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幸福なシンデレラ  作者: 桝克人


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30/34

第30話

 それからのことはよく覚えていない。市ノ川を始め、編集長、更に上の人が出てくる事態にまでなり、収束させるまでに骨を折ってもらった。後から聞いた話では警察沙汰にしないことを条件にして二度と近づかないことを約束させたという。実のところ、被害届を出すには何も取られていないことや実害がなかったので出来なかったらしい。ストーカーになるのではないかと市ノ川は訴えたが、女性と女性の親が大粒の涙を流し、金輪際先生には近づかないとしきりに頭を下げるもので、話し合っても平行線にしかならなかった。結局弁護士をたてて一筆認めるまでにしかならなかった。一連の出来事を報告する際、市ノ川は悔しそうに話していたが、十和子はもうどうでもいいと冷めた気持ちで聞いていた。


 それからの十和子の生活は悪い意味で大きく変わることとなった。ただでさえ一人ではまともな生活ができないのに、新たに家政婦を迎えることを恐れてしまった。それにより生活は荒れた。仕事どころか生活することさえままならなくなりかねないので、唯一家に入ることを許され鍵を託されていた市ノ川だけが週に一度様子を見に行った。しかし仕事を大量に抱えている市ノ川にそういった生活が長くは続くわけがなく、新たな家政婦を探し始めた。


「先生、この人どうですか」


 事件から二か月が経とうとする頃だ。まともな食事をしないせいで、すっかりやせ細ってしまった十和子の前に差し出された一枚の紙は履歴書だった。市ノ川は職業紹介所に募集をかけてもらっていた。応募はあったものの、冷やかしのような人や、適当に家事をすればいいと見下した人のように端から数に入っていない場合がいくつかあった。当然断ったが、一見まじめな人や人当たりのよさそうな人でも慎重に選び、ようやく一人に絞ったのが錦見八千江という女性だった。


 十和子はそれに目を落とすがすぐにかぶりを振る。


「まだそんな気にはなれないわ」

「そういっても、僕一人では先生の生活を補助するのは無理です。気持ちは重々承知していますが、家政婦を雇ってもらわないと。それとも別れた旦那さんを呼び戻しますか」


 市ノ川は奥の手を出すと十和子はそれは絶対無理だと言って大きく首を横に振る。嫌がることをわかっていてとった手段に自分でもずるいなとは思いつつも、自身の生活にまで影響が出る前に手を打つほうが重要だった。市ノ川は「ですよね」と息をついてから話を続けた。


「実はね、この人に一度会ってきたんですよ」


 十和子は驚いて顔を上げた。


「家族構成は亡くなられた旦那さんと息子さんがお一人。結婚なさっててお嫁さんと孫が三人いらっしゃる人です。長らく専業主婦でおうちのことを一手に引き受けていた方なんですって。一年前に旦那さんを亡くして気落ちしているところに、息子さんご家族が心配なさって、外で働い気晴らしすることを勧められたんですって」


 しかしこれまで働いたことがないため、経験がないことを苦にしているところに、家事代行サービスを職員から勧められたと話す。十和子は初めて履歴書をとりあげた。字の大きさが揃っている几帳面そうな字で書き連ねられている。確かに経歴のところは卒業校のことしか書かれていなかった。


「今住んでいる家には息子さんご家族が戻られるそうで、錦見さん自身はこちらに住み込みも可能だって言ってましたよ」


 住み込みの募集はそれだけでもハードルが高くなる。それもあってしばらく見つかることはないと思っていたが、予想外にもすぐみつかったことに十和子は驚愕していた。


「どんな人だった?」

「よく笑う朗らかな方でしたよ。多少緊張はなさっていましたが、訊かれたことには正直に答えているのも好感でした」

「何を訊いたの?」

「スキルとか所持してる資格とかですが……」

「家政婦の仕事にいる質問なの?」

「自動車免許を持っていたら便利でしょう?あとは調理師免許を持っていたら料理は上手なんだなって思うし。でもどれもお持ちではありませんでしたけど」


 なるほどと頷きながら履歴書に目をやった。資格の欄は所持なしとの記載がされている。


「とにかく一度だけでも会ってみましょう。合わなければお断りすればいいんですから、ね」


 市ノ川の必死さに十和子は心苦しさを覚える。仕事の合間に仕事以外のことで煩わせていることが申し訳なくて、未だ癒えていない傷をぐっと堪えた。


「わかったわ。でもひとつお願いしてもいいかしら」


 その場で伝えられた願い事に市ノ川は一度は迷いつつも了承し、先方とのやり取りの結果、次の日曜日に家に来てもらうこととなった。

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