10 毒魚
ルンルンと順調に捌いていると、重低音が耳をぶっ叩いた。先ほど聞いたばかりの知っている声だったが、緊急性をはらんでいる。
もしかして、なんか、しちゃった……?
開け放たれた出入り口で、天璟様が無表情ながらも、わずかに汗をかいて視線を厨中に巡らせていた。
その後ろでは頭を抱えて「あちゃー」とでも言いたげな月瑤の姿もある。
「陛下!?」
「陛下がなぜ後宮に……?」
厨中が天璟様の登場に驚いている。
「ここにおりますが……」
只事ではない雰囲気に、わたしはおそるおそる手を挙げた。怒られる気配を察知。隠れてしまいたい。
「清蘭!」
目が合うと、天璟様がズカズカと近づいてくる。
「お前、襲われたそうじゃないか! なぜ厨にいる! 自分の宮で大人しくしているだろ、普通!」
「はぁ……」
わたしは首を傾げる。なんだ、そのことか。
「しかし、後宮にはたくさんのお仲間がいらっしゃいます。頼れる宮女も。ここにいて安心するなというほうが無理な話でございましょう?」
後宮に到着したならどこにいたとて安全だろう。碧海国の中で随一の警備体制を誇っているのだから。
「仲間……?」
わたしの言葉に、天璟様の眉がぴくりと動いた。
「お前は、誰の差し金かもわからない人間に殺されかけた後に、後宮にその犯人がいないと思うか?」
「そうですね……」
わたしは顎を指でつまんだ。
差し金か……。
あの男も誰かに頼まれていたし、その犯人が後宮にいるかもしれない。
それでも人目が多い場所にいれば、そうそう殺されることもないのではないか?
「少なくとも、わたしに厨を貸してくださった、尚食局の皆さんは違うと思いました。わたしを殺そうとする人が、厨を貸して下さるとは思えませんもの」
「そんなの、腹の底では何を考えているかなんて、わからないじゃないか」
仏頂面ではあるが、天璟様の目は不安げに揺れていた。
月瑤が澄んだ波打ち際の瞳なら、天璟様は深い藍色だった。底が見えない海の色。何がいるかもわからない、海底。
「そうですね、確かに海底には何がいるかわかりません……」
「海?」
天璟様が怪訝な表情で聞き返してくるが、気にせずわたしは続ける。
「だからこそ、探ってみる価値があるのです。仕掛けを着底させて、動きを入れながら、時々隙を見せ、相手が乗ってくるのを待つ。そのやりとりは、とても胸が高鳴ると思いませんか……!?」
わたしは同意を求めようと天璟様に視線をやったが、すでに別のことを考えているようで目は合わなかった。
「動きを入れながら、時々隙を見せる……」
何やらぶつぶつと呟いている。
もしや、釣りに興味を持っていただけたかしら!?
「獲物がかかったときの快感は、何物にも代え難いですよ!」
「なるほどな……」
畳み掛けるように熱弁すると、何やら納得していただいてるご様子。
これはチャンスかもしれない!
「天璟様も釣りに……!」
「いや、魚は嫌いだ」
すげなく却下された。
「だが、お前の言っていることは参考になった。礼を言うぞ、清蘭」
天璟様にふわりと優しく微笑まれる。前回の思わず笑ってしまった幼い笑顔と違って、年相応の美しさがあった。
そんな笑い方もできるんだ……。
心臓がどきりと高鳴る。ずっと無表情で活かされなかった整った顔立ちがすべての力を発揮してきて、つい顔を逸らす。頬が少し熱い。
「い、いえ……! わたしは特に何も……!」
天璟様は周りの視線を感じたのか、すぐに表情を引き締めた。
「お前の腹の底は、澄んでいるのだな」
そう言われるのは心外だ。
「澄んでいる海って、魚があまりいないんですよね」
「何の話だ?」
すんっとなって言い返すと、天璟様はまた怪訝な顔になった。
「痛い! 痛い痛い!」
厨のどこかから悲鳴が響き渡る。
何事……!?
声の主を探せば、一人の女官が腕を押さえてうずくまっている。
「どうしましたか!?」
わたしと天璟様、そして月瑤の三人で女官の元へ向かう。
「あ、あれを捌こうとしたら……突然、手が痛くなって……」
しゃがみ込んだ女官は、調理台のまな板を指差した。すでに息絶えた一匹の魚が横たわっている。
わたしはその魚を見て、驚愕に目を見開いた。
「これは……アイゴじゃないですか!」
二十センチはある。濃い茶色がベースの斑点模様の魚。
釣り人の間では毒魚として有名で、釣れてもすぐにリリースされることが多い。憎き、餌取りの魚だ。
そのアイゴの背びれが一部千切れている。おそらくここを触ったのだろう。
「知ってるのか?」
天璟様が後ろから尋ねてくる。
「知ってるも何も、ヒレに毒を持った魚です! 誰か、触れるくらいの熱い湯を用意してください!」
厨にいた一人の女官が返事をして、水を沸かしに走った。
「天璟様は、お部屋にお戻りになったほうがよろしいかと」
月瑤の助言に、天璟様はハッとする。
「わかった。仔細が明らかになり次第、知らせよ」
「御意」
わたしと月瑤は拝礼して、天璟様の背中を見送った。天璟様と入れ替わりで、お湯の入った桶を持った女官がやってくる。
痛みにうめいている女官の元へ走り、患部をお湯に浸からせた。
「アイゴの毒は、熱に弱いですから。しかし痛みが引くまでしばらくかかります」
「あ、ありがとうございます……」
女官は、弱々しいながらも痛みが引くと聞いて安心したらしい。脂汗が若干だが引いていく。
その様子を見て、わたしも胸を撫で下ろした。
「この魚、あなたはご存知なくて?」
わたしが尋ねると、女官はアイゴのほうをチラリと見た。
「はい……。我々、尚食局の人間は、仕入れてきたもので献立を作るだけですので……」
「この食事はどちらへ?」
「四夫人様方の夕餉でございます……」
また四夫人狙い……。
さっきはわたし、でも今度は四夫人を無差別に……。
わたしは毒にやられた女官を別の者に任せて、尚食局長のもとへ行く。
「アイゴをご存知で?」
尚食局長は、狼狽えながらも首を横に振った。
「いいえ。初めて見る魚でしたが、メジナの仲間だと言われ、宦官から渡されたので、特に疑いませんでした。後宮に仕入れる食材は、すべて担当の宦官が目を通しているはずですので……」
「宦官が……」
宦官が魚の種類を正確に把握しているとは思えない。彼も「メジナの仲間」だと言われて仕入れてしまったのだろうか?
「あの、わたくし共は本当に知らないのです、信じてください」
考え込むわたしに悲壮な表情で訴えてくる尚食局長。周りを見やれば、女官たちも皆同様に怯えていた。
「大丈夫です、わたしがあなたたちは被害者だと証言いたします」
「ありがとうございます、賢妃様……!」
安心させるようにわたしが断言すれば、ようやく厨全体が落ち着いてきた。
毒魚が紛れ込むなんて事件が起こってしまっては、食事を用意するのにも上の指示を仰がなければならない。尚食局長を中心に、それぞれが役割分担をしていく。
「月瑤」
「はい」
そんな中、わたしは隣にいた月瑤にお願いする。
「大変申し訳ないのですが……」
「いいえ、何なりとお申し付けください」
わたしのためらいに対して、月瑤は拱手で答えた。頼もしい限りだ。わたしは月瑤の耳に口を寄せる。
「少々荒っぽいことなんですけれど……」
ゴニョゴニョと小声で指示を出すと、月瑤はニンマリと笑った。
「お任せください、清蘭様」
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