。物語の中はさ、誰が何と言おうと自由なんだよ。ルールも正解もない。あんたが思い描いた世界の中では、あんたが一番自由なんだから」
「自由……」
「そう。だからさ、書きたいことができたら、気楽に遊んでみなよ」
物語の中は、自由。
そう言われても、私には七海さんのような立派な剣や魔法の物語なんて思いつかないし、書きたいことなんて何も浮かばなかった。
頭を抱えたまま、私は一階の客間へ降り、布団の中に潜り込んだ。
その夜、不思議な夢を見た。
深い深い緑の森の中に、私はひとり、ぽつんと佇んでいた。
木漏れ日が苔むした地面を優しく照らし、遠くで澄んだ鳥のさえずりが響いている。
耳を澄ますと、さらさらと流れる透明な川のせせらぎ。
ふと空を見上げれば、昼の青空はあっという間に深い藍色へと溶け込み、満天の星が降るようにまたたき始める――。
どこか懐かしくて、胸の奥がきゅんと甘く痛むような、静かな森の景色だった。
翌朝、小鳥の声で目を覚ました私は、布団を抜け出して二階の物置部屋へ向かった。
夢の温度が消えてしまわないうちに、机の引き出しからあの真鍮のペンを取り出し、ノートの白紙のページをめくる。
『深い森の奥、木漏れ日の下で
名前も知らない小鳥が歌っている。
川のせせらぎが銀色に光り、
夜になれば、空いっぱいの星が降り注ぐ――』
「……っ」
四行目を書き終えたところで、カッと顔から火が出るような熱さがこみ上げてきた。
なんだかすごく恥ずかしくて、誰かに見られたわけでもないのに、バタン!と音を立ててノートを勢いよく閉じてしまった。
胸の真ん中で、心臓がトクトク、ドクドクと激しく脈打っている。
七海さんみたいなかっこいい冒険物語じゃない。ただのポエムみたいな、拙い言葉の切れ端。
けれど、自分の頭の中にあった景色が、自分の手で文字になって紙の上に残っている。
ペンとノートをそっと机の奥にしまい、私は赤くなった頬を両手で冷ましながら、一階のリビングへと降りていった。
朝食を終えたあとのリビング。
テレビからは土曜朝のアニメが流れていたけれど、私の頭の中にはさっき書いた四行の言葉がずっと渦巻いていた。
(……書けたんだ、私にも)
思い出すたびに背中がくすぐったくなって、テレビの画面を見つめたまま、口元が勝手に緩んでしまう。
「……ふふ、ふふふ……」
手で口元を押さえても、笑いが漏れ出して止まらない。
「ねーね、なにしてるのー?」
「あはは、ねーね、わらってるー!」
横で積み木をガチャガチャさせていた蓮と葵が、私の顔を覗き込んできた。
「ふふふー!」
「ふふふー!」
二人は私の真似をして小さな両手で口元を押さえ、体を揺らしてゲラゲラと笑い出した。
つられて私も「ふふふ!」と吹き出してしまい、こたつの前で三人並んで顔を見合わせ、声を上げて笑い転げてしまった。
「もう、朝から三人で何やってるのよ」
台所で洗い物をしていた母が振り返り、呆れたように、でも嬉しそうに目を細める。
「ふふ、みんな楽しそうで何よりだねえ」
縁側でお茶をすするおばあちゃんも、目を細めて微笑んでいた。
朝の光が差し込むリビング。
二階のノートに閉じ込めた小さな森の景色を胸に抱きしめながら、私の心は、春の陽だまりのようにぽかぽかと温かかった。




