第3話
なだらかな道に戻ったところでタクシーが止まった。市ノ川がお金を支払ってから、みくにと共に先に降りた。たどり着いた家は手前に駐車スペースがあり一台の車が停まっている。赤いレンガの塀が家を囲っており、鉄製のエレガントな門扉の奥にレトロな洋館が見えた。
「こっちです」
市ノ川は門扉を開くと重々しく音を立てた。みくにの手を引いてついていく。左手に土が敷かれ、いくつかの植木が備わった庭があり、何もかかっていない物干しざおがぽつねんと置かれている。決して手入れがされていないわけではないが、どこか物寂しさがある。門扉を潜って初めてわかったが、この家は日本家屋と西洋風の家が融合されたモダンな家だ。
玄関ポーチの前に登るのに特に苦労しない薄い階段が数段ある。市ノ川は鞄から鍵を取り出して両開きの玄関の片側を開ける。
「わ……」
みくにが先に入ると感嘆の声が漏れた。吹き抜けの玄関に声が響く。玄関の真上にある窓から光が差し込んでいる。外観でも思ったが随分大きな屋敷だと菜々子は少し尻込みする気持ちになった。
「こちらに来てください」
声を抑えながら洋館側へと案内される。通された部屋は広いリビングとダイニング、そしてそれらに負けない広いカウンターキッチンが備わっていた。しかし広い部屋は決して綺麗とは言い難い。適当に纏められたいくつかのゴミ袋が美しい部屋の価値を下げていた。恐々と中に入る菜々子とは異なり、市ノ川はまるで自分の家のように、慣れた足取りでリビングのソファーへと行った。ついていくとそこに長い黒髪を無造作にばらけさせて横たわっている女性がいた。おそらく家主で、雇人の『先生』なのだろう。市ノ川は起こそうとせずに、テーブルにおいてある紙を拾い上げて嘆息を漏らす。その紙に一通り目を通してから折りたたんで、今度は食器棚のある方へ行った。上に置いてある菓子の缶をとって折りたたんだ紙をしまって元の位置へと戻した。
「さてこちらへ」
カウンターキッチンへ来るように手招きする。優に二、三人が動けそうなゆとりのあるキッチンには、大きな冷蔵庫やオーブンレンジに加え、食洗器まである。かつて専業主婦だった菜々子にはうっとりするものだった。しかしそんなキッチンも汚れたタッパーやゴミが散乱し、生ごみ臭が漂っていた。
「何がつくれそうか冷蔵庫を見てもらえますか」
「はい」
頼まれたとはいえ他人の家の冷蔵庫をあけるのは少しためらいがある。無論そうは言ってられないことだ。ゆっくりと上の扉から順に開けていく。意外にも中はそれほど汚れていることはなく、どちらかといえば閑散としている。梅干しやらっきょう漬けのような保存食や、パックのトマトジュースが数本、あとは多くの調味料が扉ポケットに刺さっている。
野菜室にはしなびた野菜と、丸ごとのキャベツ、ニンジンが数本残っている。ほうれん草は溶けかかっているので使えない。冷凍庫は一番充実している。凍らせた豚肉や牛肉がある。これでおかずには困らないだろう。
「あの、お米の場所とかわかりますか」
「いや、全く。前の錦見さん……家政婦さんに全て任せていたので」
それはそうか。住み込みの家政婦が仕事の管轄に他の人を入らせるのは考えにくいと頭をもたげた。
「戸棚を開けてもいいですか」市ノ川さんが家の人ではないとわかっていても、ここでは一番家主に近い関係だろうと思って念のために許可を取る。
「ええ、構わないでしょう。手伝いますよ。お米以外に何か必要なものがあれば出しますから」
「ありがとうございます。お鍋とかあればお願いします」
手分けして、市ノ川が上の戸棚を、菜々子は下の戸棚を順番にあけていく。上の戸棚は殆ど使われた形跡がないようだと市ノ川は手早く確認し終えて、下の戸棚にも手を貸した。菜々子の方ではすでにステンレス製の小鍋と浅い中鍋をみつけた。
「ああ、お米ありましたよ。ああ……でも」
市ノ川は取り出して米の袋の中を開けて見せた。
「一合も残ってないかも」
「計ってみないとわかりませんね」ううんと小さく唸った。
「ここに食糧があるので見てくれますか」
見せてもらった壁沿いの棚には調味料やレトルトのストックがたくさんあった。その中で目をひいたものをひとつ取り出した。
「なんですか、それ」市ノ川は見たこともないと言うように尋ねる。
「黒豆茶ですね」
「なんですか、それ」今度は物の内容を聞きたいようだ。いざ尋ねられるとなんだろうと菜々子は少し考えた。
「えっと……黒大豆を焙煎したもので、香ばしくておいしいんですよ」
パッケージの裏に書いてある説明書きを参考にして答えた。市ノ川は興味深そうに相槌をうった。
「お茶なんてほとんど飲まないから知らなかったな。緑茶と麦茶くらいしか飲んだことないもんで。あとはもっぱらコーヒーばかりですよ」
仕事柄なのか飲む習慣がないのか、菜々子には判断がつかず、また突っ込んで聞いていいのかも悩む。結果適当に愛想笑いを返すだけになった。
「何か作れそうですか?」
「冷蔵庫にお野菜が少しと冷凍庫にはお肉もあったし、本当に簡単なものですが作れそうです。あとはごはんですが、これで茶粥にしてみようかと」
「茶粥?」
「この黒豆茶と一緒にお米をお粥の分量で炊くんです」
「へえ……」気になったのか、緩んだ口元で返事をした。が、そのとき胸ポケットに入れていたスマホが突如として強いバイブレーションの音が響いた。スマホを取り出し、市ノ川は跳ね上がって立った。
「まずい。もうこんな時間か。すみません。あとはお願いできますか」
「え?」
「夜には、夜には様子を見に来ますので。何かあれば先ほどお渡しした名刺に連絡先を記載していますから電話してください」
早口で言うと菜々子の返事を待たずに、ソファーの傍に置いた鞄を持って玄関へと向かった。菜々子は慌てて後を追う。
「先生のことは起きるまで放っておいていいですから」 市ノ川は靴を履きながら、背中にいる菜々子に投げかけた。「では、あとはよろしくお願いします」
律儀にお辞儀をしてから出て行った。菜々子は口を挟む間もなく、閉じた玄関ドアを呆然と眺めるしかなかった。




