第32話
太陽がすっかり傾いて、そろそろといった時間になった。菜々子は八千江の少ない荷物を車に運び入れると、玄関はいつもの様相に戻っただけなのに物寂しく感じる。
「今日は本当にありがとうございました」
錦見夫妻は車の前で深々と頭をさげた。十和子も同じように頭を下げるのを追いかけるようにして菜々子もお辞儀をする。
「あ、そうだわ。忘れるところだった。菜々子さんにお渡しするように言われてるものがあるんですよ」
一度も顔を合わせたことのない自分になんだろうと「私にですか?」と訊ねると綾香は「ノートはどの箱に入っているのかしら」とトランクを開けた。
ああ、確かにあったなと、車の後部座席やトランクに運び入れた箱のうち、トランク側に少し重い本類を入れたと傍に近づいて「これですね」と指さす。綾香は箱を開けて、一番上に置いてあるノートの束のうち一冊ずつめくって確認する。
「これね」
そう言って綾香は両手で菜々子に差し出した。
「此所での仕事でまとめたノートなんですって。少しは役立てるかもしれないから、よかったら使って頂戴」
「ありがとうございます」
菜々子は恭しく、まるで卒業証書か賞状をもらうときのように、畏まって両手で受け取った。
夫妻は車に乗り込んだ。ゆっくりと道へと出る。綾香は窓を開けて「さようなら」とずっと手を振っていた。足下にくっついて菜々子の手を握っていたみくには、もう片方の手を振って見送り、車が見えなくなるまでずっとそうした。車が見えなくなっても、なんだかそこから動けない気持ちでいた。胸に収めた八千江から託されたノートをぎゅっと手に力を込めた。
先に十和子が家の中へと戻ろうと動いた。その背中を追い越してみくにが先に玄関へと走り出す。菜々子は門扉を閉めて、郵便箱をのぞき込み、今日届いているチラシを取り出してから家の中に入った。
「菜々子ちゃん」
夕食まで遊んでるとみくには和室に行く。お夕食までねと言ってからリビングに戻ろうとする菜々子を十和子は引き留めた。
「はい。なんでしょうか」
「こっちに来て頂戴」
手招きする十和子の後ろをついて行く。向かう先は八千江が使っていた部屋だ。
「この部屋ね、よかったら菜々子ちゃんが使ってくれないかしら」
誰もいなくなった部屋でも換気と掃除はかかさずやっていたので、部屋の主を失って寂しげではあるものの、窓から吹く風が心地よく清潔な匂いがする。
「まだみくにちゃんは小さいし、寝るときは和室を使ってもらっていいんだけれど、普段の生活でプライベートも必要でしょう?」
プライベートなんて言葉、当然言葉の意味、いやなんとなくの概念は知っているつもりではある。しかしみくにが生まれてから、自分の辞書からは落丁したかのように失っていた。それが不便というわけではなく、子供と過ごす時間が当たり前になっているだけである。そんな菜々子の心中を読み取ったかのように十和子は続ける。
「子供が小さいうちは、プライベートなんて時間をとるのも難しいかもしれないけれど、自分の部屋があるって頭の片隅にでもおいていて。子育てから少し離れたい時には、私がいること忘れないで頂戴ね」
ついさっきまで錦見夫妻と話していたことを思い出す。
——八千江さんは当たり前の生活を与えてくれた人です。本当の子供に接するように、起きたら歯磨きをして、ご飯を食べる。夜はお風呂に入って、お布団に入る。そんな当たり前の生活を失いかけていた私にもう一度教えてくれた人。どん底からすくい上げるというのはこういう些細な生活のことなんだと教わりました。結局、今も仕事は取り戻せたとは言えないけれど、まだしがみついていられるのは、八千江さんが来てくださったからです。
あまりにも当たり前でささやかなことであるが、菜々子には心の奥にじゅわっと染み入った。深いところに沈めて閉じた、それほど遠くない記憶に触れた気がしたが、今はまだそれに気づかないふりをする。
「ありがとうございます。八千江さんのように、なんて大きなことは言えないけれど、その……がんばります」
せっかくいただいた自分に合う仕事なんだから気を引き締めて頑張らなくちゃと心の中で決意をした。
「気楽にね」
十和子は軽く菜々子の肩を叩く。その手は頼もしさと熱が籠もっていた。いつだって苛まれている突然に浮かび上がる不安は、この瞬間、パチンと弾けたような音がした。
此所にいていいんだ。誰かに言われたからじゃない。自分でそう思えたことは、菜々子にとって安心感と少しの自信が芽生えた。
自室へと戻る十和子の背中を見送って、菜々子は和室で遊ぶみくにを確認してからノートを持ってリビングへと赴いた。食卓にノートを置いて食器を流しに運び、ひとつひとつ丁寧に洗い上げていく。水切りラックに皿と紅茶のカップが行儀よく並べられる。水道野栓を閉めて手を拭き、時間を見ると四時過ぎ。夕食の準備にはまだ早い。




