第16話
家についたのは昼を回ったばかりだった。この家に本当に人が住んでいるのか菜々子は疑ってしまうくらい、あまりにも静かだった。市ノ川は声をかけにいくと二階に上がり『先生』の書斎へと向かった。菜々子はみくにと共に、リビングへと赴き買ったばかりの弁当を食卓に広げる。それから持ってきたスーツケースをリビングに持ち込んで開けた。中から家でみくにが使っていた『ポアロ』が描かれたうがい用のコップを取り出して洗面所に行く。みくにに手洗いとうがいをさせたあとリビングへと戻るさなか、降りてきた市ノ川と鉢合わせた。
「まだ食事はいらないそうです。執筆も今がピークといったところでしょうかね。もしかしたら夜も食べないかもしれないな」
「お体に障らなければいいんですけれど」
「まあ、慣れてるから大丈夫でしょう。先生の分は冷蔵庫に入れて、僕らは気にせず食事にしましょう。その後に生活ができるように片づけして……そうそう布団の場所も聞き出せましたよ。あとで出すので手伝ってください」
市ノ川はその言葉通り、食事を共にした後に布団を出してくれた。一階にある玄関横の和室の縁側の奥に収納スペースがあり、そこに数組があった。しばらく出し入れされていないのか少し黴臭い。これから洗濯をしても乾きが悪いだろうと思い、朝方干した洗濯物を中に取り入れて布団カバーを干した。ほとんど乾いていたが乾燥機に入れる程ではないので風呂場に持っていき設置してあるポールにかけた。
一通り終えてから菜々子は市ノ川に感謝のコーヒーを淹れる誘うと「遠慮なく」とリビングへ赴く。その間にあくびをしているみくにに昼寝の時間をとらせ、錦見の部屋のベッドに寝かせた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ不自由な思いさせて申し訳ないです」
「いいえ。市ノ川さんには助けられてますよ」
市ノ川は恥ずかし気に目を伏せて人差し指でこめかみらへんを掻いている。
「あの……」
菜々子は聞くなら今しかないと切り出そうとしたが、うまく言葉にならない。どうしても『遺書』と口にするのは躊躇いがあって、口の中でどんな言葉にするか捏ねてから意を決して口を開いた。
「見ちゃったんです」
「はあ……」
市ノ川は小首をかしげてきょとんとしていた。菜々子は立ち上がり、椅子を動かして食器棚からお菓子の缶をおろした。市ノ川「あ」と小さく声を漏らした。
「すみません!」菜々子は思いっきり頭をさげた。「わざとじゃなかったんです。拭き掃除をしようと思って棚の上も掃除していたら落としちゃって、蓋がおもいっきり開いてしまって」
菜々子は話せば話すほど、言い訳がましく感じ自身の不手際が協調されていくような気がしたが、言葉はどうにも止まらない。
「そしたら中身がみえて、しまって……すみません。でも、ちょっとしか見てないです。外側の文字だけというか、中身までしっかり読んだわけじゃないんです」
「橋倉さん、おちついて。大丈夫ですから」
市ノ川は手を差し出して制止した。菜々子ははっとしてから唇をぎゅっと噛むようにして閉じた。市ノ川は片手で口を覆ってから、どう話そうかとあぐねいているようだった。そして息を吐くように「ああ……」と零す。
「こちらこそすみません。驚いたでしょう」
「……はい」
「あれはですね……その先生の癖みたいなもので」
「癖、ですか?」
「決して本気じゃないんですよ」
菜々子が置いたお菓子箱に手を伸ばした。ぱこんと音を立てて難なく開ける。市ノ川はそのうち一枚を取り出して、遺書と書かれた文字を菜々子の方に向けた。
「大抵同じようなことが書いてあるんです。私には才能がないとか、もう書けない自分には生きる価値がないとか。一見危ういものにみえますが、これは先生なりのストレス発散みたいなもので」
そう言っても菜々子は言葉通りに受け入れていいものか判断がつかなかった。遺書を認めることがストレス発散なんて到底信じられないのである。
「どうしてこ遺書を書くんですか」
市ノ川は眉間に皺を寄せて少し考えてから答えた。
「デビューが華々しい人だったんですよ。初めて出した本が売れに売れて……連載が決まってからは、それはもう仕事漬けで。ストレスは僕が知るよりもきっと厳しいものだったと思います。それが感情を蝕んでいたんでしょうね。病院にも行き薬も飲んでた時期がありますが、一番改善したのがこれです」
遺書を書くと、それまでの本人が思い込むダメな部分が可視化されて冷静にみられるようになったと『先生』は話したそうだ。
「以前は頻繁に書いていたんですが、錦見さんと住むようになって落ち着いていたんですよ。でも急にいなくなってしまったでしょう?先生の心のバランスが少し崩れてしまったんだと思います」
なんと返事をすればわからなかった。『先生』のことはまだ何も知らない。正直なところもし心の病に蝕まれているのであれば、菜々子は支えていける自信がなかった。みくにはまだ小さいし、他人のことを心配できるような余裕が今の菜々子にはないと思っていた。
懇願と諦観が入り混じっている市ノ川の目に、どうにも応えることができず菜々子は目を伏せるしかなかった。




