第6話
家にたどり着いたころには軽く息切れをし、己の体力のなさと運動不足が足腰に響くのを実感する。それでも仕事だから、休んではいられないと、買ってきたもの片づけて掃除にとりかかろうとした。掃除機を探そうと思ったが、まだ来たばかりの家で案内もされていないところを勝手にうろうろするのは忍びなく、キッチン回りとリビングに溜まったゴミの片づけくらいしかすることがなかった。最初こそ、まごついていたキッチン回りも、あらゆる扉を開けたことで、どこに何があるか大体は把握することが出来た。その中でみつけた市の指定ゴミ袋に散乱したゴミを入れて一袋に纏めて、市ノ川からの指示通り玄関先に置いた。
(次の燃えるゴミの日は月曜日ね)
冷蔵庫に磁石で止めてある市内のゴミ出し表を確認する。朝八時半までに指定のゴミ収集場所に置くことを確認して忘れないようにスマホのスケジュールに書き込み、アラームをセットする。
――いつまでこの家にいるんだろう。
市ノ川は最初の一週間、せめて三日だけでもと言っていたが、雇用主である『先生』からは何も聞かされていない。昼食は満足してもらえたのはよかったが、本当にこのまま雇ってもらえるのだろうか。雇ってもらえたとしても他人と暮らすなんてできるのだろうか。みくには慣れてくれるだろうか。それよりも自分自身が他人とうまくやっていけるのか。次々と生まれてくる小さな不安に胸が押しつぶされそうだった。もし断られたら、次の仕事を探さないといけない。早くみくにを楽にしてあげなくちゃいけないのに。
――自分のことも管理できないのに、これ以上続けられるの?
ああ、まただ。耳にこびりついて離れない声が鎖となって体中に巻き付いている。次第に体が重くなって立ち上がる力を奪われそうになる。
「ママ」
薄暗い気持ちに飲み込まれそうになったところで、みくにの声ではっと我に返った。いつの間に足元にいたのだろうか。息を整えて冷静を装い笑顔を作る。
「どうしたの?」
「喉乾いた」
「さっき買ってきたミルクとジュースがあるけど、何がいい?」
「ジュースがいい」
「はあい、ジュースね」
「お菓子も開けていい?」
「うん、いいよ」
みくには嬉し気にリビングへ早足で戻っていく。ローテーブルに広げていた買ったばかりの落書き長と筆記用具を端に寄せて、おやつをエコバッグから取り出した。菜々子は冷蔵庫からジュースを取り出してテーブルに置いてから食器棚を確認する。食器棚の中には普段使いの器が多数あった。子供が持てるようなコップを探してみるが、グラスは薄ガラスのものが多くて子供でも扱えそうなものは見当たらない。四つほどあるマグカップはそれぞれ柄が異なっていて、少なくともどれかは『先生』個人の物だと思うと、手が出しにくかった。
(紙コップも買えば良かったな)
飲み切るまで傍で見守るしかないと、一番丈夫そうなグラスをひとつ選んだ。ジュースを注いでみくにの元へ持っていき手渡した。「気を付けて」と一言添えると、みくには両手で持ってゆっくりと口にした。ローテーブルに置く度に手を貸して細心の注意を払う。
あらかた喉が潤ったみくには、おまけつきのビスケットの箱を慎重にあけて小さなフィギュアを先に取り出した。日曜日の朝にテレビ放映している人気アニメで、世界中の名探偵をモチーフにした妖精と少女が戦う話だ。毎週何かしらの事件が起きるのだが、有名な探偵小説の中で起きる事件を模している、らしい。探偵小説好きにも面白く見られると大人にも人気の作品だ。菜々子は子供向けにしては渋みがあるなと戸惑ったが、みくには毎週欠かさず見るほどはまっている。
「わあ……ポアロだあ……」
小さな妖精のフィギュアを手に持って歓声をあげた。猫のような兎のような可愛らしい造形だ。背中には小さな羽が生えているのもまた可愛い。妖精の顔にはくるんと跳ね上がった黒い口髭を蓄えて、山高帽をかぶっているので一見してポアロとわかるようになっている。みくにはフィギュアをくるくると回していろんな角度から眺めている。
「ねえ見てママ、パ……ポアロだよ」
みくにの笑顔に陰りをみせる。菜々子はみくにが何を言おうとしているのか即座に理解が出来た。同じことを思っていた。みくにと一緒にハマって観ていた――かつての夫の笑顔が脳裏に蘇る。日曜日の朝、仕事で疲れている夫は少しでも長く眠りたいはずなのに、必ず九時前には起きて、朝食を済ませて、テレビの前でみくにと一緒にアニメを見た。子供向けのアニメでしょう?と笑ったら、これは大人も楽しめるんだと力説していたのは夫だ。そんな夫が一番好んでいたキャラクターがポアロだった。
「そうだね。可愛いね、ポアロ」
菜々子はみくにを抱き寄せた。膝の上にのせてフィギュアを一緒に眺めた。みくにの中にはあの笑顔の夫がまだいてくれるのだろうか。そうだといいなと菜々子は願うしかできない。




