3 釣りをする条件
「……はぁ?」
ようやく、天璟様が机上の書簡から視線をわたしに移した。
「清蘭様!?」
「何をおっしゃっているのですか!?」
つい先刻まで、天璟様を誘惑に行くわたしを応援してくれていた女官たちが驚きの声をあげた。
「お黙りなさい」
困惑する二人を睨みつけると、彼女たちはびくりと体を震わせてからすぐに大人しくなった。その隣では、宦官と金髪の宮女が目を丸く見開いていた。
わたしは天璟様への直訴を再開する。
「どうしても、釣りがしたいのです。この釣り竿が、海月宮で見つかったらしいです」
両手で持った釣り竿を掲げるようにずい、と差し出すと、天璟様は眉をしかめて、それを凝視した。
「……それは、釣り竿、なのか?」
「左様でございます。これが発見された海月宮は海に近い場所にある宮殿だそうで。わたし、そちらに移住して、釣り三昧の生活が送りとうございます」
しばし沈黙が流れたのち、天璟様は口を開いた。
「……お前は自分の立場がわかっているのか?」
低く、威厳のある声音。人の上に立ち、人に言うことを聞かせることができる人間が放つ声は、空気を重く震わせる。
わたしは頭を下げて答える。
「もちろんでございます」
「……なら、後宮の姫を、後宮の外にある離宮に住まわせることで、私に何の得がある?」
王としての圧を感じさせる低音が、釣り竿を掲げた姿勢のままであるわたしの背中を撫でた。その圧力に屈しそうになるが、恐怖に歯を食いしばって耐えた。
……ここで負けてはいけない。
海辺に住んで釣り三昧の生活をするという、理想郷がかかっている。
引き下がったら、元の後宮で暮らすだけの平穏な毎日だろうけれど。
そのほうがきっと楽だけれど。
「天璟様に、美味しい魚料理を振る舞います」
「美味い魚!」
ハッ、と天璟様は大きく鼻で笑った。
「私が魚嫌いなのを忘れたのか?」
──そう、天璟様は根っからの魚嫌い。
この国は魚料理が名物だというのに、勿体無い。
「あの骨が喉に突っかかる嫌悪感。美味い魚などとは出会ったことがない!」
頭を下げているから表情はわからないが、心の底から魚を美味しくないと思っているのが伝わってきた。
魚は綺麗に食べるのが難しい。子どものときなら尚更。
そう決めつけてしまうのも理解できる。
理解は、できる、けど。
「……羨ましいことでございます」
「……何?」
わたしは顔を上げた。天璟様の深い藍色の瞳と真っ直ぐ目を合わせる。
「あの美味しさの感動をまだ存じ上げないなんて、羨ましいことでございます。天璟様は、これから初めて体験されるんですね」
自分で釣った魚なら、美味しさは倍増される。
天璟様の口元がひくりとわずかに動いたが、黙ってわたしの話に耳を傾けてくれていた。
「魚とは、季節によって味が異なり、調理法によって、良さが引き出されます。本当に美味しい魚を、わたしが天璟様に教えて差し上げます」
わたしは再び頭を垂れた。
後ろで、宦官や女官たちがひどく怯えているのがわかる。正直、ここで首を刎ねられても、おかしくないかもしれない──それでも、わたしはこのチャンスを絶対にものにしたかった。
「……面白い」
くっくっ、と押し殺したような笑いが聞こえ、わたしは頭を上げて天璟様の顔を見た。
いつも仏頂面でニコリともしなかった天璟様が、笑顔になっている。
丸い目元が細められ、口の端が上がると、美形というよりも美少年のようだった。
天璟様って笑うのね……。
天璟様は全員がびっくりしているのに気づいたようで、すぐにいつもの無表情に戻った。
「いいだろう。その釣り竿で釣った魚を私に食わせて、美味いと言わせてみろ。そうすれば、海月宮への移住を許してやる」
「ありがとうございます」
やった!
ガッツポーズしそうになるのを必死に堪えたが、口角は爆上がりしてしまう。
「しかし」
ほっとしたのも束の間、天璟様の目つきが変わった。
「私が美味しくない、と感じたら──清蘭、お前は後宮から出ていけ」
「えっ」
「どうした? まさか、無条件に要求を通せると思ったのか?」
後ろで女官たちが息をのんだ。
「そんな、清蘭様、やめましょう!」
「わざわざ挑戦しなくても……!」
仕えている妃嬪が処分をされてしまっては、女官たちも行き場がなくなる。妃嬪に仕える女官というのは、それだけである程度の地位を保証されているからだ。他の妃嬪に引き取られたなら別だが。
あまりにもハイリスク。しかも女官たちにとってはノーリターンだ。
……申し訳ない。わたしのエゴに巻き込んでしまって。
わたしは自信があるふりをして、口角を上げたまま天璟様に返事をした。
「もちろん。それくらいでなくては、面白くありませんわ」
ピリッとした空気が、執務室に満ちる。
「……いいだろう。清蘭、外出を許可する」
わたしは釣り竿を持ったまま、拝礼をして退出した。
唖然とした宦官と金髪の宮女は天璟様の執務室に残り、わたしが連れていた女官二人は慌ててついてきた。
「ど、どういうおつもりですか、清蘭様!? わたくしたちはどうなります!?」
「それでは、わたしは釣りに明け暮れてまいりますので、後宮のことはお任せしますわ」
「清蘭様〜!!」
呼び止める女官たちの声を置き去りに、わたしは後宮を出発した──そのときは気づかなかった。
わたしの動きを注意深く見張っている者がいることに。
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