第23話
菜々子は洗い場に運んだ鉄板の片づけをすぐに済ましてからリビングに赴いた。ローテーブルには日本酒の瓶とおちょこがふたつ並んでいた。
「お疲れさま」頬が薄紅色に染まった『先生』は、おちょこを菜々子に差し出した。「良かったら一緒にどう?」
菜々子は少し悩みながらも、あとは寝るだけだと思って、素直に隣に座っておちょこを受け取った。これまでなら考えられない行動だった。かならず遠慮していたはずだった。食事のときに飲んだアルコールで気が緩んでいるのかもしれない。
掌に収まる少し大振りのおちょこは、食器棚で見たガラス製のおちょこだ。白濁のガラスに青色の細い線が繊細にひかれている。これは確か徳利とセットのはずだが、『先生』は側面に水滴がいくつもついて零れ落ちる瓶から直接おちょこに注いだ。菜々子は瓶を受け取って、『先生』の徳利にも注ぎ返す。
「改めて乾杯」
おちょこを掲げて乾杯をする。ちびりとなめる様に一口含むと華やかで芳醇な香りが広がる。
「これ、おいしいですね」
「良かった。それにしてもやっぱりいける口だねえ……」
『先生』は見透かしたように菜々子を見据えてにやりと片側の口角を上げた。ビールは遠慮しながら飲んでいたはずなのにと菜々子は肩を窄めて『先生』の視線から逃れるように少しだけ視線を外す。
「これ、ひだまり商店街の酒屋に置いてあるんだよ。またお遣いに頼むこともあるから、覚えておいてくれると助かる」
『先生』が好きなお酒なんだと思って菜々子はスマホを取り出し、華やかな香りを表現したような筆文字が躍る銘柄名を写真に収めた。
この先菜々子は働いて知ることとなるが、先生はこれが一番好きだというわけでもなかった。こだわりは特になく、お酒ならなんでも好んで飲んだ。
「他に希望とかありますか?」
「ん?」
「こうして欲しいとか、これだけはダメだとか、おうちのルールなんかあれば」
「そう、ねえ……」
先生は少しの間考えながら酒を口にする。
「呼び方かしら」
「呼び方?」
「そう、八千江さんのときにもお願いしたけれど、名前で呼ばせて欲しい、かな」
予想外の願いに菜々子は少し面食らった。その意図が読めない。しかし特に否定する理由も特にはない。
「構いませんけど……」
「それならよかった」
「理由は聞いてもいいですか?」
「うん?同じ屋根の下で暮らすのに苗字っていうのも味気ないから」
「はあ……」
これまでいた会社とは随分空気感が違うんだなと菜々子は思う。しかしほぼ初対面の人と苗字ではなく名前で呼び合うことどこか気恥ずかしさがあった。
「ちなみに私はなんとお呼びした方がいいんでしょうか。錦見さんはどんな風に呼んでいましたか?」
「十和子さんだったよ。十和子ちゃんでもいいけれど」
「な、なるほど……」
たった一週間とはいえ「先生」と呼んでいた菜々子は頷きながらも、なんだかしっくりこず、小さな違和感を覚えた。
「それじゃあ、十和子先生で、どうでしょうか」
さん付けでも構わなかったが、一週間「先生」と呼んでいたことが、自分でも驚くほど身に沁みついていた。流石にちゃん付けは気が引ける。
先生は片側の眉を下げた。どうやら納得はいっていないようだった。しかしすぐに「ま。いいか」と呟いた。
「これからよろしくね、菜々子ちゃん」
十和子はもう一度おちょこを掲げる。菜々子は両手で支えるようにして同じ高さにあげた。最初の約束はまるで子供がするような、ささやかで、けれども後日交わされる書類の上にあるものよりもずっと大切で、共に生きることを交わす盟約のようだった。
その日の晩酌は長く続かず、十和子が欠伸をしたことでお開きになった。十和子はこれからの生活のことはまた明日話そうと言って自室へと戻った。菜々子は片づけをしてから和室へと向かう。みくには布団を蹴り飛ばしておなかを出していた。菜々子は肌蹴た布団を掛け直して、そのまま自身も横になる。
「ママ……」
「ごめん、起こした?」
「んーん……」
トントンと一定のリズムで布団の上から軽く叩く。みくにはとろんとした目をこちらに向けていた。
「お肉おいしかった……」
口元で笑み呟いた。菜々子は眉を開き「そうだね」と返事をする。みくにはそのまま目を閉じてまた寝息を立て始めた。
菜々子の心中は穏やかではあったが、みくにはどうだろうか。一週間前は緊張気味だったが、此処三日くらいは意外にもすぐに慣れていたようには見える。子供ながらに無理をしているのかもしれない。菜々子は眉をぎゅっと寄せた。
(ずるいな)
どうか嫌がりませんようにと、心の中でみくににか、それとも何かしらの神に祈っている自分がいた。此処ならうまくやっていけるかもしれない。ようやく芽吹いた小さな希望が絶えてしまわないようにと願い続けた。




