1 生魚
「東の国の商人が後宮に来訪しているらしいですよ!」
起き抜けに興奮した口調で月瑤が教えてくれた。
「商人……?」
「さっき食材調達や連絡のために、ちょろっと後宮のほうへ行ってきたんですけど」
寝ぼけ眼のまま、月瑤にテキパキと身支度をさせられる。今日も釣りをしようと思っていたのに、気づいたら動きにくい妃嬪の格好をさせられていた。
「市場みたいに異国のものを売りに来ていて、誰でも見に行っていいそうです」
「何か欲しいものがあるのですか?」
「そういうわけじゃないですけど……」
視線を逸らしながらモゴモゴと言い淀む月瑤を見て、わたしはだんだんと目が覚めてくる。
月瑤の主人として、頑張ってくれている彼女に褒美を与えるべきではないか。
お年頃の乙女に対して気が回らなかった己を悔やむ。
「普通に楽しそうじゃないですか? それに、珍しい調理器具もあるらしいですよ」
調理器具……!?
アジを釣ろうとしたときから思っていた──すりおろし器が欲しいと。
大根があってもわさびがあっても、あれがなければ意味がない。
「行きましょう、月瑤」
「変わり身早いな!」
先頭切って歩き出したわたしの後ろから、月瑤が追いかけてきた。
「これが市場……!」
はやる気持ちを抑えきれず、わたしは月瑤におぶわれて後宮まで行った。
男性禁制である後宮の前には門があり、見張りが立っている。門前の広場に商人たちが店を広げていた。
後宮に勤める女官たちや宦官たちも大勢買い物に集まっている。
「魚も売ってる〜!」
わたしは頬に両手を当てて歓声を上げた。
桶に氷をたくさん入れた中に、生魚がそのまま入っている。碧海国は魚が名産品なので売られていること自体は珍しくないが、後宮入りしてから出店を見る機会はなくなってしまった。
久しぶりの魚に興奮が抑えられない。
「大きなシマアジ……!」
アジの中でも鰭から横に一本金色の線が入っているアジがシマアジだ。高級魚で、脂が乗っていてとても美味しい。
目の前のシマアジは四十センチをゆうに超える大きさだ。
シマアジは一般的に四十センチ〜六十センチの大きさだと言われているが、わたしはまだ自分の手のひらサイズほどのシマアジしか釣ったことがない。
海月宮でも釣れるかしら……!?
「食べたいじゃなくて、釣りたいの目線で見てません?」
月瑤の声かけで我に返った。そうだった、月瑤への褒美を買いに来ているのだった。ついでにすりおろし器も。
「シマアジを知っているとはお目が高いですね」
アラフォーくらいのおじさま商人が優しく微笑みながら話しかけてきた。
頭には赤茶色のハチマキを巻いて、肩までありそうな髪を後ろで一括りにしている。肌は日焼けで黒くなっているので、おそらく漁師だろう。Vネックの麻でできた長袖を肘まで捲って、いかにも普段力仕事をしていそうなたくましい腕が覗いていた。
月瑤が警戒してわたしの前に出る。商人は気に留めずに続けた。
「こちらでは魚を生で食べる文化がないと聞きました。丸めた米に生魚を載せ、醤油を付けて食べると美味しいですよ」
それは寿司じゃん……!
この商人たちのおかげで寿司文化が輸入されるのだと思うとよだれが溢れ出てくる。
碧海国に稲はあるものの、お粥にして食べるのが主流だ。現代日本の炊き立て米はない。
そういうのもまとめて碧海国の文化に根付かないかしら……!?
「先程いらっしゃった女性たちも、生魚を食べる文化に興味を持ってくださいまして。一緒にいたお姫様がこちらを買われて行きました」
やや高望みをしていると、商人は並んでいる魚の一つを指差した。
「え、これを買われたんですか!?」
わたしは目を見張って、声を荒げてしまう。わたしの大声に驚いた商人はやや後退りながらうなずく。
「危険性についてはきちんと説明しましたから、大丈夫かと……」
「どちらのお姫様が買われたのですか!?」
「確か……雪瑛様、と呼ばれていらっしゃったような……」
雪瑛様は四夫人の一人、徳妃。
わたしは雪瑛様の宮殿へ駆け出した。
「ちょ、清蘭様!?」
虚を突かれた月瑤が後ろから追いかけてくる。あっという間に並走された。
「どこ行かれるんですか? てか、どうしたんですか?」
「雪瑛様が危ないのです!」
「危ない? 魚を買っただけですよね?」
喋りながら走っているのに息が乱れない月瑤のすごさを改めて実感する。
「生魚を食べたいと言って買った魚が問題なのです!」
「何を買われたんですか?」
はぁはぁしながらわたしはなんとか答える。
「サバです!」
説明されたなら生で食べていないといいけれど……!
雪瑛様の宮殿に到着するや否や、女官たちの制止の声をも聞かずにわたしは食事をしている雪瑛様に突撃した。
「え……」
目をまんまるにしてこちらを見る雪瑛様は、箸でサバの切り身を口に運ぶ寸前だった。
生サバだわ!
わたしはその箸を叩き落とす。カラン、と小気味の良い音を立てて、箸が床を転がる。サバの切り身もべちっと落ちる。
丸テーブルの上にはまだサバの切り身がいくつか盛り付けられていた。どうやら最初の一口を阻止できたようだ。
「な、急に来て何するの!? せっかくの魚が台無しじゃない!」
慌てて落ちた魚を拾おうとする雪瑛様にわたしは怒鳴りつけた。
「アニサキスチャレンジをするな!!」
ビクッとして動きを止める雪瑛様を押しのけ、わたしは床に落ちたサバの切り身と箸を拾い上げた。切り身を丹念にチェックする。
いた……。
立ち上がり、目的のものを箸で摘み、持ち上げて見せる。
「あに……何……?」
混乱と不服に彩られたまま、雪瑛様は目を細めた──箸の先に摘まれた小さくて細い生き物を。
「虫です」
「虫……? 虫が魚に……?」
雪瑛様付きの女官が不安げに声を漏らした。
アニサキス──青魚によくいる寄生虫だ。
長さは二、三センチ、幅は〇・五〜一ミリくらいの、白い糸みたいな虫。
アニサキスで死ぬことはないらしいが、わたしは死ぬかと思った。それくらい痛い。
「そうです。死には至りませんが、この虫を飲み込んでしまうと胃に刺し入ってきます」
恐ろしい説明を聞いてざわついた。女官たちが情報共有のためにそれぞれ部屋から駆け出していく。
てんやわんやな部屋の中で、雪瑛様だけが静かに何かを考えているようだった。
「月瑤、これを……」
「はい、処分しておきます」
わたしが箸ごとアニサキスを月瑤に渡していると、ふと雪瑛様が口を開いた。
「貴女……私を助けてくれたの……?」
雪瑛様は先程の強気な表情から一転、幼子のように眉尻が下がっている。
「サバの美味しい食べ方を教えて差し上げます」
わたしはニヤリと笑ってみせた。
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