第14話
しばらくすると見覚えのある風景へと変わっていく。つい一昨日のことなのに、見慣れた風景がひどく懐かしく見えた。足しげく通ったハローワークを過ぎて、よく通っているスーパー、住宅街へと進んでいく。そしてみくにと二人で住んでいるアパートの近くにある、パーキングに車を停めた。
アパートにつくと郵便ポストをまず確認する。とくに急ぎの郵便物はなくチラシばかりが入っている。それらを取り出してから、二階へと階段であがる。鍵を差し込みドアを開けると少しこもったにおいが鼻腔をついた。このアパートに住み始めて半年にも満たないので、懐かしいとは言い難いが少しほっとした気持ちになった。みくにはいち早く靴を脱ぎ棄て家の中へと入っていく。
「それじゃあ、僕は此処で待っていますから、必要なものをまとめて貰えますか?」
「中で待ってもらって大丈夫ですよ」
「いえ、どうぞお構いなく。ごゆっくり」
女性の家なのでときっぱりと断った。どんなに勧めてもテコでも動きそうになかったので、菜々子はお言葉に甘えてと中へと入った。
菜々子はまずカーテンと窓を開けて、二日分の淀んだ空気を外へと流した。
「みくに、荷物まとめるから、持っていきたいもの用意して」
菜々子は押し入れの奥にしまい込んだスーツケースとボストンバッグを引っ張り出した。それから洋服ダンスから数日分の自分とみくにの着替え、化粧道具などを順番に詰めていく。家の中を右往左往して慌ただしく動いている中で、みくには自身のおもちゃ箱の前でじっと座っていた。視界の端にはその様子が見えていたが、菜々子は待たせている市ノ川に申し訳なくて見ないふりをして準備を整えた。
二日間他人の家で過ごしてみて、困ったのは当然だが子供の用品がない。まずはみくにのお箸だ。箸置きからみくにの分を取り出してビニール袋に入れた。次にプラスチックのコップだ。紙コップを昨日買ったばかりだったが、残りの四日間ではもたないので持っていくことにする。茶碗はどうしようかと悩んだが、客人のお茶碗は持ちにくそうだったので持っていくことにした。歯磨き粉と歯ブラシはすぐに必要だったので買ったからいらない。そんな風に菜々子は頭を回転させながらスーツケースに詰めていった。
スーツケースに詰まった荷物を上から抑えてしてファスナーの引手を引っ張る。ぎゅぎゅっと音をたててなんとか収まったところでみくにに声をかける。
「持っていきたいもの決まった?」
菜々子の声は届いているはずだが、みくにはぺたりと座り込んだまま何も応えない。
「どうしたの。早く決めなくちゃ市ノ川さん待ってるよ?」
四つん這いでみくにの傍によった。みくには俯いて口をとがらせている。
「みくに?」
問いかけにみくにはしばらく沈黙してから俯いたまま口を小さく開いた。
「もうおうちには帰らないの?」
ぽつぽつと滴を落とすようにゆっくりと問いかける。みくにはその真意が図り知ることができなかった。みくにの言う家はいったいどこのことなのだろうと思案した。
「おうちに、帰りたい?」
もしパパのところに帰りたいと言われたらどうしようかと菜々子は不安だった。叶えてやりたくても叶わないことだった。自分一人でもみくにを守っていかなくてはいけないプレッシャーと、みくにの心情とでは秤にかけられるようなことではないが、菜々子自身いっぱいいっぱいであった。みくにの本心よりも、せめてこの家で会って欲しいとつい願ってしまった。
みくには手を伸ばして抱っこをせがみ、それにこたえた。小さな手で背中のシャツをきゅっと握る。
「あのおうちに行くのはいや?」
恐る恐る尋ねるとみくには首を横に振る。柔らかい髪が首元を擦った。
「だいじょうぶ」
かすれた声で言った。彼女にとってこれが精いっぱいの気丈な振る舞いなのだと菜々子は知っている。
「ごめんね」
本当はみくにがどこに居たいのか菜々子は知っている。もう絶対に帰ることができないパパと住んでいた、小さくても楽しくて幸せが満ちていた家だと。
結局準備に三十分程かかった。玄関を開けてスーツケースを先にだして、その上にボストンバッグを置いた。みくにの着替えや玩具が少しだけ入っているボストンバッグは軽すぎてうまくのらずに傾いて落ちそうになった。市ノ川はスマホをいじっていた手を止めて、ボストンバッグを肩にかけてスーツケースに手をかけた。
「あ、すみません」
「いいえ」
菜々子は急いで玄関の鍵を閉めた。
「遅くなりました」
「とんでもない。もう大丈夫ですか?」
「これだけあれば暫くは何とかなると思います」
「わかりました。もし足りないものがあれば遠慮なく」
市ノ川はスーツケースを押して廊下を進みだした。菜々子はみくにの手を引いてついていった。
「そうだ、忘れないうちに」
車に乗り込んで、カーナビに帰りの道を入力した際に市ノ川が急に切り出した。
「橋倉さん、レシートはとってあります?」
「え?」
「いや、さっき先生から電話貰って帰りにドリンクを頼まれたんですよ。これまでは立て替えて錦見さんからお金もらっていたんですが……橋倉さん、財布まだ渡してないですよね」
「は、はい……」
「やっぱり。僕も気が回らなくて申し訳ない。必ず返させるので後でレシート見せてくださいね。ああ、財布がどこにあるかも探さないといけないな」
慌ただしい言葉とは裏腹に車は柔らかな速度で走り出した。




