第20話
スマホの一定間隔で鳴り響く単調な音で目が覚めた。最初は起床を知らせるアラームだと勘違いしていたので、着信音だと気づくまでにわずかながらに時間がかかった。菜々子は慌ててスマホを取り上げて耳に当てた。
「もしもし!?」
かすれた声を無理やり出したせいで上ずった声となった。誰が聞いても寝起きだと気づくだろう。菜々子は恥ずかしくなって、電話口を抑えて口元を放し、小さく二度の咳をする。
――もしもし?朝早くにすみません。市ノ川です。仕事に向かう前どうしても連絡しなくちゃと思って今かけさせてもらいました。
「お疲れ様です。どうかなさいました?」
――今日で一週間経ちますので、一度雇用の兼で話をしなくちゃいけないと思いまして。今夜お邪魔したいんですけれど、お時間ありますか?
「あ、はい。私は大丈夫ですけれど」
――よかった。先生には別途連絡を入れておきます。遅くならないように、できるだけ早くそちらに行けるように……がんばりますので。では失礼します。
返事をする間もなく、市ノ川は早口で言い終えて電話を切られ、ツーツーと不通音が鳴った。菜々子は耳からスマホを外しふーっと長い息を吐いた。
(今日で、終わりか)
まだ夢の中にいるみくにに目を落とす。身体が傾いて、両手を掛け布団から出して規則正しく寝息を立てている。起こすにはまだ早いかとみくにをそのままにして菜々子は着替えをもって和室を出て脱水所に向かった。顔を洗い、歯磨きをして着替える。
この家に来て、もう七日目かと鏡の中にいる自分に話しかけた。そこには初日の自分とも、三日目の自分とも、違う顔つきをしていた自分がいる。不安が消え去ったわけではない。菜々子はすでに決意していた。もし許されるならこのまま雇ってもらいたい。しかしそのまま雇ってもらえるかどうかは『先生』にかかっている。なるようにしかならないと菜々子は自分に言い聞かせて、軽く顔をはたいてから鏡の中に笑顔を作って脱水所を出た。
最終日だとしても与えられた仕事はこれまでと同じように淡々とこなしていく。食事の準備、床拭き、洗濯。少し手慣れてきた家は自分の家ではなく、たったの七日間だったけれども、名残惜しさが芽生えていた。
「お願いしてもいいかしら」
珍しく昼食に降りてきた『先生』は食事を終えると一枚のメモを差し出してきた。そこには今日の夕飯のメモが書かれている。
「市ノ川くんが来るでしょう。一緒に食事しましょう」
「わ、わかりました。揃えておきます」
「あとご飯も多めに炊いて頂戴。四合もあれば足りるかしらね」
「市ノ川さん、よく召し上がられるんですか」
いつもよりも二合も多い量を頼まれて菜々子は首を傾げて尋ねた。
「さて……?男の人は良く食べるでしょう?」
人それぞれだと思うと口に出すのはやめて心中に収めておく。
「とりあえず四合ですね。炊いておきます」
「お願いね。七時には来るらしいから」
『先生』はそれだけ言うとすぐにリビングを出て行った。心なしかうきうきしているように見受けられた。メモを改めてみると、そこには癖字で書かれた文字が書き連ねてあった。おそらく、いや、間違いなく焼肉の材料が並べられている。丁寧なことに肉の部位や量まで書かれていた。
昼間にみくにを連れてひだまり商店街へと向かう。ゆるやかな坂には慣れたとは言い難いが、次は右、左と頭で考えなくとも、迷わずに行けるようになっていた。肉屋にも常連とは程遠くても顔見知りくらいにはなったと自負している。実際名前を互いに知るようになったし、もしかしたら今日で店に来るのが最後になるかもしれないと思うと胸に寂しさが宿っていた。
陽が西に傾きもうすぐ沈むだろうという時間に夕食の準備を始める、とはいえ野菜を切りそろえるくらいで、準備に手間取ることはなかった。炊飯だけは確実にしなくてはとすぐにセットをした。困ったことに菜々子は鉄板の場所を知らない。珍しく『先生』が六時頃に降りてきたので、鉄板の場所を尋ねてみたが「どこだったかしら」と言って眉間に皺を寄せながら考えていた。
「キッチンの棚はあちこち開けてみたんですが見つからなくて」
「じゃあ……」
『先生』はリビングを出て廊下を歩いていく。菜々子はその後ろを追うと、階段下にある背の低い扉を開けた。すぐ手に取れる一番手前に掃除機が置いてあった。他にも何に使うかわからない小ぶりな機械や段ボール箱が重ねてあるのが見えた。『先生』は膝をついて奥の方を探している。菜々子は「代わりますよ」と言ったが「大丈夫」の一点張りである。
「あったあった」
紐でくくられた縦に置かれた薄い箱を引きずり出した。箱には鉄板の写真と共に家族団らんとポップな字で書かれている。少し埃が溜まっていた。『先生』はその場で軽く埃を掃った。
「久しぶりに使うから試しに電源つけてみて」
「わかりました」
菜々子は抱えて持っていき、すぐに取り出してコンセントを差し込む。温度調節をするダイアルを回すと赤いランプが点灯し、しばらくすると温まってきた。
「大丈夫そうですよ」
「それならよかった」
『先生』は満足気に言ってリビングのソファーに座ってテレビをつけた。菜々子はこんなに色々動く『先生』を見るのは初めてだったのでこれまで掴みどころがなかった『先生』に少し親近感が持てた。
そして日が暮れて外はすっかり暗くなった。時刻は七時前だ。『先生』はリビングでみくにと一緒にテレビを見ている。七時きっかりに炊飯器が炊き上がりを知らせて、その後にインターホンが鳴った。
「お待ちしておりました」
玄関で出迎えると「いやいや、どうも」と市ノ川は少し照れくさそうにしていた。
「これお土産です」
差し出されたのはケーキ屋の箱だった。大きめの箱で、おそらく六つから八つ程入っているのではないかと推測する。礼を述べて受け取り中へと案内する。
「ああ、きたね」
リビングに入るとテレビを見ていた『先生』が振り返ってから立ち上がる。
「お邪魔します」
「こ、こんばんは」
みくにが小さな声で挨拶をすると、市ノ川はみくにと目線を合わせるように少しかがんで「こんばんは」と応対した。
「こちら、市ノ川さんがお持ちくださって」
「おや、気の利くこと。ありがとうね」
「いえ。何がお好きかわからなかったので、とにかく色々用意しました」
「お心遣いありがとうございます」
菜々子は改めて礼を述べると市ノ川は側頭部を掻いて笑っていた。そんな様子を見ていた『先生』は口元を抑えている。
「な、なんですか。笑いを堪えて」
市ノ川はいち早く反応して尋ねると『先生』は「いや、別になんでもないさ」と答えるだけだった。菜々子からすると今のは笑っていたんだと驚きが先にたった。




