2 釣り竿との出会い
瞬間、脳裏に閃光が散った。
脳内に浮かぶのは、夕焼けに染まる海だった。
こことは違う時代、そうだ、“わたし”は現代の日本人で、普通の派遣社員OLだった。
堤防の先端、絶好のポイントを確保できたわたしは意気揚々としていた。狙いはアジだ。夏から秋にかけてが一番釣れる。
このときは確か、魚が活性化する日が落ちる時間帯──夕まずめどきだったはずだ。
釣り竿にリールを取り付けていく。心が凪いでいるのを感じる。この時間だけは誰の期待も背負わなくていい。
──「あんたのせいで何もできない」
頭の中に響く母の言葉を霧散させるように、わたしは頭を振った。女手一つで育ててくれたことには感謝しているが、代わりに呪いを植え付けられた気がする。
ポケットに入れたスマホが着信を鳴らしているのも気にしない。きっと祖母が「ひ孫の顔を見せてくれ」と小言を言うだけの、いつもの電話だ。
わたしは釣り糸の先にワーム──ミミズのような擬似餌を丁寧につける。今回はピンク色でいこう。
ぽちゃん、とワームが水面に着地する。
一、二、三……。
秒数を数えながら、階層を探っていく。今回はボトムまで落とした。カチャンと小気味のいい音を鳴らしてベールを戻す。
リールをゆっくり巻きながら、くん、くん、と釣り竿を揺らす。ワームが本当に生きているかのように動きを加えるのだ。
そして釣り竿の動きを一瞬止めた瞬間──ビビビッと糸が強く引っ張られるのを感じた。
あたった!
釣り竿を縦にして慎重にリールを巻いていく。グイグイと引っ張り合う感触がたまらなく楽しい。アドレナリンがドバドバ出ているのを感じる。
魚の姿はすぐに水面に見え始めた。
アジだ!
バラさないように、丁寧に引き上げる──
「……どうされましたか? 賢妃様?」
宦官の心配そうな声で我に返った。随分とぼーっとしていたらしい。宦官も、金髪の宮女も、先ほど悪口を言い合っていた女官も、全員がわたしを心配そうに見つめていた。
「い、いいえ……何でもありませんわ」
なんとか笑って誤魔化してみるが、頭の中では動揺が止まらない。
今のってもしかして──前世の記憶?
じゃあ前世のわたしはどうなったの?
思い出そうと、目をぎゅっとつむってみる。
「せ、清蘭様?」
女官たちが不審に思って呼びかけてくるが無視した。
脳内に浮かんでくるのは、雨の日のアパートの階段。
確かあの日は……ハゼ釣りに行ったものの、雨が降ってきたから退散した休日。足を滑らせて、階段から落ちて、頭を強く打って……。
わたしは後頭部に手を当てた。痛くはないし、傷もない。
……あのときに、死んでしまったのかしら。
そう結論付けると、なんだか未達成な人生だったように思う。好きとも言えない仕事をして、安月給で。悲しい、というより、無念、が近いだろうか。
わたしは目を開けて、自分の手の中にあるものを見つめる。
……これは釣り竿だ。しかも、わたしが前世で使っていたものと全く同じ、愛用していたアジング竿。リールも釣り竿もオレンジで彩られている。
後宮にこんな時代外れのものがあるなんて。
ドクン、と心臓が高鳴る。
魚が掛かったときの、あのビリビリとした感触が釣り竿越しに思い出される。
今世は家族の期待を背負って、後宮入りして、皇太子を産むことを望まれているわたしだけれど──前世の記憶を思い出した今、そんなことはもう、どうでもよくなっていた。
……釣りがしたい!!
とにかく釣りがしたい!!
釣りができれば、この際他のことはどうだっていい!
「これが、えぇと、海月宮? に?」
わたしは胸中を悟られないように、いたって冷静に振る舞った。
左様でございます、と宦官は首を縦に振った。わたしの様子が元に戻ったので、少しばかり胸を撫で下ろしている。
「海辺にある宮殿です。過去には、過ちを犯した女官を折檻する場所として使われていたようでございますが、最近は誰も立ち入らず……。今回の整理で普通に生活ができるよう整えました」
つまり、寝床やキッチンなどは揃っていて、しかも、海辺にある。なんなら他の釣り道具だってあるかもしれない。
なんて夢のような宮殿なの!?
もう跡継ぎがどうとか、どうなったっていいわ!
わたしはそこに行きたい!
「清蘭様……?」
「どうかしましたか? ご様子が……?」
後ろに控える女官たちの不安そうな声に、わたしは振り返って笑顔を取り繕う。女官たちはほっとしたように笑みを返してくれた。
宦官に向き直り、釣り竿を彼の手に戻す。
「わたしも、天璟様のところへ伺う予定でしたの。共にしてもよろしくて?」
「もちろんでございます」
長い回廊をゾロゾロと並んで歩いて天璟様の執務室に向かう。
宦官が天璟様の執務室の扉を叩くと、すぐに中から低い声で「入れ」と許可が出た。
「失礼いたします」
部屋の中は、手前に来客対応用のローテーブルとローソファが並べられている。その奥には、執務机と椅子があるだけだ。
天璟様は執務机に向かったまま、顔も上げなかった。
綺麗な黒髪を適当なハーフアップに束ねている。政の際は、もっと丁寧な結い方をしていたが、仕事中は視界に入ってくる顔周りの髪が煩わしいだけのようだ。
身長が高く、体格もいい天璟様だが、目元は丸く、少しばかり幼く見えた。実際二十歳なので年相応でもあるが。そんな美形は無表情で覆われていた。これでは宝の持ち腐れだ。
お茶会で聞いた話だと、わたしを入れた四夫人の誰も、彼が表情を崩したところを見たことがないらしい。
「なんだ」
相変わらず顔を上げないまま、天璟様はわたしたちを促した。
宦官は、陛下に用事があるならお先にどうぞ、と言いたげにわたしを見やった。わたしは宦官の視線にうなずいて、彼の手から釣り竿を奪い取る。
「えっ」
驚いて声を上げる宦官を無視して、わたしは釣り竿を大事に、それはもう大事に持ちながら申し上げた。
「天璟様、わたしを海月宮に住まわせてください」
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