15
その次の日、放課後になって美術室に行った。この日に限っては、ただ時間を潰したかったとか、絵を描きたかったとか、そんな理由じゃない。
あいつの顔を探していた。あいつは、帰りの挨拶が終わると同時に教室を出ていたし、きっともう美術室に来ているだろう。
あいつに会ったら、まずなんて言おう……考えながらドアを開け、部屋の中を覗く。いつもの椅子に、あいつはいなかった。
拍子抜けして、次に、今日は寄っていかないのかな、と不安になった。そして、あいつがいないことで不安になっている事実に、舌打ちでもしたい気分になった。
その瞬間、背中から声がした。
「何してんだ?」
「わ!」驚きに声を上げて、慌てて振り返る。あいつ――高垣稔が、そこにいた。
「ちょっと、驚かせないでよ!」
「悪い悪い。まさかそんなに驚くとは思わなくて」
「まあいいけど……それより、そっちの方が先に教室出てなかった?」
「ああ、ちょっと先生に呼ばれててな。それで話聞いてたら遅くなった」
「話って? 何かやらかしたの?」ありえないと思いつつ、冗談めかして訊いた。
「いや。なんか、卒業式で送辞をやって欲しいんだって」
「ふうん。相変わらず頼られてんだね」
案の定のつまらない回答だった。
こいつは変わっていない。私たちの関係性は少し変わったけれど、こいつ自身は何も変わっていないように思える。優等生で、大人から見れば便利な存在。昔ほど嫌悪感はないけれど、でも、やっぱりむしゃくしゃする。
「本当、嫌になるよな。どうせ、俺に任せとけば間違いないって安易に決めたんだろうな」
でも、こうして文句を言うのはちょっと珍しかった。
美術室に入り、荷物を置いてそれぞれの椅子に座る。私たちの定位置は、割と離れている。高垣の椅子は窓の近くで、私の椅子は教室のドア寄り。自然と、距離は離れる。いつものように、静寂が教室を包んだ。
この空気なら言える、と思った。
「昨日はありがと。高垣が助けに来てくれなかったら、たぶん私、あの穴に呑み込まれてた」
「いいって。俺としても、遠藤まで学校に来なくなったら耐えられそうにないし」
「ねえ、昨日はどうしてお母さんたちと一緒にいたの? それに、私が家出をしてたことだって……」
「ああ、道でたまたま見かけたんだよ。通りを歩いてたら、うちの制服着た女子が走ってくるし、なんか遠藤っぽいなーって思ってさ。そしたらすぐに、遠藤に顔の似た人たちが血相変えて走ってくるから、声をかけて合流したわけ。さっきのが遠藤なら、絶対にあの穴に向かって行ったんだって確信もあったし」
「そうだったんだ。偶然だったのかもしれないけど、やっぱりありがとう。きっと、お母さんとお父さんだけじゃ見つけられなかったと思うから」
「だからいいって。こうして無事にいるんだから」
「うん、そうだね」
私がこの美術室に来たのは、高垣に二つの言葉を伝えるためだった。一つは今伝えた感謝と、そして、もう一つは謝罪。残りのもう一つも伝えなければ。
「あともう一個、この前はごめん」それを伝えるのは恥ずかしくて、少しぶっきらぼうになった。
「この前?」
「うん。保奈美のことで、その……励ましてくれた時、それを拒絶するようなことをしちゃったから」
私の言葉のせいで、保奈美は穴に落ちて目を覚まさなくなり、そのことで落ち込んでいた私を、高垣はこの場所で励ましてくれた。背中から抱くようにされたことは、思い返すと恥ずかしいけど、それを拒否したことは、きっと高垣を傷つけた。私はそれを、ずっと謝りたいと思っていた。
高垣は、苦笑しつつ返した。
「別にいいって。遠藤から冷たくされるのは慣れてるし」
「そういう茶化しはいらないから。私、あの時はただ驚いただけで……嫌じゃ、なかったから」
「そっか……なら良かった。正直、嫌がることしちゃったかなって、少し気にしてたから」
「……ごめん。でも、嫌じゃなかったのは本当だから」
「ああ、信じるよ」
と、この次に続く言葉を、私は見つけられずにいた。
嫌じゃない、という言葉の意味が、どんなふうに伝わったのか、急に気がかりになった。あの時のことが、また頭によみがえる。あれを嫌じゃないって言うことは、つまり――
「そういえばさ」と、不意な言葉にどきりとした。
「な、なに?」
必要以上に驚いた私に怪訝そうな顔をして、
「俺の方からも一つ感謝しなきゃいけないことがあるんだ」
「え?」
感謝されるようなことなんて、何かしただろうか。思い返してみても、思い当たるものは何もない。むしろ、傷つけるようなことしかしていない気がする。
「遠藤こと見てたらさ、そういうわがままなところも見習わなきゃなって、思えるようになったから」
「わがままって……なんか感謝されてる気がしないんだけど?」
「悪い悪い。けど、本当に感謝してるんだ。相変わらず、今すぐ何かを変える勇気はないけど、それでも、俺ももっと自分の人生と向き合わなきゃいけないんだって気づいたから」
「なにそれ」言いたいことは分かったけど、知らないふりをした。
「俺、今までずっと、いろんなことを諦めてきてた。何かと理由をつけて、自分がしたいことじゃなくて、誰かが俺にして欲しいことばかりをし続けてた。そんな自分をやめたくなったんだ」
そう語る高垣は、初めて見る顔をしていた。いつものおとなしい顔じゃなくて、もっと力強い顔だ。
その目は、どこか遠くを見つめているように見えた。
高垣も変わろうとしているのだろうか。自分のわがままを突き通すだけが強さでないことに私は気づいたけど、少しくらいは自分のわがままに素直になってもいいはずだ。
高垣は自分の人生を諦めている。ずっと、そんな風に思ってきた。けれど、そんな高垣はもういない。
「いいんじゃない? そっちの方が絶対いいよ」
「そうかな」
「うん。今までの高垣って、まんま優等生って感じでつまんなかったけど、少しはマシになった気がする」
「少し、か。手厳しいな。もう少し自分勝手になれるように頑張るよ」
「ほどほどにね。私はちょっと自分勝手すぎたから」照れくさくなって、冗談めかした言葉を返す。
「たしかに。ま、それが遠藤らしいけど」
そう言って高垣は苦笑し、私はそれに、「かもね」と返した。
お互いに次の言葉が続かず、そこで会話は途切れた。美術室にいつもの静寂が訪れると、高垣は筆をとって、目の前のキャンバスに向かい合った。
高垣はしばらくそうしていたかと思うと――やがて、筆を置いて再び私を見た。
その顔がやけに真剣で、思わずどきりとした。
「なあ」と、その目に負けないくらい真剣な声だった。「俺も、もっと自分勝手に生きていいのかな」
ふさわしい言葉を探していると、高垣は続けた。
「遠藤に、迷惑をかけるかもしれないことを言ってもいいかな?」
「……とりあえず、言ってみれば」と、私は、高垣の言葉を待った。
高垣の目が、私の顔を射抜く。その目からは強い気持ちが伝わってきて、こっちが緊張してしまう。
無音の美術室の中に、私の心臓の音だけが響く。
緊張で唾を飲む。それを見計らったような瞬間だった。
高垣が口を開いた。
「遠藤、好きだよ」
言葉が耳に入った瞬間、頭が真っ白になった。
なんとなく、想像していたことではあった。この間東京に一緒に行った時から、予感がなかったわけではない。
こんなやつのことなんて、ずっと嫌いなはずだった。
話はつまらないし、いつもすかしているみたいでムカつくし、理解できないところが嫌いだった。
そのはずだった。
――ああ。
高垣から告げられた言葉を、じっくりと咀嚼する。飲み込むと、じんわりと胸の中に実感として広がっていく。
嫌いだったはずなのに、
こいつだけは絶対にないと思っていたのに、
胸に広がるその感覚は、意外にも暖かな感覚だった。
暖かくて、優しくて、照れくさくて……
その感覚にまで、嘘はつけなかった。
だから私は小さく笑って、
「――うん。私も」
と返した。




