5 毒魚
魚の入った桶を持つわたしを、月瑤が背負って後宮まで走る。
ミミズを入れていた桶は持てなかったので置いてきた。いずれまた取りに行くつもりだ。
「は、速いですわ……!」
前世で数回やっていた、わたしの始業ギリギリ全力疾走チャリより速いんじゃないかしら……!?
「あんまり喋ると舌噛むよ」
「……っ!」
月瑤に言われて口を閉じる。林から後宮までそれほど遠くはないとはいえ、あっという間に到着した。
しかも桶の水もこぼれていない。
どんな体幹をしているの……!?
「アタシは階下に報告に行ってきます。清蘭様はご自身の宮殿に戻られて……」
「では、わたしは厨房に行って、ハゼを捌いて参りますわ」
「はぁ!?」
大きなリアクションだ。
「ハゼを捌く? 料理人に預けるじゃなくて? どういう状況か分かってます? 清蘭様、殺されかけたんですよ!?」
「でも、月瑤がいるから安心ですわ」
ニコリと笑いかけると、月瑤は慌てたように片手で顔を隠した。頬が少しだけ赤い。
「あ、あんたねぇ……!」
「照れてます?」
「照れてない!」
ピシャリと否定されてしまう。月瑤はため息をついて、
「わかりました、厨房に行ってください。報告が終わったらすぐ向かいますから」
くるりと踵を返してしまう。
「あ、それと」
その背中を呼び止める。
「わたしが月瑤を武官に推薦できないか、交渉してみますわ。見事な身のこなしでした」
月瑤に拝礼をする。
「命を助けて頂き、本当にありがとうございました」
「え、あ、それくらい、当然の……」
月瑤は顔を赤くしてしばらく視線をうろうろさせてから、意を決したように、拝礼をした。
「推薦の件、よろしくお願いします」
「お任せください。立派な実績だと思いますよ」
わたしたちは、二手に分かれて後宮に入って行った。
真っ直ぐに厨房を目指す。
「すみません、調理場所を一部貸して頂けませんか?」
厨房で声を張り上げると、夕食の下拵えに取り掛かっていた全員が振り向いた。そして驚きと困惑の声を口々に上げている。
「清蘭様、どうされましたか?」
尚食局長──厨房のリーダーの女性が、丁寧な仕草で話しかけてきた。
「魚を釣ったので、捌いて調理したいのです」
わたしは手に持っていた桶を見せる。ハゼは水中でじっとしていた。
「でしたら、我々に任せて頂ければ……」
「いいえ。わたしの手でやりたいのです」
強く言い返すと、尚食局長は苦笑いの表情のまま黙り込んだ。
「…………」
「…………」
しばらく視線を交わし合う。
自分で釣った魚を、自分で捌いて、天璟様に召し上がっていただく。
わたしはそれをやり遂げなければならない。
みなまで言わずとも、料理を生業にしている尚食局長には伝わる気がした。
やはりというか、折れたのは尚食局長のほうだった。
「分かりました、くれぐれも怪我には気をつけてくださいね」
「ありがとうございます!」
わたしはいそいそと指定されたスペースにバケツを持っていく。
バケツの水を捨ててハゼを掴むと、まだビチビチと暴れた。
「まずは締めないと」
まな板の上にハゼを乗せ、包丁の先をハゼの目の上あたり目掛けて突き刺す。
ビクッ!!
ハゼは一瞬だけ暴れ、すぐに力を失ったように動かなくなった。
締められたようだ。
「じゃあ、鱗を剥いで……」
「清蘭はどこだ!!」
重低音が厨房に響き渡った。
解き放たれた出入り口で、天璟様が無表情ながらも、わずかに汗をかいて視線を厨房中に巡らせている。
その後ろでは頭を抱えて「あちゃー」とでも言いたげな月瑤の姿があった。
「ここにおりますが……」
只事ではない雰囲気に、わたしはそっと手を挙げた。
「清蘭!」
目が合うと、天璟様がズカズカと近づいてくる。
「お前、襲われたそうじゃないか! なぜ厨房にいる! 自分の宮で大人しくしているだろ、普通!」
「はぁ……」
わたしは首を傾げる。
「しかし、後宮にはたくさんのお仲間がいらっしゃいます。頼れる女官も。ここにいて安心するなというほうが無理な話でございましょう?」
「仲間……?」
わたしの言葉に、天璟様の眉がぴくりと動いた。
「お前は、誰の差金かも分からない人間に殺されかけた後に、後宮にその犯人がいないと思うか?」
「そうですね。少なくとも、わたしに厨房を貸してくださった、尚食局の皆さんは違うと思いました。わたしを殺そうとする人が、台所を貸して下さるとは思えませんもの」
「そんなの、腹の底では何を考えているかなんて、分からないじゃないか」
天璟様の目は心底不安そうだった。
月瑤がアクアブルーの瞳なら、天璟様は深い藍色だった。底が見えない海の色。何がいるかも分からない、海底。
「そうですね、確かに海底には何がいるか分かりません……」
「海?」
天璟様が怪訝な形相になるが、気にせずわたしは続ける。
「だからこそ、探ってみる価値があるのです。仕掛けを着底(底につくこと)させて、動きを入れながら、時々隙を見せ、相手が乗ってくるのを待つ。そのやりとりは、とても胸が高鳴ると思いませんか……!?」
わたしが同意を求めるようと天璟の顔を見るが、すでに別のことを考えているようだった。
「動きを入れながら、時々隙を見せる……」
何やらぶつぶつと呟いている。
「獲物がかかった時の快感は、ひとたまりもありませんよ……!」
「なるほどな……」
天璟様が何かに納得している。
釣りの魅力に気づいて頂けたのだろうか?
「天璟様も釣りに……!」
「いや、魚は嫌いだ」
キッパリと断られてしまった。
「だが、お前の言っていることは参考になった。礼を言うぞ、清蘭」
天璟様にふわりと優しく微笑まれ、心臓が高鳴るのを感じた。
ずっと無表情で活かされなかった整った顔立ちが、全ての力を発揮してくる。
「い、いえ……! わたしは特に何も……!」
「お前の腹の底は、澄んでいるのだな」
「澄んでいる海って、魚があまりいないんですよね」
「何の話だ?」
すんっとなって言い返すと、天璟様は怪訝な顔に逆戻りした。
「痛い! 痛い痛い!」
厨房のどこかから悲鳴が聞こえた。
声の主を探すと、一人の女官が腕を押さえてうずくまっている。
「どうしましたか!?」
わたしと天璟様、そして月瑤の三人で女官の元へ向かう。
「あ、あれを捌こうとしたら……突然、手が痛くなって……」
しゃがみ込んだ女官は、台所の上のまな板を指差す。一匹の魚が横たわっていた。
「これは……アイゴじゃないですか!」
二十センチはある。濃い茶色がベースの斑点模様の魚。
釣り人の間では毒魚として有名で、釣れてもすぐにリリースされることが多い。憎き、餌取りの魚だ。
そのアイゴの背びれが一部千切れている。おそらくここを触ったのだろう。
「知ってるのか?」
「知ってるも何も、ヒレに毒を持った魚です! 誰か、触れるくらいの熱い湯を用意してください!」
厨房にいた一人の女官が返事をして、水を沸かしに走った。
「天璟様は、お部屋にお戻りになったほうがよろしいかと」
月瑤の助言に、天璟様はハッとする。目の前で事件が起きてしまった。皇帝の彼こそ、安全な場所で待機していたほうがいい。
「分かった。仔細が明らかになり次第、知らせよ」
「御意」
わたしと月瑤は拝礼して、天璟様の背中を見送った。
天璟様と入れ替わりで、熱湯の入った桶を持った女官がやってくる。
痛みにうめいている女官の元へ走り、患部を熱湯に浸からせた。
「もう大丈夫です。アイゴの毒は、熱に弱いですから」
「あ、ありがとうございます……」
女官は、弱々しいながらも少し安心したらしい。脂汗が引いていく。
その様子を見て、わたしも胸を撫で下ろした。
「この魚、あなたはご存知なくて?」
わたしが尋ねると、女官はアイゴのほうをチラリと見た。
「はい……。我々、尚食局の人間は、仕入れてきたもので献立を作るだけですので……」
「この食事はどちらへ?」
「四夫人様方の夕餉でございます……」
また四夫人狙い……。
さっきはわたし、でも今度は四夫人を無差別に……。
わたしは毒にやられた女官を別の者に任せて、尚食局長のところへ行く。
「アイゴをご存知で?」
尚食局長は、首を横に振った。
「いいえ。初めて見る魚でしたが、メジナの仲間だと言われ、宦官から渡されたので、特に疑いませんでした。後宮に仕入れる食材は、すべて担当の宦官が目を通しているはずです」
「宦官が……」
わたしは顎をつまんで考える。
宦官が魚の種類を正確に把握しているとは思えない……。
きっと宦官も「メジナの仲間」だと言われて、仕入れたんだろう。
「月瑤」
「はい」
「大変申し訳ないのですが……」
「いいえ、何なりとお申し付けください」
月瑤は拱手した。
わたしはそんな月瑤の耳に口を寄せる。
「少々荒っぽいことなんですけれど……」
ゴニョゴニョと指示を出すと、月瑤はニンマリと笑った。
「お任せください、清蘭様」
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