9 自分の手で
月瑤が、魚の入った桶を持つわたしを背負って後宮まで走る。
ミミズを入れていた桶は持てなかったので置いてきた。いずれまた取りに行くつもりだ。
月瑤の背中におぶわれながら、こんなに良くしてもらって、なんとなく居心地の悪さを感じる。
「は、速いですわ……!」
前世でやっていた、わたしの始業ギリギリ全力疾走チャリより速いんじゃないかしら……!?
「あんまり喋ると舌噛むよ」
「……っ!」
注意されて口を閉じる。林から後宮まで、あっという間に到着した。
しかも桶の水もこぼれていない。
どんな体幹をしているの……!?
もう少しで宮城というところで月瑤はそっとしゃがみ、わたしに背中から下りるよう促す。向かい合って立つと、わたしのほうがやや高い。
「アタシは陛下に報告に行ってきます。清蘭様はご自身の宮殿に戻られて……」
「では、わたしは厨に行って、ハゼを捌いて参りますわ」
これからの方針を説明する月瑤。わたしも名案があるとばかりに提案するが、返ってきたのは、
「はぁ!?」
という大きな声だった。
「ハゼを捌く? 料理人に預けるじゃなくて? どういう状況かわかってます? 清蘭様、殺されかけたんですよ!?」
まったくもってその通り。
わたしはニコリと武道の達人に笑いかけた。
「でも、月瑤がいるから安心ですわ」
確かに襲われた直後は恐ろしかったが、月瑤の強さを間近で実感してしまった。そして何より、早くハゼを捌きたい。
「あ、あんたねぇ……!」
月瑤は慌てたように片手で顔を隠した。頬が少しだけ赤くなってる。
「照れてます?」
「照れてない!」
わざと顔を覗き込もうとすると、ピシャリと否定されてしまった。
仕切り直すように、月瑤は咳払いを一つする。
「わかりました、厨に行ってください。後宮の中なら誰かに襲われる心配もないでしょうし、アタシも報告が終わったらすぐ清蘭様のところへ向かいますから。釣り竿も清蘭様の宮に置いてきます」
それじゃあ、と踵を返す月瑤の背中を呼び止める。彼女が振り返ると、金髪がふわりと揺れて美しかった。
「何か?」
「わたしが月瑤を武官に推薦できないか、交渉してみますわ」
「え……」
月瑤は目をぱちくりさせて一瞬だけ硬直した。
守ってくれたのだから、何かお返しをしなきゃ。
「見事な身のこなしでした。命を助けて頂き、本当にありがとうございました」
「え、あ、それくらい、当然の……」
彼女は両手を振りながら、しばらく視線をうろつかせたあと、意を決したように拝礼した。
「推薦の件、よろしくお願いします」
少しだけ、月瑤の肩が震えているような気がしたが、わたしは見ないふりをして笑顔で答える。
「お任せください。わたしを守り抜いたという立派な実績、きっと正当に評価されると思いますよ」
わたしは天璟様のもとへ向かう月瑤と別れて後宮に入って行った。真っ直ぐに厨を目指す。
「すみません、厨を一部貸して頂けませんか?」
厨で声を張り上げると、夕食の下拵えに取り掛かっていた全員が振り向いた。そして驚きと困惑の声を口々に上げている。
「賢妃様、どうされましたか?」
そんな中、一人の年配女性がわたしの前に出てきて、拱手した。尚食局長──厨のリーダーの女官だ。
「魚を釣ったので、捌いて調理したいのです」
わたしは手に持っていた桶を見せる。ハゼは水中でじっとしていた。
「でしたら、我々に任せて頂ければ……」
「いいえ。わたしの手でやりたいのです」
強く言い返すと、尚食局長は苦笑いの表情のまま黙り込んだ。
しばらく視線を交わし合う。彼女の口元こそ笑っているが、目は笑っていない。なんだか前世の職場にいた御局様を思い出した。
「賢妃様に何かあっては、わたくし共がお叱りを受けてしまいます」
わたしは言葉に詰まってしまう。わたしのせいで他の人が不利益を被るのは望むところではない。
「で、すが……」
ハゼの入った桶を持つ手に力が入る。
釣った魚を、自分で捌いて、天璟様に召し上がっていただく。
わたしはそれをやり遂げなければならない。
釣りの理想郷のためにも。
「わたしは天璟様の命を受けていますので、大丈夫です」
「天璟様の……」
尚食局長はしばらく思案していたが、天璟様の名を出したのがよかったのか、優しく笑いかけてくれた。
「くれぐれも怪我には気をつけてくださいね」
「ありがとうございます!」
許してくれた厨の方々には頭が上がらない。
釣りに行く際に軽装に着替えていてよかった。元々着ていた、着物を羽織ってるみたいな長袖だったら調理なんてできない。
わたしはいそいそと指定されたスペースに桶を持っていき中の水を捨てる。ハゼを掴むとビチビチと暴れた。
「まずは締めないと」
まな板の上にハゼを乗せ、包丁の先をハゼの目の上あたり目掛けて突き刺す。
ビクッ!!
ハゼは一瞬だけ暴れ、すぐに力を失ったように動かなくなった。久しぶりの感覚だ。前世ですら、そもそも釣れなかったら調理もできないのだから。魚を捌く機会に恵まれていたわけではない。
いつだって捌くときはワクワクする。大変ではあるが、今回はハゼ一匹なのでワクワクの圧勝だ。
「じゃあ、鱗を落として……」
「清蘭はどこだ!!」
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