4 守りたい人
月瑤は掖庭から天璟の執務室へ急いでいた。
このままじゃ、天璟様が危ない……!
掖庭に落とされた九嬪の名は、杏蕾といった。
月瑤は宦官たちが普段控えている部屋に通された。机が一つと、机を挟んで腰掛けが二つだけあり、壁の棚には名簿などの書簡が収納されている。一人の宦官が扉の横に立って監視していた。
「……っ」
杏蕾との対面時、月瑤は息をのんだ。
杏蕾は生きる気力もないような暗い瞳で月瑤を見ていたからだ。作業着は薄汚れ、手は荒れている。
これでは真実を正直に話してくれるかもわからないぞ……。
唾を飲みこんでから、月瑤は口を開く。
「杏蕾様に指示をした黒幕は誰ですか?」
もはや身分で言えば、賢妃付き女官である月瑤のほうが上であったが、九嬪であった杏蕾に尊敬の念を込めて敬称をつけて呼んだ。
「…………」
「杏蕾様は本当に四夫人になりたくて、こんなことをしたんですか?」
「…………」
何も答えてくれない。
白状したら殺されると脅されているのだろうか。
「杏蕾様を貶めた黒幕を必ず暴いてみせます」
「あの人を悪く言わないで!」
彼女は急に大声を上げ、机を叩いた。宦官が「おい」と彼女の肩を掴もうとするのを、月瑤は制した。
「大丈夫ですから」
「……ならいいが……」
何か言いたげながらも、宦官は定位置に戻る。月瑤はふーっと息を吐いた。
彼女の目を覗き込む。底が知れない暗闇しか映さない瞳を。
「愛しているんですね、その人のことを」
「…………」
「今でも守りたいんですね」
うなずくわけでも、否定するわけでもない。無反応を貫く杏蕾に、月瑤は語り続けた。
「アタシも守りたい人がいるんです」
月瑤の脳裏に浮かぶのは、幼い頃から自分を育ててくれた道場の師範。一緒に育ってきた道場のみんな──そして、清蘭。
「アタシは最初、恩返しがしたくて武官になろうと思ってたんです」
月瑤は、にかっと笑いかける。杏蕾は話に興味がない、とでも言いたげに俯いて顔を隠した。
「ずっと人のために自分の夢を決めていた。女だから金髪だからって蔑まれることも、仕方ないと諦めてきた。なかったんです、どこにも、自分の意思が」
「…………」
「でも、そんなアタシを認めてくれる人と出会いました。その人はアタシの金髪を美しいと愛でて、強さを認めて、信頼してくれました」
「…………わ」
震える、小さな声が杏蕾の唇から紡がれた。月瑤は聞き逃さず、続きを促すように待った。
「わたくしも……そうだったの……」
言い切った途端、杏蕾の瞳から涙が溢れ出る。両手で顔を覆う杏蕾の肩に手を伸ばし、月瑤はゆっくりと撫でた。
「わたくし、後宮なんてほんとは来たくなくて……」
杏蕾の見た目からして、二十歳を超えていると月瑤は推察していたが、しゃべり口調が幼く、実際はもっと幼いのではないかと考えを改めた。
取ってつけたような「わたくし」という一人称が浮いている。
「でも、仕方なくて、みんなが行けって言うから。幸せになるために行く場所なんだよって。でもぜんぜんそんなことはなくて」
みんなとは家族だろう。売られたのか、と月瑤は察した。
「彼だけだったの。そんなわたくしを認めて、愛してくれたのは……」
杏蕾はわんわんと泣き出した。小さな子どものように。
月瑤はただ彼女の肩を撫で続けた。
ギリ、と奥歯を噛み締める。
利用されたんだ、この世間知らずなお姫様は──純粋無垢な気持ちごと。
杏蕾の泣き声が落ち着いてきた頃を見計らって、月瑤は本題に入る。
「杏蕾様の大切な人が、アタシの大切な人を殺そうとしているんです」
「……っ」
心当たりがあるのだろう、杏蕾は目を少しだけ見開いた。
杏蕾が指示されたことこそ、人の命を奪うことだったのだから。
「アタシ、初めてやりたいことを見つけたんです」
杏蕾は月瑤を見る。月瑤は目を逸らさずに懇願した。
「その人を守りたいんです」
月瑤は椅子から立ち上がり、床に両膝をついて拱手した。
「お願いします」
「…………でも、あの人は…………わたくしを…………」
杏蕾の瞳はまだ濡れていて、困惑に揺れていた。
「そのお方は、杏蕾様のために、掖庭へいらっしゃったことがあるのでしょうか?」
頭を下げたまま、月瑤は意見する。
「…………っ」
「そのお方の頼みを実行した結果、掖庭行きになった杏蕾様を一度でも心配したことはあるのでしょうか?」
「……いや、いやぁぁぁ……」
頭を抱えて、杏蕾は俯いてしまった。
沈黙が部屋を包んだ。聞こえてくるのは、杏蕾が鼻をすする音だけ。
しばらくして、か細い声が響いた。
「……わたくし、使い捨てられてしまったの……?」
月瑤は唇を噛む。
「……恐らくは」
「そう……」
涙だけが静かに杏蕾の頬を流れ続けていた。
「すみません、二人きりにしていただいてもよろしいでしょうか?」
宦官に振り返って、月瑤は頭を下げた。
「しかし……」
「お願いします。賢妃様からの命なんです」
賢妃の名を出すと、宦官は渋々退室した。
二人きりの空間になると、何度かしゃくりあげてから杏蕾は呟いた。
「……四夫人様のお食事に毒を盛れって言われたの」
月瑤は顔を上げる。杏蕾は月瑤を見据えていた。
「でもあの人が毒をくれるわけじゃなかったから、適当に毒魚を用意したわ」
杏蕾は目尻に残った涙を拭いながら言う。
「賢妃様が目当てだったみたいだけど、狙いがわからないように全員に入れろって」
清蘭様が目当て……?
──「わたしも少々やることがあるので」
別れ際の清蘭の言葉が蘇り、月瑤の額に冷や汗が流れた。
「わたくしの愛する人は──いいえ、愛していた人は、陛下のお側にいる武官……これで許してね」
「ありがとうございます……ありがとうございます……!」
再び、月瑤は拱手した。「こっちにきて」と杏蕾に言われ、立ち上がって近づく。
「屈んで」
「? はい」
腰を折ると、杏蕾は月瑤の頭を撫でた。驚いて動けずにいる月瑤に杏蕾は微笑んだ。
「頑張ってね」
その瞳には光が戻っていた。
杏蕾の笑みを思い出しながら、月瑤は自身の頭にそっと触れる。月瑤の頭には、まだ撫でられた感触が残っている気がした。
後宮に出入りできて、陛下のお側にいる武官なんて一人しかいない。
天璟の執務室へと、月瑤は足を速める。劉帆の所在を確かめ、万が一のために武官を招集できるように。
清蘭様も今はひとりだ。
まだ何もないといいけれど……!
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