第24話
正式に十和子から雇われて三か月目を迎えようとしていた。荷物をまとめてアパートは引き払った。仕事内容もあの一週間の頃とそれほど変わらない。食事の用意、掃除、洗濯、買い物。ある程度ルーティンが決まって菜々子も暮らしやすくなってきた。
「みくに、もうすぐお昼御飯だから、お片付けして」
リビングで玩具を広げているみくににキッチンから投げかける。みくには生返事をしながらもその手を止めなかった。菜々子は出来立ての焼きそばを皿に盛りつけながらため息をつく。
「早くしなさいね。もう出来たんだから」
ぶつくさと文句を垂れるが、視界の端に映るみくには真面目に受け取らずに、のんびりと遊び続けていた。
みくにが新たな生活になれるのか懸念していたが、菜々子の心配は杞憂だった。この家に住むことになったと伝えたときも、けろっとして「いいよ」と返事をしていたし、引っ越すときもぐずることはなかった。
離婚してから一度目の引っ越しのときは落ち込んでいた様子だったので、二度目の引っ越しでは嫌がるかと心配していたが、菜々子の心配を余所にみくには楽し気にしていた。それも市ノ川のおかげだったと菜々子は振り返る。男手が必要だと市ノ川は自ら手伝いを申し出た。梱包をはじめ、荷物をまとめている間にみくにの相手をしてくれたことが助けになった。また必要がなくなった家具や家電類の処分先や譲渡先を探してくれたのも市ノ川だった。おかげで必要なものだけ運び出すこともスムーズに進んだ。
「みくに」
ダイニングテーブルに食事を並べてから、語気を強くして、まだリビングで遊んでいるみくにを見下ろすと、みくには眉を跳ねあがらせ、慌ててプラスチックのケースに玩具を仕舞い出した。
菜々子は「よろしい」と言ってからリビングを出る。二階へと上がって十和子の仕事部屋をノックした。
「十和子先生、お昼ご飯出来ましたよ」
この家に来てから、二階に上がることを許されるようになっていた。しかし仕事部屋だけはまだ入ったことがなかった。掃除を申し出たが、それなりにしていると突っぱねて、頑として入室を許さなかった。十和子の仕事部屋はリビングダイニングの丁度上に当たるのだが、時々甲高いハンディー掃除機の音が聞こえていたのでどうやら嘘ではないらしい。
「十和子先生?」
改めてノックをしてみるとドア越しに「すぐにいく」と声がしたので「わかりました。待っていますよ」と返事をして階段を下りた。
あの一週間、食事を共にすることが殆どなかったが、雇われてからはほぼ毎食を共にした。それが雇用時の約束事の一つだった。
——同じ家に住んでいるのに、別々での食事は味気ないから。
契約時に十和子からそう言われた。それ以外に十和子は多くを菜々子に要求はしなかった。家事のやり方も指定されなかったし、この家特有のルールなんかも言われず、菜々子は少し戸惑った。名前を呼ぶことと、食事を共にすること。仕事部屋には入らないこと。それ以外は好きにしていい。それが契約時に言われた約束だった。
(もう少し決め事がある方が過ごしやすいんだけどな)
贅沢な悩みなのかもしれない。しかし菜々子にとって自由であることは、自身で決めて判断しなくてはいけないことである。やってはいけないこと、やり方を示してもらいたかった。菜々子の判断で、もしかしたら失礼があるかもしれない、どこで逆鱗に触れるかわからない。二か月の間、十和子の反応を見定めながら家事をした。自由にしていいと言った十和子は菜々子の家事にケチをつけることはなく、これでいいんだと漸く実感したころであった。
ほどなくして十和子はリビングにやってきた。先に座って待っていたみくには、早く食べたいと足をぶらぶらさせている。
「おまたせ」
十和子は席につき、三人揃って手を合わせてから食事を始めた。同居を始めた頃、食事中に十和子は日常で困ったことはないかなどと気にかけて話しかけてくれた。そして菜々子は十和子に次の食事に何が食べたいか、買ってきてほしいものはないかなどと訊ねた。次第に十和子からの会話は、菜々子やとくにみくにに対して、今日は何をするのかとか、一日の様子を窺うささやかな話題へと変わってきた。
「みくに、またニンジンよけてる。ちゃんと一緒に食べて」
箸を使い慣れていないみくには子供用の矯正箸を使いながら、小さく切られたニンジンを皿の端に寄せていた。菜々子は自身の箸でみくにがよけたニンジンを掴み食べさせようするが、みくには口をぎゅっと結んで嫌々と首を横に振る。
「好き嫌いしてたら、大きくなれないよ」
諭してもみくには頑なに閉じた口を尖らせた。
「もう……」
面白い顔に笑ってしまいそうになるのを堪えた。そんな時、電話が鳴り響く。菜々子は立ち上がって足早にリビングを出る。
「もしもし、迫間でございます」
——え?迫間さんのご自宅ですか?
「え、ええ。迫間でございます」
——ああ、そう。えっと十和子、さん?いらっしゃいますか。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
——ああ、ごめんなさい、錦見八千江の家族のものです。
「かしこまりました。少々お待ちください」
保留音のボタンを押してから菜々子はリビングに戻った。
「十和子先生」
十和子は咀嚼をしながら振り返った。
「錦見さんのご家族様よりお電話です」
十和子は目を見開きながら立ち上がった。菜々子と入れ替わるようにしてリビングを出る。電話の内容が気になりながらも菜々子は食卓に戻った。
「あれ?ニンジン食べたの?」
みくにの皿からはよけられたニンジンがなくなっていた。




