第12話
肉屋に行くと、朝方に会った従業員がすぐに菜々子に気づいた。
「あら、いらっしゃい。来てくれたんだねえ」
「こんにちは」
「今日は何にする?おすすめはこのあたりかな」
従業員はさっそく自身の仕事に勤しみ、豚肉の切り落としと牛肉の切り落としを指さした。どちらも安価でまた値引きのポップが貼ってあった。
「あの……」
「ん?」
「前の家政婦さんはどういったものをよく買っていましたか?」
「どういうことだい?」
「い、いえ。私昨日からお世話になっているんですけれど、『先生』のこと何もしらなくて、好みのものとか何かわかればいいなあ、と思って」
従業員は首を傾げていた。もしかしたら思った以上に親しくなかったのかもしれないと思って菜々子は慌てて言葉を続けた。
「変なこと聞いてごめんなさい。『先生』忙しそうっで少しでも栄養があるものとか、せめて好きなものを召し上がっていただけたほうがいいかなと思ったんですけれど……でも『先生』のことあまり知らないって仰っていましたもんね。本当にすみません……」
「ああ、いやいや違うんだよ。ずいぶん熱心だから驚いただけさ。でも八千江さん、そんなに気を張っていなかったよ」
菜々子は眉を曇らしたことに従業員は仕方がないなと笑った。
「悪い意味じゃないさ。今日一番安いお肉を買ったり、自分が食べたいもの買ったり、時々はちょっと良いものっていってステーキ肉買ったりしていたよ。だからあんたや、お嬢ちゃんが食べたいものでいいんじゃないかい?」
「そう、でしょうか」
雇い主はどんなつもりで家政婦を雇っているのか菜々子にはまだわからない。菜々子は雇い主が望むものを作ってあげたいと思っていたが、『先生』や錦見を知る人物は似たようなことを言う。
「私が知る限りだけどね、八千江さんが献立で悩んでいることはほとんどなかったよ」
菜々子は少し眉を開いて牛の切り落としを選んだ。従業員は「あいよ!」と声を張り上げて要望のグラム数より少し多めに入れた。袋を渡す際に従業員は菜々子の目をまっすぐに見て言った。
「その真面目さはあなたのいいところだね。肩ひじ張らず頑張りな。おばちゃん、人とお肉を見る目はあるんだから」
昨日会ったばかりだ。きっと根拠なんかないのだろう。しかし従業員の説得力のある声のトーンだろうか、それこそ懐の深そうな人柄だろうか。従業員の言葉が菜々子の胸の芯にじんわりと染みて自然と口角が上がっていた。
帰りにみくにはまた飴玉を一つ貰ってご機嫌だった。上り坂を足取り良く元気に上っている。昨日程荷物が少ないとはいえ、菜々子は途中から息があがっていた。足を止めてしまえば歩き出す気力を失いそうで、必死に足を動かした。
家に着いた頃には頭のてっぺんから汗が吹き出していた。家の中に入ると出てきたときと同じようにひっそりと静まり返っている。二階に『先生』が本当にいるのか疑ってしまうほどだった。みくにには静かにしようと口元に人差し指をたててリビングへと行く。みくには小さな両手で口を覆っていた。
朝のうちの粗方の家事が終わってしまった。時計を見ると夕食にはあまりにも早い時間だ。ローテーブルではみくにが新たな玩具付きのお菓子を開けて、気に入ったフィギュアが入っていたようで昨日当たった『ポアロ』と遊ばせていた。
手持無沙汰になると余計なことを考えそうだったので、拭き掃除でもしようと立ち上がる。菜々子はスーパーで買った、安い既製品の真っ白な雑巾を一枚取り出して、棚やテレビといった家電の埃を掃うように優しく拭いていく。昨日はゴミの片づけやキッチンの掃除に必死で気にしていなかったが、よく見るとリビングやキッチンにの調度品はどれもアンティークのようである。繊細な彫刻が施され、家にあるプラスチックの家具とは違ってしっとりと手に馴染む質感だ。菜々子は手に持っている三枚セットで百円の安い雑巾で拭いてもいいのか躊躇った。溜まった埃だけ取り除くようにできる限り柔らかに触れた。
食卓の椅子を足場にして食器棚の上を覗くと特に埃が溜まっていた。自身の家でも滅多に覗かない場所だ。どこの家でも同じなんだと親近感がわく。手を伸ばしておくから拭いていく。極力埃を舞い散らせないように気を付けていたが、手前で舞った埃を吸い込んでしまいくしゃみが出た。手の指先が震えてお菓子の缶が落下する。菜々子は慌てて手を伸ばしたがすでに遅く、頭に響くような大きな音をたてた。
(まずい)
ドアの先で泣いていたみくにの泣き声に反応した『先生』の耳だ。おそらく二階にいる『先生』の耳にも届いていることだろう。しこたま叱られるに違いないと覚悟をした。ところが全く音沙汰がない。菜々子は恐る恐るリビングの扉を開けるが、降りてくる様子がないどころか、家に帰ってきたときと同じくひっそりと静まり返っていた。
(気づかなかったのかな)
とても信じられないことだったが、菜々子はほっと胸をなでおろした。リビングの扉を静かに閉めて、落としてしまったお菓子の缶を片付けようと戻った。みくにはそれをじっと見ていた。
「お菓子じゃないねえ」
がっかりしたといった声で言い口を尖らせた。菜々子はリビングで遊んでいてとそこから離れさせた。
缶の中から出てきたものは紙の束だった。そういえば、昨日ここに来たときに市ノ川がローテーブルに置いた紙をこのお菓子の缶にしまっていたっけと思い出す。
菜々子は広げられた紙を一枚一枚拾って角を合わせて束ねていく。途中でびくりと指先が震えた。そこには想像もしていなかった文字が書かれていたのである。
——遺書




