7 満月の夜
今夜は満月か……。
空を見上げながら、竿を上下に揺らす。横では月瑤がぼーっと暗い海を眺めていた。潮風が昼より強くなり、彼女のポニーテールが揺れる。足元に置いてある手提げ灯籠が彼女の横顔を照らしていた。
月瑤には暗殺者に狙われている身分で夜釣りなんて言語道断、と鼻息荒く叱られた。何度も頭を下げてどうにか「月瑤の監視付き」という条件で釣りをさせてもらえることになった。
満月って釣れないんですよね……。
灯籠の光と影の境目に釣り竿を垂らして待つ。
せめて満潮かどうかわかったら……。
潮の具合がわかるスマホアプリに思いを馳せていると、背後から足音が聞こえてきた。
「……っ!?」
月瑤がわたしを庇うように立つ。わたしは釣り竿をそっと欄干に立てかけた。
暗闇から灯籠を手に持って現れたのは──
「離宮を満喫しているようだな」
「天璟様!?」
わたしと月瑤は慌てて拝礼する。天璟様は「いい、いい」とおっしゃって、拝礼を止めさせた。
他の家臣が見当たらない。護衛もなしにいらっしゃったのかもしれない。
後宮内で何か、天璟様が離宮まで来ざるを得なかった事件が起こった……!?
「どうなさいましたか? 何か、事件でも!?」
月瑤が後ろに下がる。わたしが思考をめぐらせながら尋ねると、天璟様の眉間に薄く皺が寄った。
「何かなかったら来てはいけないのか?」
「あ……」
自分の勘違いに気づく。わたしは天璟様の妃嬪なのだった。釣りに没頭するあまり、大前提を忘れるなんて。
でも、誰とも夜を過ごしたことのない天璟様が、一体なぜわたしのところに?
わたしを選んだ理由はすぐにピンときた。
「釣りに興味がおありなのですね!?」
「ぷっ」
月瑤が吹き出し、天璟様が睨みつけた。月瑤は拱手をして、目の届く範囲のギリギリ遠くまで行ってしまう。
天璟様は深いため息を吐いた。
「……まぁ、それでいい」
「では、こちらの釣り竿をお持ちください」
欄干に立てかけていたサビキの釣り竿を渡すと、天璟様はおそるおそる受け取ってくれた。
「これでどうすればいいんだ?」
「待ちます!」
「待つ……だけか?」
「はい。釣りとは基本的にそういうものです」
投げたり、動きをつけたりする釣り方もあるが、つまるところ、やっているのは釣れるまで待つ、それだけ。
「……楽しいか?」
まだ大して待っていないのに天璟様が尋ねてくる。わたしはうなずいた。
「待つ時間も楽しいです。周囲の自然を感じる時間も、わたしは好きなのです」
「…………」
「耳で感じる波の音、肌で感じる風の強さ、鼻で感じる潮の匂い、釣り竿から伝わる波。夜だから満月が綺麗です。釣りって、周囲も含めて全身で楽しむものなんですよ」
「……全身で楽しむ、か」
微かに、天璟様の口角が上がった気がする。見間違いかもしれない。
しばらくわたしたちは無言だった。釣り竿も無言だ。天璟様が自然を楽しんでいらっしゃるようで、わたしはゆっくり目を閉じた。
「なぁ」
「はい」
風を感じながら、そろそろアミコマセをカゴに補充するか、と思い始めた頃、天璟様が口を開いた。
「周りが敵だったら、お前はどうする?」
意図を測りかねて、わたしは顎を指でつまんだ。
「強風や雨天ってことですか?」
「……それでいい」
「うーん、やっぱり日を改めるのが一番ですが、譲れない日だったら強行することもあります。悪天候はやめたほうがいいって理屈ではわかっているんですけど、感情はそうもいかないですから」
一泊二日の釣り遠征に行った日が雨だった過去を思い出す。その日しかないので、やるしかなかったなぁ。
わたしは天璟様の目を見て言う。
「周囲の状況に納得できないなら、自分の好きなように行動するべきです」
深い海色の瞳が見開かれ、動揺の色が収まらぬまま、天璟様は釣り竿を強く握りしめた。
「……何かありましたか?」
「……家臣から」
ぽつり、とオモリが水面に落ちたように話し始める。
「周辺諸国へ軍事的圧力をかけるべきだと、進言されていて……」
徐々に消えていく喋り方にわたしは耳を澄ませた。
話の流れからすると、天璟様は納得されていないようだ。
「釣り竿を握っているのは天璟様です」
わたしはそっと、彼の手に自分の手を重ね合わせた。大きな手が、びくりと震える。
「釣行を強行するのも、撤退するのも、ご自身が納得できるご決断をしてください。もちろん、その二択に限ったことではございません」
「俺が……納得……」
天璟様が繰り返す。
「清蘭……」
名を呼ばれたそのとき、釣り竿が強く振動した。
「あたった!」
「あた……?」
「釣り竿を縦にして、この糸巻きの持ち手をゆっくり前に回してください!」
ハゼ釣りのときを思い出す。天璟様は何が何だかわからない様子で指示通りにしてくれた。
魚が水面に顔を出す。
あ、あ、アジだ〜〜〜!!
「もう少し糸を回したら魚を引っ張り上げてください!」
「わ、わかった」
天璟様がアジを引っ張り上げようとした瞬間──アジは釣り針から離れ、海に帰ってしまった。
ぽちゃん、と明快な音だけが耳に残る。わたしは欄干を掴んで、海を見つめることしかできなかった。
「ば、バレた……」
「ばれ……?」
「魚が釣り針から逃げてしまうことですわ……」
わたしのアジが……正確には天璟様のアジが……!
両拳を握ってジタバタと振り回していると、「ふはっ」と笑い声がした。
「そんなに悔しいか……っ!」
天璟様は片手を口元にやり、目尻に涙を浮かべていた。その笑顔を見て、自分の変な挙動を反省する。
「悔しいですよ! 今度はアジを召し上がってほしかったのに!」
わたしの主張に、天璟様は「そうか」と笑いながら釣り竿を返却してきた。
ひとしきり笑い終わって、ふぅ、と息を吐いた頃には、いつもの仏頂面に戻っていた。
「なぁ、また来てもいいか?」
「えぇ、もちろん」
天璟様はわたしの頭をポンと撫でる。
「あっ、すまない、つい」
皇帝様から触れられることに非礼も何もないのだが、彼は自身の行動に驚いた様子だった。それもなんだかおかしくて。
「ふふ、嬉しいです」
不思議と彼に触られるのは嫌じゃない。
わたしが笑いかけると、天璟様は薄く笑い返して、後宮へ戻って行った。
わたしは一晩中、頭の感触が忘れられなかった。
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