第7話
夕飯の準備を終えて、六時、七時を過ぎても『先生』はリビングに降りてこなかった。あまり遅くなるといけないと、みくにのごはんは先に済ませておいた。食後暫くポアロのフィギュアで遊んでいたが、八時には目をこすりうとうととしていた。ソファーに寝かせて、薄手のジャケットを布団がわりにかけた。あっという間に寝息を立てている。朝から連れまわして、そういえば今日は昼寝もしていない。疲れるのは無理もなかった。九時になっても音沙汰はない。『先生』の食事を待たずに先に食べてもいいのかと悩んだが、空腹には耐えられず食事を済ませた。
そして十時頃誰からの音沙汰もなく、コチコチと壁掛け時計だけが鳴り響く。菜々子はローテーブルの前に座り、ソファーにもたれかかって眠っているみくにの様子をぼんやりと眺めていた。昼間の静けさとはまた違い、知らない町の知らない家での夜闇は心細さを増強した。
突如キンコンと高い音が鳴り響く。菜々子は慌てて立ちあがって、インターホンを確認してから玄関へと向かった。
「遅くなりました」
市ノ川の笑顔ではあったが疲労が滲んでいる。
「いいえ。お疲れ様です」
一先ずリビングでと上がってもらった。ダイニングテーブルを勧めると、市ノ川は椅子の傍に大きな鞄を置いて腰を掛けた。ふーっと長い息を吐いて疲れを紛らわしている。菜々子は黒豆茶を淹れるためにお湯を沸かし始める。
「いやあ……今日は本当にすみませんでした。変わったこととか困ったことはありませんでしたか」
「それが、『先生』が今の時間になっても降りてこられなくて。お夕食も召し上がってないんですよ」
「そう、ですか。一度見てきましょうかね」
市ノ川は立ち上がってリビングを出て行った。菜々子はついていこうか少し悩んでやめた。まだ客人側に近い扱いであろう自分があちこち行くのはためらわれる。お茶の用意をしてリビングで暫く待っていると、お茶が少し冷めたころに市ノ川が戻ってきた。
「どうでしたか」
お茶を出すと市ノ川は「いただきます」と会釈して口を付けてから、一気に飲み乾した。
「筆が乗ってるみたいで、あの調子だと今日中には食べないでしょうね。冷蔵庫にでも入れて明日の朝食に出してください。あ、これお代わりもらえますか?これうまいっすね」
「黒豆茶です」
「ああ、あの!こんな味がするんですかね。それは、うまそうだな」
「少し残っていますが、召し上がられますか?」
「うわ、ありがたいな……遠慮なく良いですか」
菜々子は自分が明日に食べようと思っていた分を冷蔵庫に残していた。それを電子レンジで温めて、冷蔵庫にあった梅干しと一緒に出した。市ノ川は手をあわせて「いただきます」と頭をさげてから口をつけた。
「いやあ、これはまじでうまいっすね。錦見さんの梅干しともあうな」
「錦見さん……前の家政婦さんでしたっけ」
「そうです。そうです。錦見さんも、たまにこうやって飯振る舞ってくれたんですよ。この間のことなのに懐かしく思っちゃうな……」
「前の家政婦さんはどうして辞められたんですか」
「ううん……詳しくはなんとも。ただ倒れてしまわれて。今も入院中なんです。退院したら戻られるかなと思ってたけれど、家族からこれを機会に辞めさせたいと仰られて、それで次の家政婦さんを探してたんですけど、当たり前ながらすぐには見つからないのなんの。本当参ってしまって。だから今日橋倉さんが来てくれて助かりました。一先ず一週間お願いしたいんですけれど、大丈夫そう、ですか?」
それまで滑らかに話していた市ノ川は菜々子の様子を伺うように尋ねた。
「雇っていただけるならありがたいです。ですが、『先生』はよろしいんでしょうか」
「多分?」
市ノ川の声が裏返る。菜々子は今日の昼食時に少し話をしただけなので、『先生』から見た菜々子の印象がいいか悪いかは判断つかねた。しかし少なくとも今の市ノ川のように作ったごはんは少なくとも『先生』の反応は悪くなかったと自負している。そのため色よい返事がくるとわずかながら期待していた。
「今もちょっと尋ねてはみたんですが、イエスともノーとも言い難い返事だったもんで。仕事モードに入られてたから、僕の話は上の空なんでしょうけどね」
こういうことは慣れていますといった様子だったが語気に力が入っているようだ。
「そう、ですか」
「安心してください。暫くはこちらでも出来る限りフォローしますし、気軽に構えてください。もしかしたら一週間で橋倉さんの方の意識が変わるかもしれませんしね。こんな家いやだーって」
「そ、そんなことは……」
「冗談ですよ。先生も難しい人ですからね。錦見さんは、歴代の中でも長く勤めてくださったけれど、それまでは一年滞在してくれる人がなかなかみつからなくて」
「どうしてですか?」
「仕事があわなかったとか、先生とそりが合わなかったとか。あとは……」
言い淀んで市ノ川は口を噤んだ。
「まあ、とにかく色々です。先生自身決して悪い人ではないけれど、面倒くさい人ですからね。付き合いが長い僕ですらそう思うときがありますから。冗談とは言ったけれど、もし本当にやってられないと思ったらいつでも正直に言ってください。僕が責任もって掛け合います」
菜々子はなんて返せばいいのか迷った。どう転ぶにせよ、少なくとも力になってくれる市ノ川に、肯定や謝意を述べるべきかと考えたが何も言えなかった。自分が辞める側になると想像出来なかったのだ。
これまでも自分は辞めさせられる側にしか立ったことがなかったからである。




