転校生と魔法のノート②
転機が訪れたのは、ゴールデンウィークを目前に控えた、冷たい雨の降る金曜日の昼休みだった。
グラウンドが使えないため、教室は退屈を持て余したクラスメイトたちのざわめきで満ちていた。真衣ちゃんが「トイレ行ってくるね」と席を立ち、私は図書室へ借りていた本を返しに行くことにした。
雨の日の図書室は、雨粒が窓ガラスを叩く音だけが響く、静かな別世界だった。
返却棚に本を戻し、新しい本を探そうと奥の書架へ向かったとき、ふと、一番奥の隅に誰かが座っているのが見えた。
――西野さんだ。
七海さんは、薄暗い席の机に身を乗り出すようにして、例の真っ黒なノートにペンを走らせていた。
教室で見せるオドオドした縮こまった姿とは、まるで別人だった。
前髪の隙間から覗く両目が、見たこともないほど輝いている。唇をきつく引き結び、何かに取り憑かれたような気迫で、紙を削るようにペン先を滑らせていた。
トツ、と私の靴が床を鳴らしてしまった。
「ひっ……!」
七海さんは過剰なほど大きく肩を跳ね上げ、バッと顔を上げた。
私と目が合った瞬間、彼女の顔から血の気がサーッと引き、慌ててノートを閉じようと両手を伸ばした。
けれど焦った拍子に肘がペンケースに当たり、ガラガラと激しい音を立てて筆記具が床に散らばった。そのはずみで、黒いノートがバサリと音を立てて床へ滑り落ち、開いた状態で私の足元に止まった。
「あ……ご、ごめん!」
私が拾おうとしてしゃがみ込んだ瞬間、開かれたページが、嫌でも視界に飛び込んできた。
そこにあったのは、授業のノートでも、誰かの悪口でもなかった。
繊細なペン画で描かれた、巨大な翼を持つ幻獣と、古びた杖を掲げる少女のイラスト。
そしてその周りを埋め尽くすように、小さな文字で、ぎっしりと文章が綴られていた。
『蒼き月の光が天を裂く時、銀の獣は沈黙の森へと咆哮を放った。少女は震える指先で杖を握り直し――』
息を呑んだ。
一目見ただけで、背筋がゾクゾクとするような圧倒的な迫力。そこには、まったく新しい「ひとつの世界」が呼吸していた。
「見ないで……!」
悲鳴のような鋭い声とともに、七海さんが床に膝をつき、ノートをひったくるように抱え込んだ。
震える手で胸元にノートを押し当て、七海さんは青ざめた顔で私を睨みつけていた。その瞳には、恐怖と、深い絶望と、今にも泣き出しそうな頑なな怒りが張り付いていた。
「……バカに、するんでしょ。どうせ……気持ち悪いって、笑うんでしょ……」
絞り出すような声だった。
前の学校でも、こうやって誰かに見られて、笑われて、気持ち悪いと言われたのかもしれない。彼女がどうしてここまで頑なに心を閉ざし、前髪の奥に隠れていたのか、その理由が胸に突き刺さった。
「……すごい」
ぽろりと、心の底からの本音がこぼれ落ちていた。
「え……?」
「すごいよ、西野さん! これ、自分で書いたの……!? 絵も物語も、本屋さんに並んでるファンタジー小説みたい……!」
私の目は、きっと爛々と輝いていたと思う。
お世辞でも気遣いでもなく、純粋な驚きと感動。
私にとって「小説」とは、大人や有名な作家が書いて、綺麗に印刷されて製本されたものを「読む」だけのものだった。
自分と同じ小学六年生の女の子が、真っ白なノートに自分の手で、ゼロから世界を作り出せるなんて。
そんなこと、生まれてこの方、想像したことすら一度もなかったのだ。
「……嘘。からかわないでよ……」
「からかってない! 本当にすごいよ。ねえ、続きはどうなるの? その杖を持った女の子は、森で何を見つけるの?」
前のめりになって尋ねる私を、七海さんは信じられないものを見るような目で見つめ返した。
警戒で強張っていた彼女の肩から、少しずつ、微かに力が抜けていく。
「……続きは……」
七海さんは胸元のノートを少しだけ緩め、伏せた睫毛を微かに震わせた。
「……まだ、書いてる途中、だから……」
「そっか……! 邪魔しちゃってごめんね。でも、本当にびっくりした。自分で物語を作るなんて、魔法みたいだね」
私が床に散らばったペンを拾い集めて手渡すと、七海さんはおずおずとそれを受け取った。
前髪の奥の瞳が、ほんの少しだけ揺れていた。
「……別に、魔法なんかじゃないよ。ただ……好きなだけ」
蚊の鳴くような声だったけれど、それは教室で聞いた刺々しい拒絶の声とは、まるで違っていた。




