第1話
手の中にある整理番号を見直したのは何度目だろうか。手首の内側にの文字盤に目を落とすと、まだ長椅子に座って十分も経っていない。深いため息をついて息を整えたいがぐっと我慢をして肩で息をつく。奈々子の焦りは隣に座っている娘のみくにに伝わっているのか、買ったばかりのリンゴジュースをあけることなく両手で持っているばかりだ。
ここ数か月はずっと気が沈んでいるが、今日は起床時から酷く憂鬱だった。
ハローワークから紹介された会社の面接に赴いたのが先週のことだった。担当者から、「あなたは若いし大丈夫よ」と背中を押され送りだされていたにも関わらず、思ったより渋い顔をされたことで嫌な予感はしていたが、実際に断りの連絡がきたのは昨日の夕方のことだった。ダメになるかもしれないと事前に自ら小さい傷を心に刻んでいれば、それが現実になったとしても大した痛みにはならないだろうと考えていた。しかし想像以上に傷は深く抉られたようで、電話口でもなんと返事したか覚えていない。上の空だった中で唯一耳に残っているのは近いうちに来館するようにと言われたことだけだった。
アナウンスが自分を呼んでいる。菜々子は顔をあげて、覚束ない足になんとか力を入れてゆっくりと立ち上がった。
酷い顔をしていたのだろうか。担当者は菜々子の顔を見るなり不憫そうな眼差しで笑顔を向けた。
「来てくださってよかった」
「よろしくおねがいします」力のない息のような声がなんとか発せられた。
「昨日電話でも言いましたが、そんなに落ち込む必要はありませんよ」
うわ言のように聞こえた。無論担当者は嘘の鼓舞のつもりはない。二十七歳の菜々子は十分働き盛りで年齢を理由に断られはしない。今回断られた理由も決してそれではなかった。面接中も緊張と自信のなさから、声が上ずっていたり、どもってしまったことが敗因だろうと自覚している。それも一社二社ではなく続けて何社も落ちているものだからなけなしの自信は疾うに底をつきそうだった。
「ご縁がないなんて珍しくないですよ。長い目でみましょう」
菜々子に巣食う憂いは晴らすどころか、より曇らせた。担当者は焦らなくても大丈夫だと何度も励ましてくれていたが、菜々子は頷きながらも、隣に座る小さな子供がいる生活が、楽観視を許してはくれない。一日でも早く手に職をつけて安定した生活を取り戻さないと、日々募る迎えたくない未来の想像図が頭から離れない。
「思い切って職種を変えてみませんか?ひとつ急ぎの案件がございまして、あなたにどうかなと」
そう言って差し出された一枚の紙に目を落とす。
「家事、代行?」
「いわゆる家政婦です。料理とか洗濯とか、おうちの仕事を一通りできる方が必須条件ですが、お得意ですか?」
「どうでしょうか……おそらく人並みには……」
「人並み」
担当者はパソコンに何かしら入力しながら感情なく繰り返した。
間もなくして担当者の後ろに人がやってきて耳打ちをする。「ああ、もういらしてるんですか。はい。結構です」先と同じようにその声に抑揚はなく答えている。
「橋倉さん、あちらに」立ち上がるように手で促して室内の端にある丸テーブルへ行くように言った。みくにの手を引いて向かった。みくには飲みかけのリンゴジュースのパックを持ってと手渡すと、両手を座面に手をついて少し高い椅子に自力で座る。ジュース返すと一気に吸い込んで一息ついた。
「ママまだ?」
「ううん……もう少しかかるかな。ごめんね」
口から少しこぼれたリンゴジュースを指で拭うと、みくには口を少し尖らせて目をふせる。元々わがままは多く言わない子だ。しかし最近は特に口数が減っている。遊んでやりたい。かまってやりたい。でも早く仕事をみつけて生活を安定させなければ。気ばかりが焦って不安ばかりが募る。
それにしても家事代行とは考えもしなかった。しかし他人の家の家事仕事なんて考えたことがなかった。結婚している間は専業主婦だった。家族が気持ちよく暮らせるようにと思ってやってきたが、それが仕事になるとは。しかし自分のやり方で満足してもらえるのだろうか。
「お待たせしました」事務的な声に反応して顔をあげると、一人の男性を連れ立っていた。どことなくせかせかした雰囲気が漂っていた。菜々子はすぐさま立ち上がり頭をさげる。
「どうぞおかけください」
みくにを入れて四人が向かい合って座る。菜々子の前には先の男性が座った。
「こちらは代理の方ですが、雇用主と間を取り持ってくださっている方で……」
「市ノ川です」名乗ると同時に跳ね上がるように立ち上がり、懐から名刺いれを取り出した。すぐさま一枚取り出して差しだされたので、菜々子は慌てて座面から腰をあげて受け取った。名刺を見ると市ノ川六郎と書かれた名前が目に飛び込む。
(出版社?)肩書に誰もが聞いたことがあるような大手の出版社名がかかれており驚きと同時に、なぜそんな人が取り持っているのだろうかと頭に疑問が浮かぶ。
「こちらは、今回の応募者で橋倉さんです」
「は、橋倉菜々子と申します」両手に名刺を持ちながら頭をさげた。
「早速で申し訳ないのですが、すぐにでも来ていただけませんか」
「え?すぐ?」
「できればすぐにお願いしたいのです」
「それは採用ってことですか?」
「流石に私は決められないのですが、一週間……いや三日でもいいんです。研修期間と申しますか、試用期間と思っていただければ。無論その期間も給与は出しますので」
「こちらをご覧ください」担当者から差し出された雇用契約書に目を通すと、悪い条件はほとんどなかった。しかし気になった点がひとつあった。
「住み込み……ですか」
横目でみくにを見る。飲み終わったはずのジュースパックを手に持ってストローの口を噛んでいた。
「いや、大丈夫です。一緒に是非とも」菜々子の視線に気づいた市ノ川は断定的に答えた。
「それでは、はい……お願いします」
菜々子が頭をさげると市ノ川は安堵した表情を浮かべていた。




