第28話
「それにしても、長いことご厄介になったもんですね」
紅茶をすすって泰之はぽつりとつぶやいた。菜々子はみくにを膝にのせて同席していた。みくには我関せずといった様子で黙々と目の前のいちごのショートケーキに夢中になって味わっている。
「結局何年働かせてもらったのかな」
「もうすぐ、十年になるところでした」
「いやはや、そんなになりますか。これはこれは、本当にお世話になって……」
「こちらの方こそ。八千江さんが来てくださったからこそ、今の私があるんです。それこそ、八千江さんがいなければどうなっていたことか」
十和子は目を伏せてわずかに波打った紅茶に目を落とす。鏡をみるようにそれをじっと見て、遠くの記憶に思いを馳せている。
「自分で言うのも恥知らずと思われましょうが、疾うの昔に別れた夫も愛想をつかすくらいに生活力があまりにもないし、かといって人づきあいも上手くできないものだから、市ノ川に家政婦を雇うよう勧められたのが始まりでしたね」
最初の数年は応募者が殺到した。作家だということは伏せてはいたが、家の様子や比較的よい賃金で応募したことが原因だった。始めこそこれで何とかなると市ノ川も十和子自身も安堵していたが、それはあまりにも楽観的だったと思い知ることとなる。
何人この家の敷居を跨いだかは十和子自身覚えていない。辞めていくきっかけになった大抵の理由はそりが合わないことだった。こればかりは仕方がないと十和子も期待をしていなかった。我が強すぎて十和子の頼み事は全く聞かない人や、愚痴が多く十和子や近所ともうまく付き合っていけなかった人などは序の口で、家事すらもできない人なんかも応募があった。それを聞いた菜々子は、此処に来たばかりの頃の自分を振り返る。まだ可愛げがあったのかもしれないと妙なところで自分を赦すきっかけをもらった気がした。
結局数年の間、この家には何人もの人間が出入りすることとなってしまい、十和子の精神はどんどんすり減っていた。そんな十和子を最後の一押しに突き落としたのはファンだと自称する家政婦だった。十和子は長らく連載していた自分の作品をどうにかこうにか大団円まで仕上げることができ世間の評判を享受していた。市ノ川とも新作の相談を始めたころだった。少し気が抜けていたことと、ストレスから解放されたことによって他人への警戒心が薄れていたのかもしれないと十和子は過去の自分を責めるように自嘲する。
その女性は人懐っこい笑顔でやってきた。少なくともそのころの十和子にはそう見えた。溌剌とした声で名乗り、深々とお辞儀をし、十和子から見た第一印象は礼儀正しい若者だった。本来の家事の仕事も問題なかったし、コミュニケーションも上手く取れていた、と思う。
特にファンを名乗って家政婦としてやってくるだけのことはあり、十和子の作品をよく褒めてくれた。時折しつこいなと思うこともあったが、悪い気はしなかった。十和子だけでなく市ノ川も気を許していたので、これで次の仕事にも身が入ると思っていた。
ところがその笑顔が張りぼてだったと知る。いや、きっと張りぼてではなく、その笑顔も狂気の一部だったのかもしれないと十和子は振り返る。
とかく女性はいろんなことを知りたがった。自身の考察の答え合わせをするかのように、あのシーンはどうだったのだ、このシーンの真意はどうだとか、最初こそいちファンとして可愛らしいとすら思ったが、彼女の知りたがりはどんどん加速する。
「この本が出たころって旦那さんと別れたころですか?」
女性は自身の本を持ってリビングで寛ぐ十和子に訊ねた。十和子は鼓動が大きく跳ねた気がした。ソファーから背中を離し、女性の方を向くと、彼女はいつもの笑顔でいる。
「え、どうして?」
女性は無遠慮に隣に座り、本を開いて指さして見せた。
「この辺りとか、いつもよりシーンが雑というか、気がそぞろな感じがするんですよね。出版日にはもうご家族がおうちを出た後でしょう?離婚日は確か……」
「そうじゃなくて、私がいつ離婚したって?」
このときの出来事は背筋がしんと冷えた感覚と共に記憶に染みついている。結婚指輪はサイン会の時には外していたし、近所の人や出版業界は知っていただろが、十和子はプライベートを公にはしていなかった。ましてや離婚しているなんて世話になっている出版社と近所だけだと十和子は考えていた。思い込んでいたといったほうが正しいかもしれない。
「よく、知ってるのね。どこで知ったの?」
無理に隠しても意味はないと思い、冷静さを装って訊ねてみると、女性は顔を花を咲かせたように頬を染めて、ぐいっと体を寄せた。
「やっぱりそうなんですね!いやあ……私冴えてるなあ」
「どういうこと?」
「このシーンはずっと引っかかっていたんですよ。先生に何かあったんだと思って、私ご近所さんを回って聞いてきましたよ。皆さん始めはなかなか口を割ってくれなかったんですが、色々頑張っちゃいました」
女性は胸を張っていた。十和子は胸の奥からどろりとした汚物のようなものがたまっていくような感覚に苛まれていた。




