悪意の中心
『死者の谷』の中心には一つの魔法陣がある。
いや、正しくはその魔法陣のあるところが『死者の谷』の中心になるのだ。
五百年前に暴走し、大量のアンデッドを生み出した魔法。研究者の間では、通称『屍者大行進』と呼ばれるその魔法を発生させ続けている魔法陣。この魔法陣こそが『死者の谷』を『死者の谷』たらしめている元凶である。
この『死者の谷』の中心には、もう一つの魔法が存在していた。『屍者大行進』により発生したアンデッドを封じ込めるために作られた大結界、『封屍結界』である。
しかし、『封屍結界』の魔法は消えてしまった。五百年前、急造で作った魔法ではあったが、魔法そのものに不備があったわけではない。問題は魔法の発動に使用した媒体だった。
五百年前の聖女が『封屍結界』の魔法のために使用したのは、聖女の使っていた白木の杖だった。木の杖とは言え、大魔法の媒体だ、強い魔力により強化され、また聖属性を帯びていたためアンデッドには触れることすら叶わなかった。しかし、長きにわたり風雨に晒されたことですっかり劣化してしまっていた。
結界が消失した原因は、魔法の媒体となった聖女の杖が経年劣化で破損したため。それは間違いのないことだった。
だが、それだけでは説明しきれないことがある。世界の危機の到来が早まった理由だ。
女神イシスの予測は正確だった。偶然が重なったとしても、自然現象でここまで早まることはあり得なかった。
そう、これは自然現象ではなかった。明確な意思をもって、結界の消滅を望んだ存在がいたのだ。
その存在は今もここ、『死者の谷』の中心にいた。
それは一見すると人間の男に見えた。しかし、端正な顔立ちに、皴一つない黒い礼服に身を包んだその男は、ここでは非常に場違いに見えた。
もちろん、まともな人間であるはずがない。その男は、アンデッド、それもバンパイアであった。
この男、実は『死者の谷』で生まれたアンデッドではない。『屍者大行進』が生み出すアンデッドはゾンビかスケルトン、稀にグールやゴーストが発生した。それよりも上位のアンデッドを生み出すことはなかった。
このバンパイアは、五百年前に『死者の谷』へやって来て、そのまま結界に閉じ込められたのであった。
五百年前に『死者の谷』へやって来たアンデッドは大勢いた。暴走した『屍者大行進』の魔法により、この地はアンデッドの天国と化していたのだ。
『屍者大行進』の魔法によるアンデッドの強化は、外部から来たアンデッドにも及んだ。アンデッドならば、『死者の谷』に来るだけでパワーアップできたのだ。
そして、上位のアンデッドならば、下位のアンデッドをある程度支配し操ることができる。特に自我の薄いゾンビやスケルトンならば簡単に支配できた。『死者の谷』には取り込める戦力に不自由しなかった。
そうやって次々に『死者の谷』へとやって来た上位のアンデッド達は、しかし五百年前に聖女達と戦い、敗れ、滅びて行った。
彼らは、アンデッドの天国と化した『死者の谷』を守ろうと、果敢に聖女に挑んで行った。しかし、上位とは言え所詮はアンデッド、聖女相手には分が悪かった。
残ったのは、バンパイアの男、ただ一人だけだった。
彼はバンパイアではあったが、『真祖』とか『ロード』とか言った、かっこいい肩書は持たないただのバンパイアであった。ぶっちゃけ、バンパイアの中ではかなりの下っ端であった。
彼は、彼の主であるバンパイアに連れられてこの『死者の谷』へとやって来た。だが、彼の主が早々に聖女に斃されてしまったため、それ以上戦うことをせず、結果として生き残った。
結界に封じ込められた彼は、聖女を憎み、結界の外に出ることを望んだ。しかし、彼には何もできなかった。『死者の谷』を覆う結界は強力で、空を飛ぼうが、地に潜ろうが、アンデッドである彼には抜けだすことはできなかった。
結界を発生させている大本が、『死者の谷』の中央に突き立てられた杖であると分かっても、アンデッドである彼には手が出せなかった。
ただ、少しずつ劣化していく杖を見つめることしかできなかった。
しかし、転機はやって来た。
『死者の谷』の結界の内側に、生きた人間がやって来たのだ。
彼は急いでその人間の下へとやって来た。急がなければアンデッドの仲間入りしてしまう恐れがあった。そしてその人間達を術で支配した。その者達には耐性がなかったらしく、簡単に支配することができた。
生きた人間を手駒にすることに成功した彼は、再び谷の中心に戻り、その者達に杖を攻撃させた。
アンデッドには手の出せない杖であっても、生きた人間ならば攻撃できた。その者達が、腕力も体力もある男たちだったことも幸いした。魔力の流れている杖は物理的にも頑丈だったが、既にだいぶ劣化も進んでいたこともあり、しつこく攻撃を加えていると、やがて真っ二つに折れた。
こうして、『死者の谷』を封じていた結界は消滅した。これで彼の望み、結界の外へ出る願いは叶った。これで彼はいつでも谷の外へ出ていくことができる。
だが彼はいまだに谷の中心にいた。その目的はただ一つ、聖女への復讐だった。
もちろん、五百年前の聖女が既にいないことは彼も理解している。だが、谷の結界が消失すれば、新たな聖女がやって来ると彼は予測していた。その予測は正しかった。
この日のために、彼は準備を整えてきた。彼の背後には、百体ものゾンビが整列していた。聖女相手にはたいした役には立たないだろうが、その護衛を足止めするには十分な戦力だろう。そして、聖女に対する切り札も手に入れた。
彼は、静かに待ち続けた。




