12
「ただいま」
挨拶一つすることが、ひどく億劫だった。けど、母はそういうところに口うるさい。少しの面倒も、我慢が必要だった。
靴を脱いで玄関を上がる。雨で濡れたブレザーの肩を軽く叩いた。撥水が効いていたから、あまり雨水はしみていなかった。
早く自分の部屋へ行って、この雨で濡れた制服を脱ぎ捨てて、ベッドの上で横になりたい。疲れて不鮮明になった頭の中にあるのは、ただそれだけだ。
いったん玄関に置いたカバンを再び肩に掛け、二階へと続く階段へ向かおうとした時、リビングへと続くドアが開いて母が顔を出した。その顔を見て、ハッとした。その顔が、いやに真剣だったから。
「おかえり」
普段、母はこんなに仰々しく出迎えることをしない。リビングかキッチンから、ただ声をかけてそれで終わりだ。
何かある、と思った。
母が言った。
「話があるの」
こういう時、いつも私は一瞬で臨戦態勢に入る。何を言われても傷つかないように。何を言われても言い返せるように。なのに今日の私は、無防備なほどに気持ちが入らなかった。「来て」と促されるまま、リビングのテーブルへ向かう。拒絶する気力もなかった。
向かい合うように、母と私は座る。別に何を言われようと大丈夫だ。今さら何を言われても、私の心には響かない。
――そう、思っていた。
母が、近くのマガジンラックから取り出した、A4の紙を目にするまでは。
ぱさ、とその紙をテーブルに置いた。
「これ、分かるよね?」
テーブルに置かれたのは、いつかの進路希望調査書だった。私が大西に提出した――一番上の欄に堀岡高校の名前を書いた、本物の方。それが今、私の目の前に置かれた。
「なんで、それが……」
「今日、先生からいただいたの。これ、里子が書いたのよね」
そういえば、と思い出す。PTAの仕事で、今日は学校に行く用事があると言っていなかったか? そこで大西と会った母が進路の話でもして、それぞれに知らされた高校の名前の違いに気づいたとか、十分にありえそうな話じゃないか。どうしてそんな可能性を見逃していたのだろう。
もう勘弁してほしい。
もう赦してほしい。
なんでこんなに嫌なことが重なるんだろう。
もう空っぽになっていたはずの私の胸の中で、強い怒りが湧き上がってくるのを感じていた。それは母に向けたものなのか、大西に向けたものなのか、それとも私自身に向けたものなのか、もう何も分からなかった。
「ねえ、里子」黙っている私に、母は焦れるような声を出した。「あの日の朝は、ちゃんと篠川高校の名前書いてたよね? これはどうしたの?」
テーブルを挟んで、母の目がじっと私を見つめている。その目で見られていると、私は気がおかしくなってしまう。落ち着かなくなって、いたたまれなくなって、冷静でいられなくなる。
「……てよ」
その目から逃れるようにうつむいて、小さくつぶやいた。ドアの向こうにあるキッチンの方からは、グツグツと何かが煮えている音がした。
なんだかもう、訳が分からなかった。いろいろなものがぐちゃぐちゃと混ざり合って、重なり合って、自分自身が分からなかった。
私は怒っているのか、悲しんでいるのか、それさえも分からない。だけど、私の中で沸き立つそれは、激しく燃え上がる感情だ。それだけは間違いなかった。膝の上に置かれた両方の手を、ぎゅっと強く握る。
母が、私の顔を覗き込もうとするのが分かった。
「お願い、答えて。別に怒ろうと思って訊いてるんじゃないの」
母の言葉は、もはや雑音だった。もう耳を塞いでしまいたい。
このまま私は、この人に縛られて生きていくの?
このままどこにも行けず、何にもなれずに死んでいくの?
私は一生この檻から抜け出せなければ、この檻のドアを開けてくれる人もいない。
私の味方なんて、どこにもいない。
「……やめてよ」
ポツリ、つぶやいた声は、母には届かなかったようだった。
「ねえ、こんなことしても、本当にここに行けるわけじゃないのよ?」
母は、諭すような声で続けた。感情任せな声で言われた方が、まだマシだった。上から聞こえたその声は、私の身体の中に入って、胸の奥をかきむしる。
胸の中がひたすら熱い。熱を持った何かが胸の中で膨張して、心臓を圧迫する。
いよいよ耳をふさぎたくなった瞬間、私の神経を逆なでるような母の声が、また続いた。
「私だって、あなたのことが憎くてこんなことを言ってるわけじゃないの。こんな嘘の紙で先生を騙したってどうにもならないことくらい、あなただって分かって――」
「もうやめてよ!」ダンッ、と両手をテーブルに叩きつけて、私は叫んでいた。
胸が裂けたような衝撃がして、ボウッ、と、私の中で何かが燃え上がった。
もう、我慢なんてできなかった。
「もうたくさん! お母さんの言い分なんて、これっぽっちも聞きたくない!!」
勢いに任せて、私は席を立った。雑音を聞くのは、もううんざりだ。もうこれ以上、こんなところにいられるわけがない。母からの視線をこのまま受け止めていたら、どうにかなってしまいそうだ。
「里子待って、話を――」
「もう待てないの!」
母に背を向け、リビングを出て玄関へ向かう。
「里子!」
叫ぶ母が追ってくるが、椅子の位置が玄関と反対だったから手間取っている。その隙に、私は無造作に靴へ足を突っ込んで、そのまま家を飛び出す。玄関のドアが閉まるまで、母の姿は見えなかった。
外は、ずいぶんと雨が強くなっていた。当然、傘なんて持っていなかったけど、どうでもよかった。
冷たい雨の降る月のない夜を、私はただ一人走った。
行き先は決まっていた。いつもの、あの山の中へ。今の私には、あれが必要だった。
右、左、と足を踏み出すたびに、地面の水がパシャパシャと跳ね上がる。雨に濡れたスカートが、足にまとわりついて走りづらい。一秒でも早くそこに行きたくて、自分の足の遅さと体力のなさがもどかしかった。
私の身体が切り裂くこの空気は、きっとすごく冷たいのだろう。けど、燃えるようにのぼせ上がった私の身体は、もはや何も感じない。暴れるように早鐘を打つ心臓の音だけが頭の中で反響する。早いテンポで鳴り響くその鼓動は、まるで私を急かしているみたいで、息があがるのも無視して、ますます速度を上げて走った。
ようやく山の入り口までたどり着いた時には、私はもう息も絶え絶えになっていた。途中からは走れなくなって、ふらふらになりながら足を進めた。膝に手をついて、肩で息をする。もう満身創痍だ。だけど――。
しばらく呼吸を落ち着けてから、私は顔を上げた。目の前には、不気味に佇む真っ黒な山が広がっている。膝から手を離し、背筋を伸ばして向かい合う。一時間ぶりくらいのこの景色は、相変わらず不気味で怖かった。
今日の放課後、私はそこに足を踏み入れることができなかった。真っ暗な山が怖くて、背を向けてしまった。あの時より、今の方がずっと暗くて黒い。雨だって強く降っているし、何か得体の知れないものが住んでいるようにも見える。足が竦んでいた。
行方不明になった時の保奈美も、同じ気持ちだったのかな。
保奈美が家を出たのは夜になってだった、と保奈美の母親は言っていた。きっとその時の保奈美も、今の私と同じ真っ暗な山の姿を見て、その景色を不気味に思ったはずだ。
けどそれでも、確かに彼女は山の中に進んで行った。何もかもが嫌になって、真っ暗な山の恐怖さえ押しのけて、山の中へと足を踏み入れたのだ。
それを思ったら、私にも行ける気がした。
こんな時間に、こんな天気の時に、山の中へ入るなんて正気じゃない。分かってはいる。
だけど、そんなことじゃ止まらない。この先にある、あの黒く渦巻く穴を目にするまで、今の私は止められない。
草をかき分けながら、ずんずんと奥へ突き進む。スカートのポケットに入っていた携帯のライトだけが、目の前を照らす。光量は頼りないけれど、どうにか一歩先は見えた。防水タイプでよかった、なんてことを思った。
真っ暗な山の中で、聞こえてくるのはたった二つの音だけだった。ぬかるむ土が鳴らす、ぐちゅぐちゅという不快な音と、雨粒が葉を叩く、パラパラという音。その音に、不思議と思考が冴えていく。
あの時の保奈美は、ここをどんな気持ちで歩いていたんだろう。親から見放され自暴自棄になって、体調だって悪かったはずだ。この道の先にある、あの真っ黒な穴だけが、きっと彼女にとっての救いだった。
不意に、右足の先に何かが当たった感触がした。「痛っ」と声を上げて、ライトを足元に向ける。そこに、一つの古びた木が横たわっていた。ぶつけた足がじんじんと痛む。気づかずに、この木を蹴ってしまっていたようだった。
じっと、その木を見た。もうずいぶんと前に倒れたのだろう。木の表面はぐすぐすに剥がれ、まるで腐っているような印象を受ける。折れた根元のところは、裂けているみたいになって、木の中身がいくつにも鋭く尖って伸びている。
それほど太くもないこんな木など、すぐに跨いで進めばいい。それなのに、どうしてか私は、それに見入っていた。
この木は死んでいるのだ、と思った。草木にだって命はあるんだ、なんていう理屈は持っていないけど、間違いなくこの木は死んでいた。
どうして倒れてしまったのか、いつから倒れているのかも分からない。だけどこの木は、これからもここで横たわり続け、腐って消えていくのを待つしかないのだろう。
残酷だ、と思った。そして、私みたいだ、とも――
あの穴はどっちだったろう。いつもと見える景色が違いすぎて、迷ってしまっていた。
今私は、どこを歩いているんだろう。努めて冷静になって辺りを見回してみたけど、こんな夜の山の中では何も分からない。自分がどの方角から来たのかなんて覚えてないし、方向感覚も、もうとっくにおかしくなっていた。
そういえば、私が初めてあの穴を見つけた日も、こうして山の中で迷っていたんだった。どっちへ行けば家に帰れるのかも分からなくなって、一人心細くなっていた。もしかしたら、このままずっと山から出られないじゃないか、と。
だけどたぶん、それは最初の記憶じゃない。その時よりもっと以前にも、この山の中で迷っていた記憶があることが、不意に思い出された。
あれは、私がまだ小学校の低学年くらいの頃のことだ。
それぐらいの歳の頃はよく山の中で遊んでいたが、遊び場はいつも決まって同じ場所だった。玲美とか、歳の近い近所の子供と一緒になって、いつも私たちは山の中を走り回っていた。
それは、追いかけっこか何かをしていた途中のことだったと思う。どうしてかは覚えていないけど、その時はいつも以上に熱が入ってしまっていた。必死に鬼から逃げようとしていた私は、普段は立ち入ることのない山の奥まで入って行ってしまった。そこまでいけば、誰も追ってこられない。きっと、その時の私はそんなことを考えていたのだと思う。
けど、それが間違いだった。夢中で走った私は、気づけばまったく見たこともない場所にいた。
山の景色なんて、どこを見ても同じだ。どの方角へ向かえば元の場所に帰れるのか、それすらも分からなくなっていた。自分がどの方角から来たのかも覚えていなかったけど、とりあえず歩き出した。歩いていれば、いつかは見知った場所に出ると信じて。
どれだけ歩いても同じ景色が続く。まっすぐ歩いているはずなのに、どこにもたどり着かない。堂々巡りをしているかのように、どこを見ても似たような木が林立しているばかりだった。
一向に変わらない景色に、小学生だった私はいよいよ挫折した。歩く気力も無くなって、一本の太い木に寄りかかるように腰を下ろす。その瞬間、涙がこぼれた。
私は、あの時も一人だった。
あの時と同じ、私はまた、この山の中をたった一人でさまよっている。
思い出したら、目の奥がじわりと熱くなった。頬をつたう雫は、雨なのか涙なのか分からないけど、降り注ぐこの雨が全部、私の涙みたいに思えた。
撥水が効いていたはずのブレザーも、もう完全に水を吸いきってしまっている。校則で決まっている白のソックスも、ひざ下のスカートも、泥が跳ねて汚れていた。きっと、今の私を鏡で見たら、さぞかしみっともない姿をしているだろう。思わず笑ってしまう。笑うと、目に溜まっていた涙がまた溢れた。
不思議なものだ、と思った。こんなにも冷たい雨に降られ続けているのに、私の内側で熱く燃える何かは、まるで消えていない。
どろどろと渦巻いて、ぐちゃぐちゃに混ざり合っている私の中にある何か。
熱く、熱く、燃え上がっている。
この複雑に絡まり合った感情は、いったい誰に向けたものだろう。母や父、大西とか大人たちか。吉野や玲美、くだらないクラスメートたちか。それとも……
考えても、答えは見えなかった。
誰が悪いのか、何が悪いのか。
このやり場のない感情をどこにぶつければいいのか。
そして、私がこれからどうしていけばいいのか。
それは怒りにも似ていたけど、そんなに単純な感情じゃない。
『むしゃくしゃする』――そんなあやふやな言葉でしか表せないけど、たぶんこれが一番近い。
もう耐えられなかった。誰のせいとか、何のせいとか、そんな細かいことはどうだっていい。全部だ。身の回りのもの、すべてが悪い。
私は、心の中で叫んだ。
――もう、こんな世界嫌だ!
その叫びとともに足を上げ、力任せにすぐ近くの木を蹴りつけた。
ガッ、という音がして木の表面がえぐれた。期待したほどの爽快感もなかったな、と思いつつその木を見ていると、そこにある傷跡は、今私がつけたものの一つでないことに気づいた。一度や二度でない、何度も何度も打ち付けたような、無数の傷があった。
「これって……」
何度も力任せに蹴られたような傷跡を、間違えるはずがなかった。これはあの日――本当の高垣稔を知ってしまった日、高垣が蹴りつけていたあの木だ。私は、あの日のあいつと同じ木を蹴ったんだ。
ここからなら分かる。この場所から、あの穴に向かう道を私は知っている。
私は、あの日高垣を案内した道のりをなぞるように歩き出した。




