第8話
「あ、そうだ」市ノ川は残った茶粥をかきこんで満足気に座っていると、何かを思い出したのか弾けるように目を見開く。「忘れないうちに、これを渡さないと」床に置いた鞄を膝の上に置き中を探って「良かったら貰ってください」
そう言って取り出したのは、塗り絵と芯の短い小ぶりの色鉛筆のセットだった。小ぶりながら12色入っている。
「日曜日にやってるアニメの……」
「そう、そうです。『少女探偵☆ケース・クローズド!』ご存知でしたか。今や女児にも男児にも、果ては大人にも人気ですもんね。よかったらみくにちゃんにと思って」
「お気遣いくださって……すみません」
「いやいや。うちで取り扱ってる商品なんで、そんな畏まられると申し訳ないです。色鉛筆もイベントで配るノベルティのあまりなんですよ」
「とんでもないです。あの子すごく喜びます。このアニメのファンなんで」
「本当ですか!持ってきてよかった。急に来た場所で不安でしょう……少しでも慰めになればいいのですが。でも明後日の週末に車を出しますから、着替えやみくにちゃんの遊び道具を持ってきましょう」
「何から何までお世話になります」
菜々子は改まって頭をさげると、市ノ川は恥ずかしそうに後頭部を掻いた。
「そういえばみくにちゃんは?」
「寝ています」菜々子がソファに視線をやる。
「あ、ああ、そうか。もう十時ですもんね。子供は寝る時間か。すみません、気が回らなくて。独身生活長すぎて、そういうことに疎いもんだから……」市ノ川は申し訳なさそうに目を伏せた。
「いいえ。みくにのことまで気にかけてもらってありがたいです」
「そう、ですか?」
面はゆそうにまた後頭部を掻いた。彼の癖なのだと気づくと菜々子は年上の男性に対して『可愛らしい人』だと思わず笑みがこぼれた。
「忘れないうちに案内しますね」
くすぐったくなるような雰囲気を変えようと俄かに市ノ川は立ち上がって、着いてきてほしいと菜々子をリビングの外へと促した。玄関からリビングと反対側の廊下を歩いていく。突き当りを左に曲がり、奥の一室に通された。
ベッドと腰くらいの高さの和箪笥、テーブルと椅子、レトロで小ぶりの鏡台と、必要なものが揃っている。クローゼットもあった。しばらく喚起をしていなかった特有の空気のよどみはあっても、室内は綺麗に整頓されている。
「さっき先生からも許可をいただきまして、錦見さんが使っていた部屋をそのまま使用していいそうです。持ち物はまだそのまま残っているみたいです。いずれまとめておかないとだな……」
いずれは家族が取りにくると連絡はあったようだ。しかしまだ一週間ほどしか経っておらず、慌ただしいのだろう。入院した日から連絡はまだ来ていないと市ノ川は言った。
「ベッドが一つしかないんですけれど、しばらくはお二人で使ってもらっても良いですか?僕の記憶が正しければ、錦見さんが使っていない布団の天日干しをしていたはずです。何処に閉まっているかまでは知らないので、それも後日探しましょう」
「はい」
「おっと……すみません。長いことお邪魔してしまいました」
素朴な壁掛け時計に目をやると十一時前を指している。
「そろそろお暇します。此処に伺うのは明後日ですが、困ったことがあれば連絡ください。どうぞ、ご遠慮なく」
玄関先まで見送りに行く際、市ノ川はまた思い出したと廊下で足を止めた。
「この先に風呂場があります。明日からでもみくにちゃんと入浴してください。先生は入りたい時にねだってくると思うので、それまで放っておいて結構です。本当は毎日入ってもらいたいんですが、特に今は無理でしょうね」
締め切りに追われている今、自分のことを構ってはいられないほど追い詰められていると市ノ川は話す。菜々子が了承の返事をすると、また玄関に向かって歩きだした。リビングで鞄を取り、市ノ川はみくにの顔を遠目で覗いた。みくには変わらず眠っており、小さな寝息を立てている。市ノ川は優し気に微笑んで菜々子の方へ振り返った。
「みくにちゃんだけじゃなくて、橋倉さんもどうかあまり根詰めすぎないでくださいね。どうか自分の家のように寛いでください。他人の家で無茶な話だと思われるかもしれませんが、先生は面倒くさい人ですが、決して他人に無理をさせる人じゃないですから、気兼ねなく過ごしてください」
どこまで真剣に受け取っていいのだろうと菜々子は戸惑った。来たばかりの家で仕事ならともかく、寛ぐことは菜々子のどこか生真面目な性格からするとハードルが高い。みくにのことを慮っての言葉かもしれないと曲折してかみ砕いて理解しようとして頷いた。
「これまでの生活と変わらないように、食事や入浴、睡眠はとってください」
菜々子の緊張した面持ちを察したのか市ノ川は困ったように笑顔を浮かべて生活に困らない程度の提言を試みた。具体案を提示されたことで菜々子は目を丸くしながら納得し、小さく首を何度か縦に振った。
「それから、これは先生からの伝言です。食事が美味しかったと。明日も楽しみにしているとのことです。たぶん明日の朝、朝食を食べに降りてくるんじゃないかな」
市ノ川は上に視線を投げながら片方の口角だけあげた。
「今日の夕食作ってあるんでしょう?それを出したら喜ぶと思いますよ」
『先生』は確かに菜々子の料理を平らげて、更にお代わりを欲した。それはただたんにお腹がすいていたからかもしれない。いや、よそう。自分の手料理をおいしく食べてくれたのだと素直に受け止めてみた。それは市ノ川がうまいと言って食べた顔に嘘がないと信じられたからだ。
「ありがとうございます。そうします」
「ええ。そうしてください。では失礼します。おやすみなさい」
市ノ川は頭をさげて出て行った。菜々子は反応が遅く、ドアが閉まった後に「おやすみなさい」と返した。




