5 人魚
結局昨日は天璟様の指令を無視した。正確には、もう暗いから明日、つまり今日帰ると劉帆様に言伝してもらった。
翌朝、動きやすい格好に着替えたものの、昼間は何も手につかなかった。食事も摂る気にならず、ぼーっとしていたら夜になった。また劉帆様が「早く後宮に戻れ」と叱りにいらっしゃるかもしれない。
わたしは手提げ灯籠と思い出のアジング竿を持って、また桟橋に訪れていた。
月瑤と初めて会ったときにハゼ釣りをしたのもこの竿だ。前世でも使っていた竿でもある。
もうわたしの相棒はこれしかいない。
釣り糸の先端にはすでに仕掛けが付いている。釣り針にワームを通し、夜の海へと竿を振った。
ぽちゃん。
ワームが海に落ちるのを見て、秒数を数える。底を探りながら手繰り寄せよう。足元に置いてある手提げ灯籠が、海に明暗の境を作っている。
──「アタシって清蘭様にとって“その程度”だったんですね!」
今日はずっと月瑤の声が頭の中に響いている。
その程度、か……。
釣り糸をゆっくり巻いて、止める。巻いて、止める。
わたしがそばにいたら、月瑤の足枷になってしまうじゃない。
くい、とワームに動きを入れる。
それが一番怖い。誰かの鎖になんかなりたくない。
再びリールを巻き始める。
そうなるくらいなら、釣りだってできなくたっていい。暗殺者だって、どうでもいい。
リールを巻く手を止める。
月瑤の夢が叶うなら、それで。
ビビビッ!
「えっ!?」
釣り竿から強い振動と引っ張られる力を感じた。
あたった!
バラさないように、慎重にリールを巻こうとしたとき──背中に強い衝撃が走った。
足が宙に浮く。
え……。
視界は海ではなく、桟橋の根元。浮遊感ののち、バシャンと音を立てて、口の中に水が入ってきた。
誰かに突き飛ばされた……!?
腰より低い欄干を飛び越えたのだ、と理解した頃には、わたしの体は暗い海に沈んでいた。
バシャバシャと暴れるが体がなかなか浮上しない。持っていた釣り竿が海の底へ引っ張られるように消えていく。
冷たい、寒い、怖い。
動きやすい身なりだったが、どんどん水を吸っていき思うように体が動かせない。
見上げると、水面がやたら遠くに感じた。
こんなところで終わるのか。せっかく転生までしたのに。
釣り三昧の日々が送れそうだったのに。
わたしは月明かりへ向かって手を伸ばす。
……死にたくない。
いよいよ酸素がなくなってきて、口から泡が吹き出た。目が開けていられなくなる。意識も曖昧になってきた。
……まだ月瑤に謝ってないのに……。
冷たい海の中、手が包み込まれる温かな感触があった。されるがまま、引っ張られる。
なんだろう……人魚とか、いるのかな、もしかして。
釣り具が湧いてくるもんね……人魚がいてもおかしくないか……。
「ぷはぁっ!」
風が頬を刺した。
「大丈夫ですか!? 清蘭様!」
必死に呼びかけてくる、聞き馴染んだ声。わたしは目を開けようとして、ゲホッと海水を吐き出した。
何度か吐き出すと、肺に空気が入ってくる。脳にも酸素が回ってきて、ようやく目の前の人物と目を合わせられた。
「……にんぎょ?」
「月瑤です!」
人魚だと思ったのはふざけたからではない。月瑤がここにいるはずがないからだ。
「海岸に向かいますから、もう少し耐えてくださいね!」
それだけ叫んで、月瑤は動けないわたしを器用に引っ張りながら、桟橋横の海岸まで泳いで行った。
砂浜に寝転び、星空を全身で浴びる。
「……生きてる」
「そうですよ、生きてますよ」
四つん這いになって肩で息をしながら、月瑤が答える。わたしはすぐ右にいる月瑤に頭を向けた。
「なんで……ここに……」
「まだ後宮に戻っていないようでしたから」
雪瑛様の女官になったのに……?
わたしの言いたいことを察したのか、月瑤は顔を背けながら続ける。
「どうせ一人で夜釣りなんて危ないことしてんだろうな、って思って、天璟様に許可をいただいて来たんです」
「…………」
「そしたら、海に沈んでいくんですもの! 本当に何してるんですか!?」
「…………」
わたしは月瑤から夜空に視線を戻した。前世の日本よりくっきり星が見える。地方に遠征したときは月や星を楽しむのも釣りの一興だった。
「……なんか、言ってくださいよ」
無視されたと思った月瑤があぐらをかいて、頬を膨らませていた。わたしも息が整ってきたので起き上がる。
「なんでここに来たんですか?」
「だからぁ」
「なんで?」
砂を掴む。爪の間に砂が入り込んできた。
「せっかく武官になれる機会だったのに!」
涙が頬を伝った。俯いたままのせいで、砂浜にぽたりと落ち、すぐに吸収されていく。
月明かりだけがわたしたちを照らしていた。
「…………」
月瑤は立ち上がり、わたしの正面まで移動してしゃがみ込んだ。砂だらけの指で、わたしの涙を拭ってくれる。頬に砂がついた。
「……清蘭様を守りたかったからです」
わたしは顔を上げた。月瑤は微笑んでいた。びしょびしょの金髪がおでこに張り付いている。
「清蘭様と離れている間、ずっと考えていました。アタシってなんで武官になりたいんだろうって」
「それは、道場の……」
「清蘭様一人守れないのに?」
月瑤は困ったように笑う。わたしの髪の毛から雫が垂れた。
「アタシ、大切な人を守るために武官になりたいんです」
月瑤は月を見上げた。昼間は太陽の光に、夜は月の光に反射する金髪が、とても綺麗だと改めて思った。
「その中に清蘭様も含まれてるってこと!」
眩しい笑顔を向けられて、わたしは衝撃を受けた。口を開くけれど言葉にならない。代わりに、目から大量の涙が溢れ出てくる。
「わ、わ、わたし……」
「はい」
「月瑤と一緒に釣りがしたいです……!」
「しましょう」
もう月瑤の顔は滲んで見えなくなっていたけれど、きっと笑ってくれているんだろうなとわかった。
「ごめんなさい、月瑤、ごめんなさい……!」
濡れたまま抱きしめると、月瑤もためらいがちに抱きしめ返してくれた。
あとはもう思いっきり泣いた。気が済むまで泣いた。月瑤は「はいはい」とずっと相槌を打って、時々背中をさすってくれた。
「清蘭様はどうして海に落ちちゃったんですか?」
ようやく気持ちが落ち着いてきた頃、月瑤が尋ねてくる。
「落ちちゃったんじゃなくて、誰かに突き落とされたんです」
「え!?」
驚くのも無理はない。わたしも事態を認識したときはびっくりした。海に落ちてからは犯人を考える余裕もなかったけれど。
「暗殺未遂じゃないですか……!」
「そうなんですよね……あ」
自身の空っぽの両手を見つめる。
「釣り竿がない……」
真っ暗な海に振り返る。海は静かで何も返してくれそうにない。
わたしたちは濡れた体を拭くために、海月宮へ歩を進める。
「月瑤は桟橋で誰かとすれ違いませんでしたか?」
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