第29話
女性の無邪気さは限度を知らないようだった。悪気のない悪意はまるで家の土台を食い尽くすシロアリのように十和子の心を蝕んだ。十和子は市ノ川に助けを求めようとしたが、時期が悪かったとしか言えない。十和子の仕事も落ち着いていたころだったことと、市ノ川は別の仕事で立て込んでいたことで、なかなか連絡がつかなかった。十和子はスケジュール帳を捲っていると、次の打ち合わせは一週間後となっていた。それまで我慢をしてその日に相談すればいいかと溜息をついて手帳を閉じた。
突如ノックが鳴り、十和子は心臓が止まりそうな感覚がして体が強張った。
「は、はい……どうぞ」
「失礼しまあす」
甘い声がしてドアが開いた。
「お昼ができたので下で召し上がっていただいている間に、このお部屋の掃除がしたいんですけど」
「え?ああ……」
時計を見ると十二時を少し過ぎたころだった。胃のあたりがねじれている様な感覚を覚えて食欲はわかない。
「ありがとう。今はちょっと食欲がわかないから、後でいただくわ。掃除もいいから」
「ええ?大丈夫ですか?病院に行ったほうがいいんじゃないですか」
女性は駆け寄ってきて十和子の額に触れようとした。思わず十和子はのけぞってその手を振り払うと、女性は目を大きく見開いて驚いた。
「あ、ああ、ごめんね。大丈夫だから、心配しないで」
「そうですか?じゃあ、お昼ご飯は冷蔵庫に入れておきますので、いつでも召し上がってくださいね」
女性はにこりとほほ笑んでから部屋を後にした。十和子は耳を澄まして階段を下りる音を確認してから、息を長く吐いて体の力を抜いた。
疑心に苛まれる日が続くと異変は心だけでなく体にも現れてきた。一週間だけ我慢をすればいいと考えていたが、自身の心も体も理解できていなかったのだと今なら思える。すぐに体に現れたのは腹痛だった。そして食事が喉を通りにくくなった。そして纏わりつくような恐怖は睡眠にも影響した。それらはわずか三日、四日で現れて十和子の日常生活を壊していくこととなる。
そして決定打になったのは五日目のことだった。
「先生?すごい隈出来てますよ」
女性は自身の目の下を指さした。
「ああ、うん……ちょっと寝つきが悪くてね」
「ええ?やっぱり病院に行ったほうがいいですよ。この間からずっと具合が悪いじゃないですか」
「そう、ね。また考えておくわ」
「それに食事も全然召し上がらないし」
目の前に並んでいる昼食に視線を落とす。普段なら喜んで食べるが、コロッケやらメンチカツといった揚げ物を見るだけでも胃がひっくり返りそうになる。
「せっかく用意してくれたのに、ごめんなさいね。残りは夜にいただくから」
女性は口を尖らせて「いいえ」と小さく呟いた。
十和子は仕事部屋に戻りシングルベッドに横になった。寝室は別にあり、仕事部屋の小さなベッドは仮眠用のものだ。離婚してから此処でばかり寝ている。いちいち寝室に行くのも面倒であることと、元夫と使っていた大きなベッドは広すぎて寂しさが募るばかりだったからである。十和子は深い息をついて目を閉じる。女性が家に来てからのことを振り返る。家事はきちんとしてくれるし、不満も言わない。一生懸命仕事をこなしてくれている、と十和子は思う。——感謝こそすれ、不満を持つこと自体が烏滸がましいことだ。
ベッドや敷布団を伝って地響きのような背中を響かせる。耳の奥を突き刺すような不快な音だ。女性は二階の掃除をしているのだろう。段々と近づいてくる。十和子はその音から逃れようと掛布団を頭からかぶり耳を塞ぎ時間が過ぎるのを待つしかなかった。
夕飯は昼ご飯の残りを食べてから、風呂の準備をしてもらい、ゆっくり湯船に浸かれば気分も変わるだろうと、ため込んでいた未読の本を一冊取り出し風呂場に持ち込んだ。お願いしたように温めの温度だった。全身をくまなく洗い流し、生まれ変わったような気持で湯船に身を落とす。二枚ある風呂の蓋を一枚だけ被せてテーブルのようにして肘を置き本を開いた。一頁、二頁と読み進めていくが、どうにもおかしいと目を擦る。目がかすんでいるわけではなさそうだが、視界に入る文字がつるんと滑るようにして逃げているような感覚がする。おかげで同じ文章を何度も読み直すはめになり、思うように読書は進まなかった。これ以上続けてもストレスがたまる一方だったので、大人しく本を閉じて風呂から上がった。
寝間着に着替えて読めなかった本を手に取り仕事場へと戻る。階段を上がる前に妙な胸騒ぎがした。やけに静かな一階に違和感がある。時間は二十時。いつもより少し早い風呂の時間だった。十和子は足音を立てないように、ゆっくりと、慎重な足取りで二階へとあがる。廊下の薄明りが作る影が足を引っ張っているようでやけに重かった。十和子は仕事部屋の前で立ち止まり耳をそばだてる。中から物音がした。夕飯に食べた油が回った揚げ物が上へと上がる感覚がして口を覆った。十和子は我慢ならずドアを思いっきり開けると、女性は大きく肩を跳ね上げてこちらを見た。目を大きく開け、顔を引きつらせている。十和子の仕事用の机の引き出しを開けて屈んでいた。
「何をしているの」
極力感情を抑え込みながらも怒気は漏れ出した。女性は震える口元を無理やり笑顔を作り上げる。
「えっと、その、お掃除を」
「引き出しの中までお願いした覚えはないわよ」
「そう、でしたっけ?」
女性は「ええ」とか「ううん」と声を漏らしながら、ゆっくりとした動きで、手に持っていたものを引き出しに入れて机から離れた。
「お片付け、したほうがいいじゃないですか。そのお手伝いをしようと思っただけで」
女性に視線を絞っている十和子に対して、女性の視線は十和子を映さないように漂わせている。その場からすぐにでも逃げ出したいのは女性の方だったはずだ。しかし十和子は問い詰めてやりたい気持ちよりも頭が締め付けられる感覚に悩まされていた。
「とりあえず出て。すぐに」
女性はほっとした顔を滲ませて「しつれいしまあす」と笑顔を張り付けて出て行った。
十和子はすぐに開けられた引き出しを確認する。一番上にあったのは、アイデアを書き留めているコピー用紙だった。十和子は力が抜けてその場に座り込んだ。なぜ女性がそれを手にしたのか、考える余裕もなかった。十和子は机に手を伸ばしてスマホを手に取り、電話を掛けた。何コールも鳴らした。やけに時間が長く感じ、息が詰まりそうだった。
——はい。市ノ川です。どうかしましたか。
「すぐに、来て頂戴。お願いだから」
床にぽたりぽたりと滴が落ちる様子を眺めながら震える声で懇願した。




