第33話
「いただきます」
三人は声と手を合わせて夕食が始まった。十和子は仕事が一段落し数日ぶりに食卓を囲んでいる。心なしか清々しい顔をしていた。
つけっぱなしのテレビからは明日の天気予報が流れている。明日の昼から梅雨の間の晴れが数日続くと伝えていた。
「夏も目前ねえ」
「ええ。すぐに暑い日が来そうです。明日にでもエアコンの掃除をしましょうか」
今年は梅雨の時期でも気温が例年より高く一足早く扇風機を出して各部屋で回していた。この暑さでは梅雨が終わればあっという間に事足りなくなりそうだ。
「いつも頼んでいる業者があるわ。どこかにメモしていたかしら……」
「それでしたら八千江さんのノートにかいてあると思います」
八千江の息子夫婦が来訪した際にいただいたノートには、此所での仕事の内容が詳細に記載されていた。
「それじゃあ、お願いするわね」
菜々子は笑顔で首肯した。隣で黙々と筑前煮を食べ続けるみくには、綺麗に皿の隅ににんじんをよけている。菜々子はお箸でつまみ上げて口に運ぶのを手伝う。いやいやと首を横に振るみくにに、デザートのりんごと引き換えに一個だけ食べるように促した。
「どうかなさいました?」
箸が止まっている十和子は唇を少し噛んで考え事をしているようだ。そして意を決したように箸を置いて菜々子の方へと双眸を向ける。
「菜々子ちゃん、明日の朝、書斎の掃除をお願いできるかしら」
十和子は緊張した面持ちで言った。僅かに声が震えている気がする。
「書斎にもエアコンがあるから、その……」
菜々子たちが共に暮らすようになって数ヶ月経つが、相変わらず書斎だけはこれまで入室を許されていなかった。
「それなりに掃除はしているつもりだけれど、よその人に入ってもらうような状態じゃないから……」
恥ずかしげに視線を外す十和子に、菜々子は居住まいを正し「わかりました」と返事をする。それでも十和子は緊張を解くことができない様子でそわそわと再び箸を持ち食事を再開する。
「先生、良かったら手伝ってもらえますか?」
「え?」
「えっと、その……勝手がわからないから、見張ってもらえたら、いや、見張ると言うより、その……」
一緒に暮らすようになったとはいえ、八千江が病院に運ばれてから初めて他人が自分の聖域ともいえる仕事部屋に入ってもらうのはどれほどの勇気がいるのだろう。うまい言い訳が思いつかず口をもごもごとしていると、十和子は察したのか眉を開いた。
「ええ。手伝わせて頂戴」
十和子は少し安心したようで残っているおかずに手を伸ばして陽気に咀嚼した。
「みくにちゃん、一個だけ頑張ろう」
十和子はみくにの皿に残っていたにんじんに箸を伸ばした。口を尖らせていたみくには観念したように、自分でにんじんを箸で刺して怖々と口へと運んだ。苦々しく顔を歪ませて泣き出しそうな顔をする。にんじんひとつにこの世の終わりを嘆いているような顔だった。五回程かみ砕くとすぐにプラスチックのカップに手を伸ばしお茶で流し込んだ。
「えらいえらい」
菜々子はみくにの頭を撫でてから、すでに終わった食器を運び出し、ご褒美のリンゴを用意しにキッチンへと向かった。
次の日の朝、天気予報通りまだしとしとと雨が降っていた。食事と洗濯を先に済ましてから、エアコンの掃除を頼むために電話をすると、快く引き受けてくれた。
「明日には来られるようです」
「そう。助かるわ」
ジメジメとした暑さだ。同じように業者に掃除を頼む人は少なくないだろうと懸念はしていた。電話の向こうではそんな心配を晴らすような声で快諾してくれたのである。
「それじゃあ、早速始めますか?」
菜々子は掃除機を持って十和子に問いかけると神妙な面持ちで首肯した。
十和子を先導に二階へとあがる。菜々子はドキドキしていた。それは緊張よりも作家の部屋とはどんなものだろうという好奇心からだった。十和子の過去を知っているからこそそれが不謹慎だとわかっていたが、頭の中で想像がくるくると勝手に巡るのは止められなかった。十和子は書斎の前で一度深呼吸してから、重々しくドアノブを押して開けた。
部屋はカーテンが開けられており部屋全体が薄墨がかっているようだった。そこには想像していたような壁一面の本棚とそれを埋め尽くす大量の本。重厚な木目調のデスクにはノートパソコンが一台にペン立てとアンティークの電灯。そして回転椅子も古めかしい。窓際には簡易のパイプベッドが設置してあった。
「何を手伝えばいいかしら」
うっとりと見とれている菜々子を引き戻すかのように十和子が問いかける。
「そう、ですね。上から埃を払って掃除機をかけたり、床の水拭きを。普段の掃除と変わりなくできそうです」
思ったよりも部屋は綺麗に整頓されており手伝いは必要なさそうだ。しかし目の届く範囲に居たいだろうから、ひとまず乾いたタオルを手渡し、机や本棚を拭いてもらうようにお願いした。
「家事はお得意じゃないって仰っていたけれど、本当はそうでもないですよね?」
菜々子は手を動かしながら横目で十和子を見ながら言った。手際がいいとまでは言わなくても、言われたとおりに拭き掃除をやっている。
「得意ではないわよ。夫からも君は手抜きが得意だねって言われるくらいにはね」
嫌みの強い皮肉かと思ったが、どうやらそうではないらしい。そう語る十和子の横顔は懐かしげに嬉しそうに語った。
「それに娘がいたから、苦手でもやらざるを得ないって感じで……あの子にはきっと母親としては失格だったんだろうけれど」
十和子は本棚の一角にある写真立てを手に取った。愛おしそうにそれをじっと見つめている。菜々子は近寄って横からそれを見せてもらうと、若かりし頃の十和子と共に映っているがたいのいい男性と、みくにと同じ年頃の満面の笑みで映っている少女がいた。幸せを凝縮したようないい写真に菜々子も思わず笑みがこぼれる。十和子も笑顔ではいたが、同時にさみしげにそれを見つめていた。




