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後宮の釣り姫  作者: よこすか なみ
第2章 坊主でもそばにいる
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7 満月の夜

 今夜は満月か……。


 空を見上げながら、竿を上下に揺らす。横では月瑤《げつよう》がぼーっと暗い海を眺めていた。潮風が昼より強くなり、彼女のポニーテールが揺れる。足元に置いてある手提げ灯籠《とうろう》が彼女の横顔を照らしていた。


 月瑤には暗殺者に狙われている身分で夜釣りなんて言語道断、と鼻息荒く叱られた。何度も頭を下げてどうにか「月瑤の監視付き」という条件で釣りをさせてもらえることになった。


 満月って釣れないんですよね……。


 灯籠の光と影の境目に釣り竿を垂らして待つ。


 せめて満潮かどうかわかったら……。


 潮の具合がわかるスマホアプリに思いを馳せていると、背後から足音が聞こえてきた。


「……っ!?」

 月瑤がわたしを庇うように立つ。わたしは釣り竿をそっと欄干に立てかけた。


 暗闇から灯籠を手に持って現れたのは──


「離宮を満喫しているようだな」

「天璟《てんけい》様!?」


 わたしと月瑤は慌てて拝礼する。天璟様は「いい、いい」とおっしゃって、拝礼を止めさせた。


 他の家臣が見当たらない。護衛もなしにいらっしゃったのかもしれない。


 後宮内で何か、天璟様が離宮まで来ざるを得なかった事件が起こった……!?


「どうなさいましたか? 何か、事件でも!?」

 月瑤が後ろに下がる。わたしが思考をめぐらせながら尋ねると、天璟様の眉間に薄く皺が寄った。


「何かなかったら来てはいけないのか?」

「あ……」


 自分の勘違いに気づく。わたしは天璟様の妃嬪《ひひん》なのだった。釣りに没頭するあまり、大前提を忘れるなんて。


 でも、誰とも夜を過ごしたことのない天璟様が、一体なぜわたしのところに?

 わたしを選んだ理由はすぐにピンときた。


「釣りに興味がおありなのですね!?」

「ぷっ」


 月瑤が吹き出し、天璟様が睨みつけた。月瑤は拱手《こうしゅ》をして、目の届く範囲のギリギリ遠くまで行ってしまう。


 天璟様は深いため息を吐いた。

「……まぁ、それでいい」

「では、こちらの釣り竿をお持ちください」


 欄干に立てかけていたサビキの釣り竿を渡すと、天璟様はおそるおそる受け取ってくれた。


「これでどうすればいいんだ?」

「待ちます!」

「待つ……だけか?」

「はい。釣りとは基本的にそういうものです」


 投げたり、動きをつけたりする釣り方もあるが、つまるところ、やっているのは釣れるまで待つ、それだけ。


「……楽しいか?」

 まだ大して待っていないのに天璟様が尋ねてくる。わたしはうなずいた。


「待つ時間も楽しいです。周囲の自然を感じる時間も、わたしは好きなのです」

「…………」


「耳で感じる波の音、肌で感じる風の強さ、鼻で感じる潮の匂い、釣り竿から伝わる波。夜だから満月が綺麗です。釣りって、周囲も含めて全身で楽しむものなんですよ」

「……全身で楽しむ、か」


 微かに、天璟様の口角が上がった気がする。見間違いかもしれない。

 しばらくわたしたちは無言だった。釣り竿も無言だ。天璟様が自然を楽しんでいらっしゃるようで、わたしはゆっくり目を閉じた。


「なぁ」

「はい」


 風を感じながら、そろそろアミコマセをカゴに補充するか、と思い始めた頃、天璟様が口を開いた。


「周りが敵だったら、お前はどうする?」

 意図を測りかねて、わたしは顎を指でつまんだ。


「強風や雨天ってことですか?」

「……それでいい」


「うーん、やっぱり日を改めるのが一番ですが、譲れない日だったら強行することもあります。悪天候はやめたほうがいいって理屈ではわかっているんですけど、感情はそうもいかないですから」


 一泊二日の釣り遠征に行った日が雨だった過去を思い出す。その日しかないので、やるしかなかったなぁ。


 わたしは天璟様の目を見て言う。


「周囲の状況に納得できないなら、自分の好きなように行動するべきです」

 深い海色の瞳が見開かれ、動揺の色が収まらぬまま、天璟様は釣り竿を強く握りしめた。


「……何かありましたか?」

「……家臣から」


 ぽつり、とオモリが水面に落ちたように話し始める。


「周辺諸国へ軍事的圧力をかけるべきだと、進言されていて……」

 徐々に消えていく喋り方にわたしは耳を澄ませた。

 話の流れからすると、天璟様は納得されていないようだ。


「釣り竿を握っているのは天璟様です」

 わたしはそっと、彼の手に自分の手を重ね合わせた。大きな手が、びくりと震える。


「釣行を強行するのも、撤退するのも、ご自身が納得できるご決断をしてください。もちろん、その二択に限ったことではございません」


「俺が……納得……」

 天璟様が繰り返す。


「清蘭……」

 名を呼ばれたそのとき、釣り竿が強く振動した。


「あたった!」

「あた……?」


「釣り竿を縦にして、この糸巻きの持ち手をゆっくり前に回してください!」

 ハゼ釣りのときを思い出す。天璟様は何が何だかわからない様子で指示通りにしてくれた。


 魚が水面に顔を出す。


 あ、あ、アジだ〜〜〜!!


「もう少し糸を回したら魚を引っ張り上げてください!」

「わ、わかった」


 天璟様がアジを引っ張り上げようとした瞬間──アジは釣り針から離れ、海に帰ってしまった。


 ぽちゃん、と明快な音だけが耳に残る。わたしは欄干を掴んで、海を見つめることしかできなかった。


「ば、バレた……」

「ばれ……?」

「魚が釣り針から逃げてしまうことですわ……」


 わたしのアジが……正確には天璟様のアジが……!


 両拳を握ってジタバタと振り回していると、「ふはっ」と笑い声がした。


「そんなに悔しいか……っ!」

 天璟様は片手を口元にやり、目尻に涙を浮かべていた。その笑顔を見て、自分の変な挙動を反省する。


「悔しいですよ! 今度はアジを召し上がってほしかったのに!」

 わたしの主張に、天璟様は「そうか」と笑いながら釣り竿を返却してきた。


 ひとしきり笑い終わって、ふぅ、と息を吐いた頃には、いつもの仏頂面に戻っていた。


「なぁ、また来てもいいか?」

「えぇ、もちろん」


 天璟様はわたしの頭をポンと撫でる。


「あっ、すまない、つい」


 皇帝様から触れられることに非礼も何もないのだが、彼は自身の行動に驚いた様子だった。それもなんだかおかしくて。


「ふふ、嬉しいです」

 不思議と彼に触られるのは嫌じゃない。


 わたしが笑いかけると、天璟様は薄く笑い返して、後宮へ戻って行った。


 わたしは一晩中、頭の感触が忘れられなかった。

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