第2話
早足の市ノ川に着いていくためにみくにを抱き上げてハローワークを出る。市ノ川は迷わずに停まっていたタクシーの方へと歩いていき、窓をノックするとドアが開いた。「ささ、乗ってください」そう言われるがままにドライバーの後ろに菜々子とみくにが座り、ドライバーの隣に市ノ川が乗り簡潔に行先を告げた。
タクシーが走り出すと市ノ川はスマホを取り出してどこかへ電話をかけた。暫く耳に当てているが、話し始める様子がない。
「出ないな……」
苦虫をかみつぶすような声で耳から離し、今度は指をしきりに動かしている。どうやらメッセージをしたためているようだった。
「えっと、橋倉さん」
「あ、はい、なんでしょうか」
「いやあ、すみませんね。急がせてしまって。僕も仕事が立て込んでいて、これから先生の家に送り届けたら、すぐに会社に戻らないとならんのです」
名刺に書いてあった出版社を思い浮かべた。先生というからには、これから向かうのは作家の家ということだろうか。そうすると市ノ川は編集者なのだろうか。どれほどの忙しさかは想像もできないが、市ノ川の忙しない動作には、明らかに焦りが見えていた。
「それで、ここで申し訳ないんですけど、着いてからやってほしいことを話しますね」
「わ、かりました」
菜々子は慌てて鞄からメモ帳を取り出した。ボールペンで適当にぐるぐるっと試し書きしてインクが出るか確認をする。
「まずは先生の食事の準備をお願いします。とにかくここ一週間まともな生活を送れていないので、手料理をお願いしたいのですが……ううん、これも冷蔵庫の中を確認しないとダメか」軽く前髪の生え際を指先で掻きながら言った。
「その、先生?はどのようなものがお好きですか。アレルギーとか食べられないものとかありますか」
「ああ、心配いりませんよ。食せるものならば、なんでも召し上がるので、橋倉さんが作れるもので構いません」
好き嫌いがないのはありがたい反面、何を作ってもいいと言われると、それはそれで困る。
「和食とか洋食とか、味付けの好みとかはどうでしょう?量は召し上がりますか」
「どちらでも結構です。出されたものに文句を言う人ではないですよ。量も気になさらなくていいです。きゅうりを一本だしてもおとなしく噛り付くような人ですから」
「はあ……」遠慮のない市ノ川の言い分は、編集者と作家の間柄にしては随分フランクなのだと菜々子は驚いた。菜々子の勝手なイメージでは、先生と呼ばれる作家には胡麻を擦るように、下手に出るものだと思っていた。よく知る間柄なのだろうかと首をかしげる。
「食事が終えたら、仕事部屋に入られるはず……いや入ってもらわないと困るんですが。ともかく、その後は台所とかリビングとか片づけてください。洗い物もたまっているし――あとはゴミがすごいことになっているので纏めて玄関にでも置いてください。あとは買い出しか。近所に小ぢんまりとした商店街があるので、そこで大抵のものは揃うはずです」
市ノ川は手帖を開いてペンを走らせて千切り菜々子に手渡した。そこには簡易な地図と、『ひだまり商店街』と記されている。殴り書いたようにみえたが意外にも丁寧な字で綴られていた。
「場所がわかりにくかったらスマホの地図検索してください。出ますので。晩ご飯の時間はきまっていませんが、七時までに作っておいてください。腹が減ったら自分で食卓へ行きますから。ああ、もちろんあなた方の食事も用意してくださいね。一緒に食べる必要はありませんから、お好きな時間にどうぞ。食事後は寝るまで仕事部屋に籠りますから、放ってもらって結構です。なにか聞いておきたいこととかありますか」
「えっと、最低でも三日みたいなこと仰っていたと思うんですが、着替えとか取りにいけますか?」
「あ、ああ……そうか。そうですよねえ……」考えもしなかったようで思い出したかのように声をはじかせた。頭を掻きむしって目を泳がせながら暫し思案してから眉を寄せた。
「すみません。今日は僕も夜まで仕事で、取りに行くのはちょっと、難しいかな、と。着替え、化粧品もか。お子さんのパジャマとか、絵本か、ぬいぐるみか、そんなんも必要ですよね」
市ノ川は体を捩ってみくにの方へと目線を向けた。
「お嬢ちゃん、きっと大事なお人形とかあるんだよね。週末……土曜日まで我慢してくれるかな?」
みくには自分の腰に巻き付いたシートベルトを触りながら、「うん」とも「ううん」とも言える声を漏らす。
「本っ当にごめんね」
「き、気にしないでください」ここまで来たら引き返すのは無理だ。みくにの体を抱き寄せて「ちょっとの間だからね」と頭を撫でながらなだめるが、みくにの目は不安の色が濃いく出ていた。週末まで二日。もしかしたら、慣れない環境にみくにがぐずるかもしれない。そのときは断りの返事をしよう。とにかく週末まで我慢してもらうしかない。
気づけば景色は住宅街へと変わっている。
「ああ、もう着きますよ」
タクシーはなだらかな坂道を登り始めていた。




