都会のルール、田舎の空気
転校して三週目の金曜日。夕暮れの通学路をとぼとぼと歩きながら、私はため息ばかりをついていた。
大型連休が明けて本格的に始まった学校生活は、私にとって目まぐるしいカルチャーショックの連続だった。
東京の学校では、休み時間は自分の席で静かに本を読んだり、仲のいい子と小声でおしゃべりしたりするのが当たり前だった。お互いのプライベートに土足で踏み込まない、適度な距離感という名の見えないクッションがあったのだ。
けれど、この町の小学校にはそんなクッションはどこにも見当たらない。
「志穂ちゃん! 休み時間なんだから外行こ! ドッジボール!」
「え、私、本を読んでるから……」
「えー、本なんていつでも読めるじゃん! ほらほら!」
腕をぐいぐい引っ張られ、断る隙すら与えられない。
教室の中では、誰と誰が付き合っているだの、誰の家が何を建て替えただのという噂話が、まるでニュースのように大声で飛び交っていた。
「ねえ、志穂ちゃんのお父さんって何してんの? お金持ち?」
「お父さん来ないの寂しくないの? 離婚すんの?」
悪気がないのはわかる。屈託のない笑顔で、ただ純粋な好奇心からズカズカと心の内側に踏み込んでくるのだ。
けれど、聞かれたくないことまで笑顔で差し出さなければ「気取ってる」「すましてる」と陰口を叩かれる。みんなの輪に入り、大きな声で話し、同じテンションで騒ぐことだけが「いい子」で「普通」とされる空気に、私の心は悲鳴を上げていた。
母に相談しても、返ってくるのは決まった小言だ。
「田舎はみんな家族みたいなもんなんだから、あんたももごもごしてたら仲間外れにされちゃうわよ」
違う。そうじゃない。
私は私のままで、静かに息を吸いたいだけなのに。
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チク、タク、チク、タク……。
深夜零時。一階のリビングは、昼間の双子の怪獣たちの鳴き声も、母の小言も消え去り、深い静寂に包まれていた。
私はスタンドライトのオレンジ色の明かりの下で、膝を抱えてじっと座っていた。手元には図書室から借りてきた本があったけれど、今日は一行も頭に入ってこなかった。
ギ……ィ。
静かな廊下に、懐かしい床鳴りが響く。
トントンと軽い足音が階段を降りてきて、リビングの引き戸がすーっと開いた。
「……あれ。あんた、また起きてたの」
現れたのは、夜行性の類おばさんだった。
今夜は濃い藍色のリラックスウェアに、髪をざっくりと真鍮のかんざしで留め、鼻先には丸眼鏡。
おばさんは台所で冷蔵庫を開け、麦茶をグラスに注ぐと、私の向かいの席にすとんと腰を下ろした。
「……こんばんは」
私が小さく挨拶すると、おばさんは眼鏡の奥の目をすっと細めた。
「何、あんた。本も読まないで、世の終わりみたいな顔して。幽霊でも見た?」
「……ううん」
「ふーん。まあ、学校で何かあったって顔だね」
見透かされたような物言いに、胸の奥がチクリと痛む。けれど同時に、母には言えなかった苦しさが、せきを切ったように口から溢れ出してしまった。
「……おばさん、私ね、学校のみんなのノリに全然ついていけないの」
「ノリ?」
「うん。みんな距離が近すぎて……ズケズケといろんなことを聞いてくるの。本を読んでると『暗い』って言われて、無理やり腕を引っ張られて外に連れていかれるし。私の喋り方は気取ってるとか、もっと普通に喋れとか……。お母さんは『みんなに合わせて、輪に入りなさい』って言うけど、私、どうしていいか分からなくて。私がおかしいのかな……」
ぽろりと、膝の上に涙が落ちた。
おばさんは麦茶のグラスを指先で揺らしながら、口を挟むこともなく、ただ静かに聞いていた。
やがて氷のカランという涼やかな音が響き、おばさんは呆れたように短く息を吐いた。
「バッカじゃないの」
突き放すような、けれどどこか温かい響きを含んだ声だった。
「あんたがおかしいわけないでしょ。他人の庭に勝手に泥足で踏み込んでくる連中に、なんであんたがいちいち愛想よくお茶出してやらなきゃいけないわけ?」
「え……?」
「あのね、志穂ちゃん。あんたの心は、あんただけの庭なの。誰を中に入れて、どこまで見せるかは、あんたが自分で決めていいの」
おばさんは肘をつき、身を乗り出して私を見つめた。
「あいつらにはあいつらの育ってきた文化があって、距離の近さが彼らなりの『親愛の情』なんだろうさ。悪気がないのは確かだよ。……でもね、悪気がないからって、あんたが傷ついていい理由にはならないんだよ」
悪気がないからって、傷ついていい理由にはならない。
その言葉が、強張っていた私の胸の結び目を、ふわりとほどいていく。
「無理に群れの真似事なんてしなくていいの。借りてきた猫のままでいなよ」
「借りてきた、猫……?」
「そう。知らない家に来た猫ってさ、いきなり喉鳴らして愛想振りまいたりしないでしょ。部屋の隅っこで香箱座りして、目をまん丸にして、耳ピクピクさせて、じーっと周りを観察してるじゃない。『ここはどんな場所か』『あいつらはどんな生態か』ってね」
おばさんは悪戯っぽく口の端を吊り上げた。
「あんたも、観察者になりな。心の中に透明なガラス窓を一枚立てて、その向こうから眺めるの。『へえ、この部族はこういう距離感でコミュニケーションを取る生き物なんだな』ってね。あいつらの土俵に上がって、無理に相撲を取る必要なんてないんだよ」
「……でも、断ったら嫌われちゃうかも」
「嫌われたって死にゃしないよ。攻撃する必要もないし、喧嘩を売る必要もない。ただ、聞かれたくないことには『秘密』って笑って流せばいい。大きな声が出せないなら、静かに頷くだけでいいの。『私はこういうペースの人間です』って、態度で静かに示し続けりゃいいんだよ。そうすりゃ、そのうち向こうも『あいつはああいう奴なんだ』って学習するから」
変わらなくていい。
無理に笑わなくていい。
私は私のペースで、ここにいていいのだ。
「……ねえ、おばさん」
「ん?」
「おばさんも、そうやって生きてきたの?」
ふと尋ねると、おばさんはピクッと眉を動かし、それからグラスを傾けて麦茶を飲み干した。
「さあねえ。私はただ、自分の大事な時間を誰かに邪魔されるのが死ぬほど嫌いなだけだよ」
立ち上がり、空になったグラスを流し台に置くと、おばさんは二階へ戻る前に振り返って言った。
「ほら、さっさと寝な。月曜日からは猫になりきるんだよ」
ひらひらと手を振って階段を上がっていくおばさんの足音を聴きながら、私は胸の中をそっと触れてみた。
そこには、冷たい風を遮ってくれる、頑丈で透明なガラス窓が、確かに一枚立てられていた。




