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後宮の釣り姫  作者: よこすか なみ
第3章 生で食うな、焼いて食え
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5 人魚

 結局昨日は天璟《てんけい》様の指令を無視した。正確には、もう暗いから明日、つまり今日帰ると劉帆《りゅうほ》様に言伝してもらった。


 翌朝、動きやすい格好に着替えたものの、昼間は何も手につかなかった。食事も摂る気にならず、ぼーっとしていたら夜になった。また劉帆様が「早く後宮に戻れ」と叱りにいらっしゃるかもしれない。


 わたしは手提げ灯籠と思い出のアジング竿を持って、また桟橋に訪れていた。


 月瑤と初めて会ったときにハゼ釣りをしたのもこの竿だ。前世でも使っていた竿でもある。


 もうわたしの相棒はこれしかいない。


 釣り糸の先端にはすでに仕掛けが付いている。釣り針にワームを通し、夜の海へと竿を振った。


 ぽちゃん。


 ワームが海に落ちるのを見て、秒数を数える。底を探りながら手繰り寄せよう。足元に置いてある手提げ灯籠《とうろう》が、海に明暗の境を作っている。


 ──「アタシって清蘭《せいらん》様にとって“その程度”だったんですね!」


 今日はずっと月瑤の声が頭の中に響いている。


 その程度、か……。


 釣り糸をゆっくり巻いて、止める。巻いて、止める。


 わたしがそばにいたら、月瑤の足枷になってしまうじゃない。


 くい、とワームに動きを入れる。


 それが一番怖い。誰かの鎖になんかなりたくない。


 再びリールを巻き始める。


 そうなるくらいなら、釣りだってできなくたっていい。暗殺者だって、どうでもいい。


 リールを巻く手を止める。


 月瑤の夢が叶うなら、それで。


 ビビビッ!


「えっ!?」

 釣り竿から強い振動と引っ張られる力を感じた。


 あたった!


 バラさないように、慎重にリールを巻こうとしたとき──背中に強い衝撃が走った。


 足が宙に浮く。


 え……。


 視界は海ではなく、桟橋の根元。浮遊感ののち、バシャンと音を立てて、口の中に水が入ってきた。


 誰かに突き飛ばされた……!?


 腰より低い欄干を飛び越えたのだ、と理解した頃には、わたしの体は暗い海に沈んでいた。


 バシャバシャと暴れるが体がなかなか浮上しない。持っていた釣り竿が海の底へ引っ張られるように消えていく。


 冷たい、寒い、怖い。


 動きやすい身なりだったが、どんどん水を吸っていき思うように体が動かせない。


 見上げると、水面がやたら遠くに感じた。


 こんなところで終わるのか。せっかく転生までしたのに。

 釣り三昧の日々が送れそうだったのに。


 わたしは月明かりへ向かって手を伸ばす。


 ……死にたくない。


 いよいよ酸素がなくなってきて、口から泡が吹き出た。目が開けていられなくなる。意識も曖昧になってきた。


 ……まだ月瑤に謝ってないのに……。


 冷たい海の中、手が包み込まれる温かな感触があった。されるがまま、引っ張られる。


 なんだろう……人魚とか、いるのかな、もしかして。


 釣り具が湧いてくるもんね……人魚がいてもおかしくないか……。


「ぷはぁっ!」

 風が頬を刺した。


「大丈夫ですか!? 清蘭様!」


 必死に呼びかけてくる、聞き馴染んだ声。わたしは目を開けようとして、ゲホッと海水を吐き出した。


 何度か吐き出すと、肺に空気が入ってくる。脳にも酸素が回ってきて、ようやく目の前の人物と目を合わせられた。


「……にんぎょ?」

「月瑤です!」


 人魚だと思ったのはふざけたからではない。月瑤がここにいるはずがないからだ。


「海岸に向かいますから、もう少し耐えてくださいね!」


 それだけ叫んで、月瑤は動けないわたしを器用に引っ張りながら、桟橋横の海岸まで泳いで行った。


 砂浜に寝転び、星空を全身で浴びる。


「……生きてる」

「そうですよ、生きてますよ」


 四つん這いになって肩で息をしながら、月瑤が答える。わたしはすぐ右にいる月瑤に頭を向けた。


「なんで……ここに……」

「まだ後宮に戻っていないようでしたから」


 雪瑛《せつえい》様の女官になったのに……?


 わたしの言いたいことを察したのか、月瑤は顔を背けながら続ける。


「どうせ一人で夜釣りなんて危ないことしてんだろうな、って思って、天璟様に許可をいただいて来たんです」

「…………」


「そしたら、海に沈んでいくんですもの! 本当に何してるんですか!?」

「…………」


 わたしは月瑤から夜空に視線を戻した。前世の日本よりくっきり星が見える。地方に遠征したときは月や星を楽しむのも釣りの一興だった。


「……なんか、言ってくださいよ」


 無視されたと思った月瑤があぐらをかいて、頬を膨らませていた。わたしも息が整ってきたので起き上がる。


「なんでここに来たんですか?」

「だからぁ」

「なんで?」


 砂を掴む。爪の間に砂が入り込んできた。


「せっかく武官になれる機会だったのに!」


 涙が頬を伝った。俯いたままのせいで、砂浜にぽたりと落ち、すぐに吸収されていく。


 月明かりだけがわたしたちを照らしていた。


「…………」


 月瑤は立ち上がり、わたしの正面まで移動してしゃがみ込んだ。砂だらけの指で、わたしの涙を拭ってくれる。頬に砂がついた。


「……清蘭様を守りたかったからです」


 わたしは顔を上げた。月瑤は微笑んでいた。びしょびしょの金髪がおでこに張り付いている。


「清蘭様と離れている間、ずっと考えていました。アタシってなんで武官になりたいんだろうって」

「それは、道場の……」

「清蘭様一人守れないのに?」


 月瑤は困ったように笑う。わたしの髪の毛から雫が垂れた。


「アタシ、大切な人を守るために武官になりたいんです」


 月瑤は月を見上げた。昼間は太陽の光に、夜は月の光に反射する金髪が、とても綺麗だと改めて思った。


「その中に清蘭様も含まれてるってこと!」


 眩しい笑顔を向けられて、わたしは衝撃を受けた。口を開くけれど言葉にならない。代わりに、目から大量の涙が溢れ出てくる。


「わ、わ、わたし……」

「はい」

「月瑤と一緒に釣りがしたいです……!」

「しましょう」


 もう月瑤の顔は滲んで見えなくなっていたけれど、きっと笑ってくれているんだろうなとわかった。


「ごめんなさい、月瑤、ごめんなさい……!」


 濡れたまま抱きしめると、月瑤もためらいがちに抱きしめ返してくれた。


 あとはもう思いっきり泣いた。気が済むまで泣いた。月瑤は「はいはい」とずっと相槌を打って、時々背中をさすってくれた。


「清蘭様はどうして海に落ちちゃったんですか?」


 ようやく気持ちが落ち着いてきた頃、月瑤が尋ねてくる。


「落ちちゃったんじゃなくて、誰かに突き落とされたんです」

「え!?」


 驚くのも無理はない。わたしも事態を認識したときはびっくりした。海に落ちてからは犯人を考える余裕もなかったけれど。


「暗殺未遂じゃないですか……!」

「そうなんですよね……あ」


 自身の空っぽの両手を見つめる。


「釣り竿がない……」


 真っ暗な海に振り返る。海は静かで何も返してくれそうにない。


 わたしたちは濡れた体を拭くために、海月宮へ歩を進める。


「月瑤は桟橋で誰かとすれ違いませんでしたか?」

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