第5話
『先生』は食べて終わったら、仕事をすると言って二階へと上がっていった。残った茶粥とおかずをみくにと二人でわけて食べた。
「もういいの?」
みくには少し食べたらおなか一杯と突き返した。急に知らない人の家にあがってきんちょうしているのだろうと菜々子は無理に進めなかった。自然とおなかが空いたときに食べられるように、残ったものお皿ごとラップをして冷蔵庫に片づける。
市ノ川から頼まれたのは掃除と買い出し、それから夜ご飯の準備だ。リビングのテーブルでみくには渡した小さな紙切れに、使い慣れていないボールペンでおえかきをしている。知らない家に一人置いていくのは心細くなるだろう。日が高い間に、買い出しに行くことを決めた。
預かった鍵で戸締りをしてから、タクシーで登ってきた坂道をゆっくりと歩いて下っていく。周りはさまざまな家が立ち並んでいる。昭和の懐かしさを覚える古い住宅が多く、古くから人々が根付いた土地のように思える。その中でも『先生』の家はよりレトロな佇まいだ。平日の午後、まだ学校や仕事で人が出払っているからか、ひっそりとしていた。
坂道を下ると、市ノ川から貰った簡素な地図でもたどり着けるくらい、すぐ近くに商店街があった。小規模ながらに日々の生活がすべて整うくらいに店が揃っており、暮らしやすそうだと直感的に思った。
菜々子は事前に作った買い出しのメモを片手に順々に店を巡っていく。
「おや、あまり見ない顔だねえ」
そう話しかけたのは肉屋の中年女性の店員だった。幅のあるショーケースには牛肉、豚肉、鶏肉といった生の肉から加工肉まで揃っており、定番のコロッケ、惣菜まである。
「こ、こんにちは」どう返事をすればいいのかわからず、一先ず挨拶をしてみる。みくにも菜々子に倣って小さな声で挨拶をすると、女性店員は嬉しそうに「あら、かわいい」とみくにを褒めた。
「引っ越してきた人?」
「そういうわけではないんですが……」
「ふうん?」
あやふやな返事をしたせいか、怪訝そうな顔をされた。いたたまれなさを隠すように愛想笑いを浮かべて、ショーケースを覗く。
――お昼に豚肉を使ったから違うお肉がいいかな。
しかし牛肉は今の財布事情からすると買いにくい。出かける前に買い出しのお金をいただくのを忘れていたことを思い出した。仕事に戻った『先生』に尋ねることも、わざわざ市ノ川に電話して確認することもはばかられ、ひとまずは自分の財布から出すことにした。財布の中身は決して潤ってはいない。ハローワークから直接連れてこられるとは想像もしていなかったので、余分なお金を入れていなかったのである。必要最低限の材料を買って帰るとして、米は必ず必要だ。残ったお金から換算すると今日一日の食事代がぎりぎりだった。
ショーケースの前で悩んでいると、あとから来た二人の常連客らしい人が菜々子より先に会計を終えていた。値札の傍に『今日のおすすめ』と目立つポップを見て、菜々子の頭の中で晩ご飯は親子丼にしようと決まった。
「すみません。鶏もも肉を二百グラムほどいただけますか」
「あいよ」
女性はケースを開けて、ビニール手袋をはめた手で固まりをとりあげた。計量器にのせると二百三十グラムと表示される。
「こんなもんでどう?」
「大丈夫です」
そう返事すると、少し鶏肉を浮かしてから会計のシールを印刷した。菜々子が驚いていると、女性はにやりと笑った。
「初めてのお客さんだからね。サービスサービス」
「す、すみません。ありがとうございます」言われるがままの金額を払ってレシートとをもらう。
「あと、これもね」
そう言ってカウンター越しに大きく乗り出すようにして差し出したのは飴玉の籠だった。「好きなの選びな」と言われて、みくには戸惑いながらも、飴玉の魅力抗えないのか手を伸ばした。
「ありがとうございます」細々とした声でお礼を言うと「お礼言えて偉いわねえ。また来てね」と返されてみくには少し嬉しそうだった。
店を後にする際にも、みくにに手を振っていた。みくにもまた嬉しそうに手を振り返していた。
「良かったね」
「うん」
「戻ったら食べようね」
「うん」
みくには大事そうに飴玉を手に持っていた。お菓子があれば少しは気がまぎれるだろうか。米と卵を買うために小さなスーパーに立ち寄った。五キロのお米を買い物かごに入れて卵をその上に乗せる。一度レジで会計を済ましてから、もう一度中へ引き返した。
「お菓子選んでいいよ」
みくにの目が輝いた。ぱたぱたと早足でお菓子コーナーに向かう。あれこれ手に取って吟味して、おまけつきのビスケットを選んだ。数日あの家にいるとなるとみくにが飲めそうなものも必要となる。ジュースと牛乳も買い足して、一人で遊べるように鉛筆と落書き長も買い足した。
買い物が終わった頃には荷物が肩にのしかかる。持ち歩いているエコバッグにお米を入れて右肩にかけ、左手で残りの食材や飲み物を持った。みくにのお手伝い用の小さなエコバッグにお菓子と鶏肉を持ってもらう。
――あの坂道を上らないとダメなのね。
生まれてこの方、坂道に縁のなかった土地に住んでいた菜々子には、なだらかな帰り道ですら登る前から音を上げたくなる。先が思いやられるなとため息をつき歩みを進めた。




