第22話
あれだけあった肉や野菜はすっかり食べきった。余るかと思っていたが、すっからかんになった上に、市ノ川はご飯を二度お代わりした。『先生』は炭水化物よりも酒といった感じで、ソファーに移動してビールが終わった後には一人で日本酒を傾けている。
菜々子はうたたねを始めていたみくにを和室に連れていき寝かせてから、廊下にある電話で運転代行の電話をかける。リビングに戻ると市ノ川はキッチンに食器類を運んでいた。テーブルに残されたのは鉄板だけだ。
「そんなことまで……すみません。あとはやりますから休んでくださいね。二十分くらいでいらっしゃるそうだから」
市ノ川は「いえいえ」と恥ずかし気に両肩を上げた。菜々子は冷蔵庫の側面に磁石で止めたエプロンを取り身に着ける。そして皿洗いを始めた。ダイニングに戻らず傍に立っていた市ノ川が声を抑えて放し始めた。
「今更こんなこと言うのもなんなんですが」
菜々子は手を動かしたまま横目で市ノ川を見る。
「はい、なんですか」
「本当によかったんですか」
「え?」
「ほら、えっと……」
市ノ川は口をもごもごとさせながら視線を食器棚へと少し移してまた菜々子の手元に戻す。
「遺書のことでさ。気にしていらしたから、断られるとことも考えていたんです」
菜々子は軽く二三度頷きながら「ああ……」と零した。
「今でも不安だとは思っているんです。みくにはまだ小さいし、私も一緒に暮らしていけるのか、うまくやっていけるのか、他人と暮らすことは一筋縄ではいかないことも多くあるはずだと。でも私は知らないんです」
「知らない?」
「『先生』のことまだ知らないことばかりでしょう。まだ一週間しか過ごしてないんだから、当然ですよね。遺書のことは驚きましたけれど、それが全てじゃない」
菜々子は思い返していた。みくにに対しての優しさ、ミステリアスな表情の下にある素朴な言葉。遺書が『先生』の闇の一面であれば、それらも『先生』の一面に過ぎない。
「もちろん同じ家に暮らしていくからには、良いことばかりじゃないと、思います。嫌なところも、時には言い合いになっちゃうこともあるかもしれません。それでも」
鉄板を残して食器を洗え終えた菜々子は蛇口を閉めてタオルで手を拭く。
「それでも、『先生』の優しい一面が私は好きだなと思ったから。だからもう少し『先生』の傍で働きたいと思ったんです。あと」
菜々子は姿勢を正して市ノ川の目を見た。
「市ノ川さんも決め手になった一人です」
「え?僕?」
菜々子は目を細めて笑った。
「そうですよ。一週間、市ノ川さんのおかげで本当に助かりました。これからは市ノ川さんを通して『先生』と話すばかりじゃなくて、一緒に暮らすからには私も積極的に頑張らなくちゃ」
市ノ川は「僕なんかしたかな」と照れくさそうにごまかして後頭部を掻いていた。
「でも、良かった。橋倉さんが残ってくれるのは僕も嬉しいです。あまり肩ひじ張らずに頑張ってくださいね。これからも時々顔を出しますし、困ったことがあれば連絡待ってます」
「これからもよろしくお願いします」
二人は顔を見合わせた。気恥ずかしくくすぐったい気持ちになった。タイミングよくインターホンが鳴る。
「代行の方、いらっしゃったかも」
菜々子は足早に市ノ川の横を通りすぎリビングの扉の傍にあるインターホンに出る。
「市ノ川さん、いらっしゃいました」
菜々子はリビングの扉を開けて玄関に向かった。市ノ川は、ソファーにいる『先生』に軽く挨拶をして急いで後を追った。一緒に外に出て、市ノ川は車に乗り込む前に菜々子の方へと振り返った。
「今日はありがとうございました」
「お疲れ様でした」
「では失礼します」
市ノ川はお辞儀をして車に乗り込んだ。二台の車が出て行き、姿が見えなくなるまで菜々子は見送った。すっかり見えなくなると、菜々子はひとつ息をついて家の中へと戻る。
「もう帰った?」
ソファーに腕をかけて振り返った『先生』は尋ねる。
「はい。帰られました」
「お疲れさま」
菜々子は軽く会釈をした。残っている鉄板を持ち上げてキッチンへと持っていく。気合を入れて洗っていると、ふと些細ながらも、重要な疑問が思い浮かんだ。
(そういえば、『先生』のお名前知らないな)
表札には『迫間』と書かれていたのは知っていたが、市ノ川が『先生』と呼んでいたのでつい同じようにしていた。これからも『先生』と呼ぶつもりでいたが、名前くらいはきちんと訊ねないと。そんなことをぼんやり考えていると、人の気配がして顔をあげると『先生』がいる。
「ちょっといい?」
「あ、はい」蛇口を閉めてから「なんでしょうか」と訊ねる。
「片づけが終わってからでいいの。これからのことで話をしてもいいかしら。それとも明日にしましょうか?」
「今で」つい声を張り上げて言ってしまい、恥ずかしくなって軽く咳ばらいをする。
「それじゃあ、終わったらソファーに来て頂戴」
『先生』は不敵な笑みを浮かべていた。菜々子はいったい何を言われるのだろうかと、首を傾げながら目の前の片づけを再開した。




