第13話
菜々子は全く眠れないまま迎えた朝にの日差しが少し恨めしく思った。みくにの寝息を聞きながらなら眠れるかなと耳を聳てても、昼間の見た『遺書』の二文字が鮮明に重々しく瞼の裏に焼き付いていた。
あの後菜々子はその中身が気になったが開けるのはあまりにも不躾な行為だと自分に言い聞かせ、急いで缶の中にしまい込み食器棚の上に戻した。見なかったことにしようと、忘れようとすればするほど、その記憶はくっきりと形を持ってしまった。
その日の夜に『先生』は食事に降りてきた。初日に会ったとき以上に顔色が悪く土気色をしていた。目が沈み食事を口に運ぶのも苦労しているのが見てわかる。『遺書』のことどころか、大丈夫かと声をかけるのも憚られ、何も言えないまま食事を終えた『先生』の背中を見送るしかなかった。事情を知っていそうな市ノ川に尋ねてみようかと思ったが、夜も更けた頃にかかってきた電話に出ると仕事が立て込んでいるらしく明日の朝まで行けないと言われ了承した。
菜々子はスマホを手に取る。朝の六時を示している。今日まで三日目、充電器がないので極力使わないようにしていたが、残りの電力は十パーセントをきっており赤い電池マークが表示されている。市ノ川から連絡がくるまで使うのは控えようとズボンの後ろポケットに押し込んだ。
リビングへ行くと今朝は『先生』はいない。朝ごはんの準備をしてから一度部屋に戻るとみくにが目を覚ましていた。洗面所へ連れていき洗顔と歯磨きをやらせる。先に朝食を済ませても『先生』は降りてこなかった。掛け時計は七時を過ぎている。ポケットにしまったスマホが鳴る。市ノ川から八時前には着くとの連絡だった。そして約束通り八時十分前にはやってきた。
「おはようございます」
玄関を開けると市ノ川はTシャツにジーンズとラフな格好をしていた。髪も軽く櫛を通したくらいだった。目の下にクマを蓄えながらも今朝の空模様と同じように晴れやかな顔をしていた。
「昨日は窺うことも出来ずすみませんでした。何か変わったことはありませんか?」
「えっと……」
すぐに尋ねたいのは『遺書』のことだったが、どうにも口にすることは難しくどう切り出せばいいかわからなかった。
「とりあえず今朝は『先生』がまだ降りてこられなくて、朝ごはんは準備できているんですが」
「ああ、執筆しているのか眠っているんでしょうね。気が向いたら降りてきて自分でレンチンくらいはしますから、放っておきましょう。テーブルにメモしておいたらいいですよ」
「わかりました」
菜々子はリビングに戻り、言われたように朝ごはんのおかずやお茶碗によそったごはんを冷蔵庫に入れた旨を書いてダイニングテーブルに置いた。みくにに靴を履いてもらっている間に階段下から上を覗いてみるが物音ひとつ聞こえない。菜々子は何か声をかけようかと迷ってたが、きゅっと口を結んだ。
玄関の鍵をかけてから門扉を潜ると、市ノ川が乗ってきたらしい赤色のSUVが目に入る。
「後ろにどうぞ」
市ノ川は扉をあけて待っていた。みくにの手をひいていくと、菜々子は思ってもないものがそこにあり目を丸くした。
「チャイルドシート?わざわざ用意してくださったんですか?」
「同僚が使わなくなったのを貸してくれたんですよ。子供を乗せるんだって話したら絶対使えって」
「わざわざすみません」
菜々子は恐縮して頭をさげる。
「いやいや、こっちが無理をお願いしてるんですから。これくらいはしないと。同僚にも怒られました」
「怒られる?」菜々子はみくにを座らせてベルトをしめながら尋ねた。
「一昨日、みくにちゃんの塗り絵を用意していたら、それを同僚に見つかりましてね。諸々のことは伏せたんですが、土曜日に子供を車に乗せることを話したら、チャイルドシートはあるのかと尋ねられまして。僕は独身ですしあるわけないって答えたら、しこたま叱られましたよ。自分の子供でもありえないのに、よその子を自身の車に乗せようとしているのに用意してないなんて責任感の欠片もないのかと。最もだと思ってレンタルサイトを検索していたら、その同僚が貸してくれると言ってくれたんです」
「そうだったんですか。本当にすみません」
ベルトが締められたことを確認して扉を閉める。市ノ川が運転席に座るのを見てから、菜々子は反対側に回りみくにの隣の席に乗り込んだ。
「以前にニュースで見て知っていたのに、当事者意識がないから頭からすっぽり抜けていて。僕も頭ではわかっているつもりになっていることが多いと気づかされましたよ。あ、住所入力するので教えて貰えますか」
菜々子は自宅の住所を伝えると、市ノ川はカーナビに入力する。ルートが表示されたのを確認して市ノ川は優しくアクセルを踏み走り出す。少し開けられた窓からは涼しい風が舞い込んできた。
「目の届かないところもあるんで困ったことがあったら言ってくださいね」
そう言われて菜々子は今がチャンスかもしれないと少し考えた。横目でみくにを見ると、ぐんぐん流れる景色に夢中になっている。
「あの、実は……」そう切り出したその時「あ!」とみくには声をはじけさせた。
「ん、どうしかした?」市ノ川がバックミラー越しにみくにを見て尋ねた。
「おじちゃん、塗り絵ありがとう」
「え?ああ。どういたしまして……」
急なお礼に市ノ川は戸惑いながら応えると、みくには満足げにまた窓の向こう側へ視線を戻していた。話すきっかけをすっかり折られてしまった菜々子は、また喉の奥へと言葉をしまい込んだ。




