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幸福なシンデレラ  作者: 桝克人


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幕間

「こんなの納得できません。先生は今でも苦しんでいるのに」


 どちらも矛を収めることで解決に導いた当の事件はしこりを残して終えた。市ノ川は机を挟んで前のめりになり編集長に噛みついた。怒りで沸騰している市ノ川と違い編集長は首を横に振り溜息をつく。


「気持ちはわかるが、この間長い連載が終わったばかりだ。世間の話題は彼女の作品の話で持ち切りだろう。まだまだ熱がある。この熱の中にスキャンダルなんて入れてみろ。どうなるか君にもわかるだろう」


 編集長の冷めた言い回しに市ノ川はぎりっと歯で歯を噛み砕くように力を籠める。


「しかしですね……」

「これ以上はどう足掻いても無意味だよ。とにかく今は次回作の準備に取り掛かってもらいなさい。十和子先生みたいなタイプは仕事をさせるのが一番だ」


 すげない態度でやれやれと立ち上がり、ズボンのポケットに手を突っ込んで部屋を出た。このまま喫煙所に行くのだろう。いつも問題が起こると喫煙所に行くので文芸編集内でも「これぞ煙に巻くってことか」と苦笑いをしていた。編集長を問い詰めたところで大した結果にはならないと察した市ノ川はぶつける場所のない怒りを自身の中で治めるしかなかった。


 当人の十和子の傷は他人が思うよりも深いことを誰も気づくことはなかった。今は辛くても時間が解決する。少し休めばまた書き始められる。それが彼女の仕事であるのだから。社内でも楽観的な様子が見て取れた。


 市ノ川自身もそうであって欲しいと思ってはいるが、十和子の性格をこの部署内では誰よりも知っている。良く言えば繊細で、それが作家としてはより良く作用している。悪く言えばあまりにも傷つきやすく、内に籠るタイプである。それでも情熱はあるし責任感も強いので仕事をしている間であれば、さほど心配はなかった。しかし連載を終わ次の連載が決まっていない今だからこそ、このまま作家人生を手放してしまうのではないかと不安が付きまとっている。


 編集長をはじめ、周囲からもまだファンがついている間に次へと進むべきだせっつかれていた。世間は次回作を望み、鉄は熱いうちに打てと言わんばかりに急き立てられていた。一編集としてそれは重々承知していた。どうにかして作家としてもう一度奮い立たせることが市ノ川の今一番の仕事なのである。


 市ノ川は何度か家に足を運んで次回作の打ち合わせをしたが、想像以上に話はうまく進まなかった。それはアイデアが枯渇してしまったのではなく、目に見えて十和子自身が衰弱している様子が分かったからだ。


「先生、どうして出てくれないんですか」


 電話をしても出なくなり、家に行ってインターホンを押しても出てこない。緊急時に持たされていたカギを使って中に入ると空気が澱んでおり、もわっとした嫌な空気に咳込んだ。大抵仕事部屋かリビングにいるので、ひとまずリビングへ行くと、電気が付けられておらず、薄暗い中で十和子はソファーに横になっていた。市ノ川は電気をつけて、そう声をかけると、十和子はうすぼんやりと目を開けた。


 市ノ川は閉め切られたカーテンと窓を開け放ち、空気の入れ替えを試みる。窓の桟に埃がたまっていたのか咽かえる。改めてリビングを見渡すと食事で出たであろうゴミが散らかされている。


「またこんなのばかり食べて」


 ローテーブルにはピザの箱が置かれており一切れだけ食べた様子がある。市ノ川はキッチンに放置してあるラップを持ってリビングに戻り、ピザを一切れずつ包んでいく。


 食事はピザなどの宅配物に頼っていた。一度頼むとそれだけで数日過ごしているようで、栄養が全くと言っていいほど足りていない。美容に詳しくない市ノ川から見ても肌や髪が荒れていた。また碌に入浴もしていないせいで不潔な臭いがこびりついていた。


「とにかく準備しますから風呂に入ってください」


 寝そべったままの十和子に言い放ち、浴室へと向かった。大学に進学してからずっと一人暮らしをしているおかげで雑ながらも家事はお手の物だ。風呂場においてある洗剤を適当に振りまいてブラシでこすりシャワーで流す。泡がなくなったのを確認してから湯船にお湯をため始めた。


 リビングに戻っても十和子は一ミリも動かず寝そべったままだった。市ノ川は溜息を抑えるのが精いっぱいで眉間にしわを寄せながらゴミを集める。食卓の傍に適当に置かれたゴミ袋にいれた。


「もう、いいのよ」


 ゴミ袋がガサガサと擦れるまぎれるようにしてかすれた声がした。市ノ川の耳には言葉は聞き取れなかったが手をとめる。


「なんて言いましたか?」

「もう、ここに来なくてもいいわ」

「それは、どういう意味ですか」

「そのままの意味よ。何度も足を運んでもらって悪いけれど、もう書く気はないわ。作家生活は大事なものを失った。そのあげくが今回のことよ。今後私の身の回りを探る人がもっとでてくるかもしれない。そんなの耐えられないわ」


 力ない声には涙がにじんでいる。市ノ川は立ち上がり、怒りを抑えようと食卓の上に乗せた手で拳作り震わせた。


「許さない」

「なんですって?」


 十和子はようやく体を起こして睨み付けたが、すぐにその顔は驚きにかわる。


「そんなこと絶対許しませんよ。あんな変態女のためにあなたの才能をここで終わらせるなんて許しません。こんなことで潰えて良い才能なんかじゃない!」


 震えている拳で食卓を大きな音を立てて叩いた。


「僕が必ず書かせてみせますから。たとえ何年かかっても、絶対に。そのためにも今は休む時です。いくらでもだらけてもらって構いませんよ。でもね、いずれ立ち上がる日のためにまともな生活をしてください。いいですね」


 十和子はぽかんと口を開いて返事ができなかった。


「いいですね?」


 市ノ川が念を押して言うと、十和子は小さな声で「はい……」とつぶやいた。


「それなら、まずは風呂に入ってその汚れをしっかり落としてきてください」


 丁度風呂が沸きあがった音が鳴った。市ノ川はリビングから十和子を追い出した。

 ゴミを片付けながら目を擦る。このままでは終わらせてたまるかと決意を胸に。

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