336. 馬車と
僕は一つ重要なことを忘れていた。
だって他のことに忙しかったから、と言い訳しても始まらない。
バンジに「おい、そろそろ仕上げて持っていかないと問題だろう」と言われて、急に思い出してちょっと慌てた。
「馬車の本体というか客室部分、それから台車は出来ている。
台車に取り付けて本体を載せるベルトはお前が作るんじゃないのか。
それから、中の椅子の座面と背面のクッション部分もお前らの担当だろ」
ラリオ様が奥方様にとても自慢したおかげに、領主様と奥方様から頼まれていた馬車のことが、僕は完全に頭から抜けていた。
注文を受けた時直ぐにバンジと、どんな馬車を作るかの打ち合わせをしたのだが、それで安心してしまい、綺麗さっぱり意識から外れてしまっていたのだ。
まず作らないといけないのは、馬車の揺れを軽減するための革ベルトだ。
これは冬の食料確保のためというより、防具などの材料として、アーリア・アーレア・アーロア様たちが狩った熊の毛皮がかなりの数あるから、それの毛を除去して、何枚か縫い合わせて、リング状のベルトにして、燃える水の粘度の高くなっている油を十分に染み込ませる必要がある。
椅子は、座面と背面を竹を編んで作り、その上に藁を重ねて布で覆い、そのベースの上に今度は鳥の羽のクッションを置いて、一番上を柔らかい鹿皮で覆って固定する。
もちろん僕だけで出来る訳はなく、ナーリアたちに手伝ってもらった訳だが、僕らが出来るのは、車輪や新工夫の革ベルト・椅子作りくらいで、貴族の馬車なんて僕もバンジも作ったことがない。
装飾性なんて少しもない無骨な馬車なんだけど、椅子の一番上に張られた鹿皮だけは、アンたちが綺麗に染色してくれて、何だかとても綺麗な物が出来上がった。
「デイヴ、注文されてた馬車の引き渡しに町に行くけど、お前もいくか?」
「俺はいいよ。
兄貴の結婚式で会ったばかりだからな。
ボブの仕事が忙しいから、そっちを手伝いたいしな」
「ボブの仕事が忙しいことを言われちゃうと、言い出し難いのだけど、俺は一緒に行っても良いかな。
ほら、俺の所は、親父がもう死んでいて、兄貴が砦に行っているから、町には母親だけだから、兄貴と顔を出せる時にはお互いなるべく顔を出そうという話になっているんだ」
デイヴは、小言が怖くてなるべく顔を合わせたくないみたいだけど、キースが一緒に行ってくれることになった。
そしてもう一人、何故かイクス様が同行することになった。
「ナーリアちゃん、あなたの馬車を貸してね」
「はい、それは全然構いません」
「イクス様、せっかくだから新しい馬車に乗って行けば良いんじゃないですか」
「それだと帰りは歩いて来なくちゃならなくなっちゃうでしょ」
ああ、そうだった。
一緒に行くかどうかを最後まで迷ったのがメリーだ。
メリーは奥方様に会いたい気持ちがあったのだけど、アンの調子が悪いので、どうしようか迷ったみたいだった。
「メリー、奥方様に会いたかったら、行ってきても良いよ。
今回はたった一泊だし、イクス様も行くし、帰りはお兄ちゃんの前に乗せてもらって来れば良いから。
お姉ちゃんは別に病気じゃないし、ナーリアたちがいるから困ることはないから構わないよ」
「うん、でも、やっぱり今回はメリーは行かない」
アンはどうも悪阻が強く出る体質のようで、ここのところ食べた物を吐いたりしていたのだった。
他の人間の妻たちも、やはりそれぞれで悪阻が酷い者もいたけど、少し経つとケロッと良くなって食欲も出たから、アン自身も今の状態をそんなに問題視していないみたいだ。
僕も他を知らなかったら、ちょっと慌てたと思うけど、そんなものなのかと思っている。 でも少し心配ではあるのだけど。
きっとメリーもそんな感じなんだろうと思う。
「ウフッ、私だけがアレク君と出かけて一泊なんて、ちょっとウキウキしちゃうわね」
「お母さん、ティッタを置いていくのに、何ウキウキしちゃうなんて言ってるのよ。
ティッタにとっては初めてお母さんと離れるんだから、一大事なのよ」
「もう大丈夫よ。 おっぱいだけでなくて色々な物が少しづつ食べられるようになってきたし、ここにはあなたをはじめとして、みんながいてくれるし、ラーリア、ミーリア、ミーレアも来てくれる。
何も、私は心配していないわ」
「ウキウキしちゃう」なんてイクス様は言っていたのに、その次にレンスに言った言葉は、とても深く重みのある信頼感に満ちた言葉だった。
その言葉と声音は、文句を言ったレンスだけでなく、なんとなく聞いていたみんなまでが、一瞬動きを止めてしまうだけの力を持っていた。
「子供はそういう試練を一つづつ乗り越えて大きくなるのよ。
レンスの時なんて、帰ってきたらレンスじゃなくてラーリアが泣き顔でびっくりしたわ。
今回は世話する人数も多いし、そんなことにはならないでしょ」
その一瞬の沈黙を、すぐにまたイクス様は、さっきまでの楽しげな調子で過去を暴露することで打ち破った。
「もう、何言い出すのよ」
レンスは少し赤い顔になって、イクス様の言葉を遮ろうとした。
「イクス様、泣き顔だったのはレンスじゃなくて、ラーリア様だったんですか?」
セカンが妙な所に興味を持って質問した。
「そうなのよ。
レンスは私がいないことを良いことに、そこら中を動き回って、その時運の悪いことにレンスの父親が体調が悪くてあまり動けなかったから、ラーリアがレンスをほんの一瞬目を離すと、レンスがいなくなって、それを探し回るのが大変で、帰ってきたらラーリアが泣き顔だったのよ。
『マピはまだ赤ん坊なのに、一瞬で姿を消すんです』って、あの時はラーリアが泣き顔で帰ってきた私に報告してきたのよ。
何だかちょっとラーリアが可哀そうだったわね、あの時は」
「だからやめてよ。 私が覚えていない小さな時の話をするのは」
レンスって、赤ん坊の頃から消えてたのかよ。
それにしても、ラーリア様はきっとイクス様が用事で出掛けなければならなくなって、調子が悪かったレンスの父親、ダルフ様だったかな、とにかく病気で寝てる人と赤ん坊のレンスの世話を一人でしなければならない状況だったんだな。
きっととても大変だっただろうし、イクス様も今とは違って、本当に出かけるのが本音ではとても嫌だったのだろう。
だけど、だけど、・・・・・、イクス様が帰ってきたら、困りきって泣き顔のラーリア様って、今の姿からは想像できないのだけど、想像すると・・・・。
「イクス様、イクス様がいらっしゃらない間は、私もシャイナを連れてナーリアたちの家に昼間は行っていますので、ティッタのことは心配しないでください。
ま、私が行かなくても、ナーリアたちは人数も多いですし、メリーがティッタを可愛がっていますから、心配ないのですけど」
ラーリア様が領主の町に僕と一緒に向かうイクス様に、そう声をかけた。
それを聞いて、僕だけでなくナーリアたちまで思い出し笑いを、ちょっと俯いて噛み殺している。
ラーリア様がその雰囲気をちょっと不思議がっているようだ。
レンスだけ、ちょっと怒っていて、メリーはラーリア様から名前が出て、任せてと胸を張っている。
何だかイクス様だけが同行するというのは、僕だけでなく、やはりみんななんとなく不思議な感じだった。
僕は帰りに自分が乗る馬をキースに預ける。
この新しい馬車は二頭引きを前提とした馬車なのだが、引かせる馬は馬車を引くことだけを訓練した馬で、帰りに乗って帰ってくることはできないからだ。 ま、絶対という訳ではないけど、自分の乗馬がいるのにそんな必要はないからね。
帰りは僕とキースが一頭づつ、引いてくることになるけど、何もそんなに急ぐ旅ではなく、イクス様と3人でおしゃべりしながらの気楽な道中になるはずだからなんの問題もない。
今回はただ単に、頼まれていた馬車を納品するだけのことだから、少し無理をすれば日帰りで済ますことができる用事だったのだが、イクス様が一緒ということもあり、領主様の館で一泊する予定となっている。
それは領主様にもハーピーが連絡していてくれているので、領主様と奥方様が館で待っていてくれた。
馬車の納品と、領主様と奥方様の試乗、その後の晩の食事時などもごく普通の会話が続き、僕は本当にイクス様は馬車の納品に付いてきただけなのかと、ほんの少しだけ思ってしまった。
この日は晩餐にはもうキースは実家に帰っていたので、ちょっと早目の感じでそれが終わると、僕とイクス様は宿泊にいつものごとく宛てがわれた離れに向かった。
さて、寝るのにはまだちょっと早いなと思っていたら、イクス様は自分でお茶の用意を始めた。
「イクス様、お茶なら僕が淹れますよ」
「んーん、大丈夫。 アレクくんはのんびりしてていいよ」
そう言われて見ていると、イクス様はカップを4つ取り出してお茶を淹れ始めた。 僕が、あれっと疑問に感じた時だった。 普通の扉ではなく、隠し扉の方で音がして、声がかかった。
「イクス殿、アレク、中に入っても良いだろうか」
領主様の声に、イクス様が即座に応えた。
「どうぞ、中に。 お待ちしていました。
ちょうど今、お茶を用意していたところなのですよ」
隠し扉からは、領主様と奥方様が中に入ってきた。
「アレクとキースと共に、イクス殿だけの訪れなので、何かしらの理由があると思ったのだが、このように私的な場で話したいとは、どの様なないようなのだろうか?」
椅子に座り、お茶を一口飲んだだけで、領主様は真剣な顔でイクス様にそう話を切り出した。
イクス様はその領主様の深刻な感じに、軽く笑顔を見せると、
「いえ、話の内容が公の場というか、公的な場でする話ではないと思っただけで、何も深刻な話ではありません。 安心してください。
いえ違いますね。 ゴブなどといった深刻な話ではないだけで、私としてはとても真剣な話ではあるんです。
でも今回はロンダイル殿と私は話したいのではなくて、奥方様と話をしたいと思ってやってきたのですよ」
僕もイクス様の話の内容の見当がつかなかったので、最初は真剣な顔をしていたのだが、イクス様は言葉を発するにしたがって本当に笑顔で話すようになっていったので、なんとなく落ち着いて気楽に話を聞こうという気持ちになった。
領主様と奥方様もちょっと安心したようだ。
「私にお話とは、いったいどういったことでしょうか?」
奥方様が、急に自分が当事者になったことにちょっと驚いたようだが、イクス様が笑顔なので、落ち着いた調子で尋ねた。
「実はもうすぐラミアの里では大問題がありまして、奥方様にお力をお借りしようと思って、今回はそれを頼みに私は来たのです。
ご存知のように、ラミアの里に来たそれぞれの人間の妻たちは、今みんなお腹に子供がいて、これからもうすぐ出産を次々と迎えることになります。
しかし、ラミアの里には人間の出産をサポートできる年長の人間がいないのです。
流石にラミアと人間の出産は違いますので、ラミアでは人間の出産のサポートの経験がありませんし、困っているのです」
「なるほど、確かにそれはそうですね。
ラミアは基本的には卵胎生だという話ですから、胎生の人間とは少し出産といっても違いがありますね」
「そうなんです。
ラミアは卵胎生ですし、子供はとても小さく生まれますので、人間のような出産の大変さというのはほとんどないのです。
『人間の出産のような大変さ』と私は言いましたが、その私の今の言葉も本当に単なる書物から得た知識でしかありません。
人間の出産の実際を全く経験していませんので、ラミアにそのサポートが出来るとは思えないのです」
「なるほど確かにそれはその通りですね。
私が気付かねばいけないことでした。
早急にどうするかの対処を責任を持って考えます」
「ありがとうございます。 よろしくお願いします」




