2 釣りをする条件
「……はぁ?」
ようやく、天璟様が書類から視線をわたしに移した。
その場にいたわたし以外全員が、わたしを驚きの目で凝視している。
「どうしても、釣りがしたいのです。この釣り竿が、海月宮で見つかったらしいです」
両手で持った釣り竿をずい、と差し出す。
天璟様は眉をしかめて、それを凝視した。
「……それは、釣り竿、なのか?」
「左様でございます。これが発見された海月宮は海に近い場所にある宮殿だそうで。わたし、そちらに移住して、釣り三昧の生活が送りとうございます」
「……」
しばし沈黙が流れ、そして、天璟様は口を開いた。
「……自分の立場が分かっているのか?」
低く、威厳のある声音。人の上に立ち、人に言うことを聞かせることができる人間が放つ声だった。
空気が重く震えた気さえする。
わたしは頭を下げる。
「もちろんでございます」
「……なら、後宮の姫を、離宮に住まわせることで、私に何の得がある?」
王としての圧を感じさせる低音が、わたしの背中を撫でた。
……ここで負けてはいけない。
海辺に住んで釣り三昧の生活をするという、理想郷がかかっているのだ。
「天璟様に、美味しい魚料理を振る舞います」
「美味い魚!」
ハッ、と天璟様は大きく鼻で笑った。
「私が魚嫌いなのを忘れたのか?」
「…………」
──そう、天璟様は根っからの魚嫌い。
後宮に魚料理が振る舞われても、天璟様に出すことは許されない。そういう規則だ。後宮は皇帝様が絶対なのだから。
「あの骨が喉に突っかかる嫌悪感、臭み、苦味。美味い魚などとは出会ったことがない!」
「…………」
頭を下げているから表情は分からないが、心の底から魚を美味しくないと思っているのが伝わってきた。
魚は綺麗に食べるのが難しい。子どものときなら尚更。
そう思ってしまうのも理解できる。
理解できる、けど。
「……羨ましいことでございます」
「……何?」
わたしは顔を上げた。天璟様の漆黒の瞳をまっすぐと見つめる。
「あの美味しさの感動をまだ存じ上げないなんて、羨ましいことでございます。天璟様は、これから初めて、体験されるんですね」
自分で釣った魚なら、美味しさは倍増される。
「…………」
天璟様は表情をぴくりとも動かさずに、わたしの話に黙って耳を傾けていた。
「魚とは、季節によって味が異なり、調理法によって、良さが引き出されます。本当に美味しい魚を、わたしが天璟様に教えて差し上げます」
わたしは再び頭を垂れる。
「…………」
後ろで、宦官や女官たちがひどく怯えているのが分かる。
正直、ここで首を刎ねられても、おかしくないかもしれない。
それでも、わたしはこのチャンスを絶対にものにしたかった。
それくらい、釣りがしたいのだ。
「……面白い」
くっくっ、と押し殺したような笑いが聞こえ、わたしは頭を上げて天璟様の顔を見た。
いつも仏頂面でニコリともしなかった天璟様が、笑顔になっている。
天璟様って笑うのね……。
天璟様も全員がびっくりしているのに気付いたようで、すぐにいつもの無表情に戻った。
「いいだろう。その釣り竿で釣った魚を私に食わせて、美味いと言わせてみろ。そうすれば、海月宮への移住を許してやる」
「ありがとうございます」
やった!
ガッツポーズしそうになるのを必死に堪えたが、口角は爆上がりしてしまう。
「しかし」
天璟様の目つきが変わった。
「私が美味しくない、と感じたら──清蘭、お前は後宮から出ていけ」
「えっ」
「どうした? まさか、無条件に要求を通せると思ったのか?」
天璟様が無表情に告げる。
後ろで女官たちが息を呑んだ。
「そんな、清蘭様、やめましょう!」
「わざわざ挑戦しなくても……!」
女官たちが心配してくれるのはありがたい……。
進言は最もだ。
あまりにもハイリスク。しかも女官たちにとってはローリターンだ。
……でも。
わたしは口角を上げたまま天璟様に返事をした。
「もちろん。それくらいでなくては、面白くありませんわ」
ピリッとした空気が、執務室に満ちる。
天璟様はニヤリと笑った。
「……いいだろう。清蘭、外出を許可する」
わたしは釣り竿を持ったまま、拝礼をして退出した。
唖然とした宦官と金髪の女官は天璟様の執務室に残り、わたしが連れていた女官二人は慌ててついてきた。
「ど、どういうおつもりですか、清蘭様!?」
「それでは、わたしは釣りに明け暮れてまいりますので、後宮のことはお任せしますわ」
「清蘭様〜!!」
呼び止める女官たちの声を置き去りに、わたしは後宮を出発した。
そのときは気づかなかった。
わたしの動きを注意深く見張っている者がいることに。
***
嵐のように清蘭が去ったあと。
天璟の執務室に残された宦官と、金髪の女官──月瑤は、呆気に取られたまま立ちすくんでいた。
「それで、お前たちはどうした?」
天璟の呼びかけで、釣り竿を持ってくるはずが清蘭に奪い取られてしまった宦官はハッとする。
「実は、先ほどの釣り竿の処分について、いかようにすべきかお尋ねしに参ったのですが……」
「では用事が済んでしまったようだな」
「そうなりますね……」
「ああは言ったが、私の妃には変わりない。清蘭に何かあったら、私の面目が潰れてしまう。彼女に護衛を付けてやってくれ」
天璟に言われ、宦官は月瑤を見る。
「そういえば、月瑤は武術の心得があるんだったよな?」
「ずっと前から武道が得意だと言ってるじゃないですか、アタシは武官希望だって。いい加減、武官に推薦してくれません? 元々、師匠が朝廷に武官として推薦してくれてたのに、女だからって勝手に女官にされて」
「わかったわかった」
月瑤の訴えを被せるようにして、宦官は頷いた。
「よし、賢妃様の護衛をして、成果が出せたら考えてやる」
「厄介払いしてるだけですよね? そう言われたら、やらざるを得ないですけど」
護衛の成果なんて、出ないほうが平和なのだが。
月瑤はその言葉を飲み込んだ。
「では、天璟様、我々はこれで失礼します」
「ああ」
月瑤と宦官は、拝礼をして執務室から退室して行った。
バタンと閉まった扉を見つめて、天璟はようやく「ふぅ」と息を吐いた。
「人がいると緊張する……」
そう言って、天を向き、両手で顔を覆った。
それは、王とは程遠い、一人の弱気な青年の姿であった。
天璟はなりたくて皇帝になったわけではない。
前皇帝である父親が、突然死んでしまったのだ。
父の死は暗殺も疑われたが、過労という判断が下された。真面目な父らしい終わり方だと思った。
故に、何も心の準備ができていないまま、いきなり位が与えられた。
後宮も、臣下たちから「この中から後宮入りする女を選んでください」と言われ、適当に選んだに過ぎない。
誰でもいいから、と選んだ女たちと、いきなり子作りをする気には到底なれず、形だけの後宮となってしまっていた。
「いけない、誰が聞いてるかも分からないからな……」
小さく独り言を呟いてから、天璟は仏頂面を作り直し、背筋を伸ばす。
母は父より先に他界していた。
急に政界へ放り出された天璟は、誰が味方で誰が敵かも判別できていなかった。
まだ若い天璟を利用とする輩は大勢いる。その悪意を見定めなければいけない。
それができないなら、誰も信用はできない。
そう。天璟はまだ、後宮内に心を許せる人間が一人もいなかった。
自分の身を守るため、王として振る舞うため、隙を見せないように、表情は一貫して引き締めていたのだ。
そんな中、ふと、破顔してしまったことを思い出す。
「あんな自信を、俺も持ってみたいものだな……」
絶対に美味しい魚を食わせてやる、と豪語した清蘭。
今の天璟に、そうやって何かを成し遂げると断言できるだけの自信は、まだない。
とにかく、目の前の仕事を片付けるのみだった。
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