13
道が分かってしまえばすぐだった。どこかあらぬところまで歩いて来てしまった感覚だったけど、私が想像していたよりもずっと、それは近くにあった。
いつもの目印である根元の腐った巨木が見えた。その横を抜けて開けた場所に出れば、探し求めた黒色が見えるはずだった。が、その巨木の奥の景色に違和感を覚えた。
普段この位置からでは、木の影に隠れてあの穴は見えない。なのに、その巨木の脇からは自然の色ではありえないような黒が覗いていた。
私は走りだし、その巨木の隣に立った。その位置から、もう何度訪れたか分からない、広く開けたその場所を眺めた。もちろん、そこには探していた黒の穴があって、
――それは、とにかく大きかった。
「凄っ……」思わず声が出た。
今まで見てきた中で一番大きい。あまりにも巨大で、もう現実感がなかった。
いつもはこの開けた場所の真ん中で行儀よく佇んでいた真っ黒なあの穴が、今はこの場所をすべて覆うほどに広がっている。
まるで墨汁みたいな黒で塗られたそれは、どろどろと渦巻いて、すべてを飲み込もうとしているようにも見えた。それはもはや穴でなく、黒の渦だ。思わず「はは」と、笑いがこぼれた。
まるでブラックホールみたいだ。もちろん実物なんて見たことはないけど、きっとこんな見た目をしているに違いない。近くのものすべてを呑み込んで、無にしてしまう。渦巻いて、呑み込んで、制御なんてできない。
私はつぶやく。
呑み込まれてしまえ。
呑み込んでしまえ。
この山も、この町も、何もかも――。
「……なくなっちゃえ」
想像をした。この穴がどこまでも広がっていき、この山を呑み込み、私たちを縛りつけるこの町を、黒で塗りつぶしていく様子を。
それは、なんて爽快な光景なんだろう。
高ぶって、いよいよその穴に向かって叫んだ。
「全部、全部飲み込んじゃえ! 何もかも、全部!」
そして。
――その叫びに、それは呼応した。
どろどろと渦巻くそれは激しさを増し、さらに大きく広がり始める。山の面積を少しずつ削り取るみたいに、じわりじわりと浸食を続ける。落ち葉が、枝が、木が、その黒に呑み込まれて消えていく。
広がり続けるそれは、みるみるうちに私の足元の方へと近づいてくる。このままでは、私までその黒に呑まれてしまう。
途端に、怖くなった。
不意に、うなされながら眠る保奈美の顔が頭に浮かんだ。これに呑み込まれてしまったら、私も……
一歩、後ずさろうとした時、足がほつれた。「いやっ」小さな悲鳴をこぼし、尻餅をついた。そんな私の恐怖なんて御構い無しに、それは広がり続けることをやめない。じわりじわりと、山を呑み込みながら近づいてくる。
今すぐ立ち上がって逃げ出したいのに、身体に力が入らない。迫る黒の渦を、私はただ見つめることしかできずにいた。
もう、すぐ足先のところまで来ていた。
呑み込まれる――
たまらずに目を閉じた。
その瞬間、「遠藤!」と、私を呼ぶ声が聞こえた。直後、何か強い力が加わって、身体が浮き上がったような感覚があった。
恐る恐る目を開く。と、見知った男子の顔が目の前にあった。
高垣が私を抱え、あの黒から逃げるように歩いていた。
「え、なんで……」
「穴は? ここまでくれば大丈夫か?」
訳が分からず、言われたままに穴の方へ目を向ける。これ以上広がることはなく、表面の不気味な渦も落ち着いていて、ただの真っ黒な穴へと戻っていた。
「う、うん。でも、なんで?」
こんな夜中に、こんな雨の中に、高垣がこの場所にいるはずがない。私は今、幻でも見ているのだろうか。
困惑していると、高垣はそれに答えた。
「たまたま、おまえが走っているのが見えたから、追いかけてきたんだ――それと」と、高垣は穴とは反対側の方へ目を向けた。「追いかけてきたのは俺だけじゃないぞ」
「里子!」
高垣の背中の方から、母が走ってくるのが見えた。その隣には父の姿もある。二人とも息を切らしていたけど、その顔には安堵の表情が浮かんでいた。
その表情はとても切実で、私の姿を見つけたことに、心から安心しているのが分かった。
――そう。分かってしまった。
高垣は私の身体を降ろすと、そっと地面に座らせた。高垣がどくと、代わりに母と父が、私の隣にしゃがんだ。
思わず顔を逸らした。
「なんで追いかけてきたの?」
「なんでって、心配だったからに決まってるでしょう。こんな時間に家を出て行って、心配しない親がいるわけないじゃない」さも当然のように、母が言った。
「……私、ひどい子供だよ?」
「そんなことない。ひどいのは私の方。あなたの気持ちにまるで向き合おうとしない、悪い母親だった」
母の身体は、ひどく雨に濡れていた。きっと、傘もささずにここまで走ってきたのだ。本気で心配していないわけがなかった。
「あなたを追いかけながら、ずっと考えてたの。私がずっとあなたの気持ちから逃げていたから、この家に愛想を尽かしちゃったんじゃないかって……私が、あなたのことを知ろうとしてこなかったから……」
「お母さん……違う、違うよ……」
ずっと、母は私のことを理解しようともしていないと思っていた。自分の都合ばかりで、私のことを見ようともしない。だけど逆だったんだ。私が、母のことを理解しようとしていなかった。
分かっていないのは私の方だった。母が私を心配しているなんて、考えもしなかった。私が今まで見てきた母は、私が頭の中で作り上げた母でしかなかったんだ。私が勝手に、私の作った殻に閉じこもっていただけだった。
「本当に、無事でよかった」
そう言って、母は私を抱きしめた。その声は、少し震えていた。やがて、母が身体を離すと、今度は父が私を抱きしめた。母のとは違う、大きくてたくましい感触がした。
――ああ。
私はこの感触を知っていた。
今よりもずっと昔、この山の中で、同じように母と父から抱きしめられたことがあったじゃないか。
小学校低学年くらいの頃、追いかけっこの途中で遠くまで逃げすぎて、この山の中で迷子になった私。帰り道が分からなくなって、山の中で一人泣いていた私が、どうやって家に帰ったか。ずっと忘れていた。
そうだ。あの時も、こうして母と父が二人で助けにきてくれたんだった。暗くなった山の中で泣きじゃくる私を見つけて、二人は今と同じように安堵した表情を浮かべ、私の身体を順に抱きしめたんだ。
その温もりを、どうして忘れていたんだろう。
味方ならずっといたんだ。ずっと、私のすぐそばにいたんじゃないか。
私は、一人なんかじゃなかった。
一筋の涙が、頬を伝う感触がした。泣いているのだ、と気づくのに時間がかかった。それは、初めての感覚だった。感情がほぐされていくような、不思議な涙だった。
「……ごめんなさい」
震える声で、私はつぶやいた。
二人の身体は暖かかった。ちょうどいい温度で、なんだかとても落ち着いた。
――消えていく。
胸の中で熱く燃えていた何かが、すうっと溶けるように消えていく。
ぐちゃぐちゃにこんがらがった何かが、するすると音を立ててほどけていく。
燃えるような熱が消えて、私の胸の中に残ったのは心地のいい暖かさだけだった。
私は、与えられた温もりに身を任せて、ただひたすら泣き続けた。
スカートのチャックを下ろし、ホックを外すと、グチャっと音を立てて床に落ちた。雨の中の山を歩き回ったせいで、もう全身が雨水と泥でぐちゃぐちゃだった。母と父に付き添われながら家に帰った私は、二人に促されて風呂に入るところだった。
冷静になってみると、なんてバカなことをしたのだろう、と思う。クリーニングに出して汚れは落ちるかな、とか、明日は何を着て行こう、とか、そんなことばかり浮かんでくる。もう、下着まで濡れてしまっていた。
ふと、洗面台の鏡の中に映る私を見た。雨に濡れた髪が顔に張り付き、泣きはらした両目はまだ赤くなったままだった。しばらくの間、そうしてじっと鏡を見てから、後の下着も脱ぎ捨てた。
脱いだものを脱衣カゴの中に入れて、風呂に入る。湯船に浸かると、ようやく自分の身体が冷え切っていたことを自覚した。お湯の温もりが身体を包み、じんと温められた。ほう、と一度大きく息を吐く。身体の中に溜まっていたいろいろなものが、抜け出て行ったような気がした。
一息をつくと、今日のことが思い出された。
家を飛び出していった私を心配し、傘もささずに追いかけてきてくれた両親。私はずっと、そんな彼らのことを見ようともしていなかった。
「バカだったな、私」
今までの私は、本当に自分のことばっかりだった。何を言われてもすぐにムキになって、拒絶し続けた。たぶん、盲目的になっていたのだと思う。そのせいで、どんどん自分の殻の中に閉じこもっていき、勝手に孤独を気取っていた。
誰も私の味方なんていない。誰も私を理解してくれる人なんていない。こんな閉ざされた世界に私の居場所なんてない、と……
けれど、そんなものは間違いだった。私には味方をしてくれる人がいて、どんなに知らんぷりをしてみても、私はその人たちとずっと一緒に生きていた。
私が家を飛び出す原因となった、あの紙のことが頭に浮かんだ。
進路希望調査書。そこに書かれた、堀岡高校の名前。自分の殻にこもっていた、私のわがまま。
これからの、私について。もう、目はそらせなかった。
「私の、これから……」
浴槽のお湯に顔をつけて、考えてみた。
何が私にとっての最適なのか。
何が私の味方をしてくれている人たちにとっての最適なのか……
ぶくぶく、と空気の泡が上っていく。いよいよ息が続かなくなって、水面から顔を上げた。ぷはっ、と勢いよく息を吸った。
答えなら、もう分かっている。




