第17話
重々しくなったまま市ノ川が帰る時間となった。
「驚かせてしまったのは無理はないです。でももし許されるなら残り四日間だけ、お願いできませんか」
玄関先で市ノ川は頭をさげた。菜々子は戸惑いながらも「はい」とか細い声で応えるのが精いっぱいだった。顔をあげた市ノ川は少しの安堵と憂いが混じった笑顔で感謝を述べた。
「では、失礼します」
玄関が閉まる音と共に、折り目正しく挨拶をして去っていく市ノ川に菜々子は痛みを覚えるような罪悪感が胸を締め付ける。市ノ川は間違いなくいい人だ。あまりにもお人よしで『先生』を慕っているからこそ、休みの日を返上してまで自分の世話まで焼いてくれているのだと菜々子は十分に身に染みている。
しかしそれだけでは此処で働きながら暮らすには不安が大きい。みくにが暮らすのに適した環境でなければ、それが菜々子には一番重要な課題だった。市ノ川がどれほどいい人だとしても『先生』とは他人だ。誰も補償してはくれない。
(あの子を守れるのは自分だけだ)
玄関ドアの上部にあるステンドグラスから明かりが差し込み背後にカラフルな光が降り注いでいる。裏腹に菜々子の影はくっきりと浮かび上がっていた。重責に押しつぶされそうな自身の小ささに恨みを募らせていた。
次の日の朝はやけに肩が重くなっており起き上がるのにも一苦労する。和室に敷いた二組の布団が並び、三日ぶりに体を伸ばした睡眠だったというのに、全く寝た気がしなかった。家から持ってきた充電器のおかげで、夕べから充電したスマホの電池マークは緑色に変わっていた。まだ寝ているみくにを置いて布団を畳んでからリビングへと向かった。
薄暗いリビングの電気をつけて、朝食の準備にとりかかった。
今日で四日目だ。まだ四日とも言える。それでもリビングとダイニング、そしてキッチンが揃うこの部屋だけはすでに他人の家とも思えないほど慣れている自分がいる。もちろん、特にキッチンは前任だった錦見の影が満ちている。しかし菜々子にはそれが不思議と心地よく、使い勝手のいいキッチンだ。まるで自分を待っていたのかもしれないと都合のいい錯覚さえ覚えていた。
八時前にみくにがパジャマのまま目をこすりリビングへやってきた。洗面所へ連れて行って歯磨きと洗顔をやらせる。それからダイニングでみくにと共に朝食をとる。
「あ、おはようございます」
その途中、リビングに『先生』がやってきた。二日ぶりに見る『先生』の顔は初日からすると顔色が良い。みくにも菜々子を追いかけるように恥ずかしそうにしながらも挨拶をする。
「おはよう……」
眠そうな顔のまま呟くように挨拶をして席につく。菜々子は朝食を出すと『先生』は挨拶だけして黙々と食べ始めた。『先生』を見ると菜々子はまた遺書のことを思い出してしまう。極力『先生』の方を見ずに自身も黙々と食事を続けた。菜々子が先に食事を終えて、みくにと『先生』は同じくらいの速さで食事が終わった。
「ごちそう様でした」
流しで片づけをしていると、食器を持った『先生』が立っていたので菜々子は驚いて上ずった変な声が出た。失礼だったかと慌てて咳でごまかし、食器を流し台に置いてもらうように後ろへと下がる。
「あ、ありがとうございます」
恐縮して恭しく頭をさげる。顔をあげると『先生』は首だけでお辞儀をしてすごすごとキッチンを後にする。
「持ってきたよ」
みくにはいつものように自身のご飯茶碗と塗のお椀をもっていた。気づかなかったがどうやら先に居たのはみくにの方だったらしい。
「あ、ありがとうね」
「お皿も持ってくるから」
「うん、お願いね……」
いつもの流れでそこまで言うと、菜々子は思わず「え!」と大きな声が出た。みくにには躾けの一環として食べたら、自身の食器は流しに自分で運ぶと教え込んでいた。この家に来てからは、他人の家の食器の値段が想像できずに、万が一落としてしまったらと思ってやめさせていた。ご飯茶碗は昨日家から持ってきたアニメの絵が描かれたみくにのお茶碗だったから油断していた。おかずをのせた皿は、この家のものだ。菜々子は慌ててみくにを制止しようとキッチンを飛び出した。しかしすぐに立ち止まった。
「お願いね」
『先生』は食卓に置いてあった皿をみくにに手渡していた。みくには「はい」とはにかんでそれを受け取り慎重に運んだ。
「ママ」
みくにに差し出された皿を、まるで卒業式に受け取った賞状のように菜々子は受け取る。
「お疲れさま……」
労いの言葉はみくにに対して出たのか、その前にそれを渡した『先生』に言ったのか菜々子にもわからなかった。当て所もないような声で発したものだから、みくには小首をかしげている。菜々子は「ありがとう」と言い直すとみくには満足げにキッチンを後にしてリビングへと行った。




