11
次の日も、結局最後まで保奈美は学校に顔を出さなかった。携帯の画面を開いてみても、保奈美からの連絡を報せる新着はない。
帰りの会が終わって、特に何の用事があるわけでもないけど、足早に教室を去ろうとした。カバンを手に取って立ち上がる。その時、大西がこっちに向かって歩いてくるのを、視界の端に捉えた。
嫌な予感がして、慌てて教室を後にする。ドアを閉める直前、大西が私を呼び止める声が聞こえた。なんの用だろう、と思いながら、聞こえないフリをしてドアを閉めた。彼女が私に声をかけてくるのは、どうせろくな用事じゃない。気になったけど、知らん顔をしてそのまま玄関を目指して歩いた。
まだ家に帰りたくなかった私の足は、いつものように山の方へと向かっていた。だけど、山の中でたたずむあの真っ黒な穴が見たかったわけでもない。本当に、ただ自然な流れだった。
山の入り口までたどり着くと、そこで足を止めた。目の前に広がる山と対峙するように立ち尽くす。その先へと向かうことを、足が拒絶しているような感覚だった。この山の入り口まで来てそんな風になるのは初めてで、すごくおかしな気分だった。
先週までとはまるで違う気持ちだ。先週までの私は、保奈美や高垣と待ち合わせて、まるでハイキングでもするかのような気持ちで、この山の中へ入っていっていた。それなのに、今はなんだろう。何かおぞましいものを目の前にしたかのような、そんな気分でいる。いつもと同じ場所に立っているはずなのに、景色さえも違って見えた。
空は分厚い灰色の雲に覆われて、不穏な色を見せている。目の前で鬱蒼と広がる山の木々を見た。重なり合って光の届かない木の葉の色は、もはや緑でなく黒色だ。その黒が、風に吹かれてざわざわと揺れる。それが、私の目にはとても不気味に映った。
冷え切った風が、スカートから伸びる足を撫でた。冷たい空気が全身を包み、思わずぞわりとする。もう、すっかり冬の季節だった。
止まってしまった私の足は、目の前の山の中へと向かうことなく、棒のように固まっている。この山の方へ向かって、一歩を踏み出すことさえ怖かった。
……やめよう。今はもう、ここから先に行く勇気なんてない。
保奈美が落ちたあの穴を見るのが怖い。もし私も足を踏み外してしまったら――。そういう恐怖心が、私を山の方から引き離した。
回れ右をするように、山に背を向けた、その時だった。振り返った先に、一人の少女の姿があった。
彼女の名前を呼んだ。
「舞花」
「あ、遠藤さん。良かった。今から行くところ?」
「ううん。今日はいいかなって。もう帰るところだった」
それを聞いた舞花は、少し不思議そうな顔をした。ここまで来て引き返そうとしていることに疑問を覚えたのだろう。が、すぐに何か納得した表情をした。
「ああ、確かにあんまり天気良くないもんね。降られちゃったら大変だよね」
「……うん」
いいように解釈してくれて助かった。このまま帰る流れになるかと思ったが、舞花はまだ何かありそうな顔をしている。
「この後、少し時間ある?」舞花が訊いた。
「まあ、大丈夫だよ」私は嫌な予感がして、それを悟られないように返した。
「良かった。実は、遠藤さんに話したいことがあるの。ちょっと聞いてもらえるかな?」
舞花の表情は真剣だった。話したいことって、なんだろう。本当は聞きたくなかったけれど、私は素直にうなずいていた。
立ち話もなんだから、と私たちは場所を変えた。落ち着ける場所なんてお互いに分からなかったから、結局公園のベンチに移った。そこは、茂の家の裏側にあるベンチとブランコだけの簡素な公園で、私と舞花が初めて出会った場所でもあった。
私と舞花は、そのベンチに並んで座った。
「懐かしいね、私がここで泣いてたら遠藤さんが声をかけてくれたんだよね」
「懐かしいって、そんな昔のことでもないでしょ」
「……そうだったね。でも、なんだかすごく昔のことみたいな気がしたから」
舞花は相変わらず、遠くを見るような目をしていた。
「本当に、あの時遠藤さんが声をかけてくれてよかった。遠藤さんがいなかったら、きっと私、ずっとあの公園から出られなかった」
「やめてよ。別に私なんてそんな……」
今の私はどれだけ弱気な顔をしていたのだろう。舞花は私の表情に気づくと、顔を覗き込むような体勢になって、心配そうな表情を浮かべた。
「遠藤さん、何かあったの?」
「別に、何もないよ」
「本当に……?」
「本当だって。それより、どうしたの。話って」
なんとなく舞花に心配させたくなくて、私は強引に話を変えてごまかした。舞花は早く話の本題を切り出したくてたまらなかったのだろう。私の表情の違和感なんて忘れたように、すぐに話を戻した。
「うん。実はね……」照れたように顔を伏せて、そして、
「私ね、行きたい高校が決まったの」
と告げた。
「え……」
「私も、遠藤さんみたいに、自分の向かうべき場所を見つけられたの」
舞花の顔は、すごく晴れ晴れとしていて――
その顔が、私にはとても怖かった。
「この前、私は私に合った道を進めばいいって教えてくれたでしょ? その言葉にハッとして、先生とか親にいろいろ相談してみたの」
舞花の言葉を、ただ黙ったままに聞く。何も言えるはずがなかった。
「私、高校はちゃんと学校に行きたい。だけど、自分に合わない学校に行っちゃったら、また中学と同じ繰り返しになっちゃう。それを先生に話したら、私に合っていそうな学校を教えてもらったの。さっそく学校見学もさせてもらって、実感できたの。すごく雰囲気がよくって、ここでならやっていけるって」
「……良かったじゃん」
たったそれだけの言葉を発することが、こんなに難しいこととは思わなかった。うまく言えていたかは分からない。舞花はちゃんと、言葉の通りに受け取ってくれただろうか。
不安に思って隣を覗くと、変わらない表情の舞花がいた。
「最初に遠藤さんと合った日、なんで私が公園で泣いていたのか覚える?」と、舞花は突然、そんなことを訊いた。
「部屋から追い出されたから?」
「うん。おじいちゃんが、無理やりにでも私を外に出すように、親に言ったからだよ」
舞花にとっては辛い記憶のはずなのに、意外にもあっけらかんとした口調だった。舞花は続けた。
「私、それがずっと不思議だったの。今まで何も言ってこなかったのに、なんで急に、って。でもこの前、たまたま知っちゃったの。おじいちゃん、近所の子供にからかわれたんだって。おまえの孫は引きこもりだ、って。だから、それが悔しくて、私を部屋から出そうとしてたみたい」
「ひどい、そんな勝手な理由で」
以前、そんなことを言って茂を怒らせていた男子たちのことを思い出した。きっと、あんなことが何度もあったのだろう。からかうやつも、それで舞花を部屋から出そうとする茂も、どっちも最低だ。けれど舞花は、それに怒ることをしなかった。
「でも、おじいちゃんの気持ちも分かる。引きこもりの中学生なんて、身内にいたら恥ずかしいよ、きっと。嫌なことから逃げて、ただ何もせずに部屋の中に閉じこもってるだけなんだもん。私自身、嫌気がさしてた」
舞花がどうしてこんな話を始めたのか、図りかねていた。高校の話はどうしたのだろう、と。でも、その答えはすぐに分かった。
「私、すぐには部屋から出られないけど、でも、恥ずかしいなんて思われない人間になりたい。その高校に行くためにちゃんと勉強して、誰からも恥ずかしく思われない人間になるの」
「茂の言うことなんて、別に気にしなくていいのに」私は、焦るような口調になって言ってしまった。
「別に、おじいちゃんのためじゃないよ? ただ、そんな風に頑張れたら、自分のことがちょっとは嫌いじゃなくなりそうだから」
私はそこで黙った。そんな言葉を言われたら、もうこれ以上何も言えなくなる。
舞花はよく、私のことを強いと言っていたけど、そんなことはない。舞花の方がよっぽど強い。
「だからね、しばらくは勉強に集中したいから、山の中に行く回数も減らそうと思う」そのすぐに慌てて「もちろん、遠藤さんに会える数が減っちゃうのは寂しいけど」と加えた。
「すごいね、舞花は」
「すごくないよ、私なんて。いつもまっすぐな遠藤さんを見ていたら、私も負けていられないな、私も頑張らなきゃな、って思えたんだよ」
もう、やめてほしかった。遠くを見つめる舞花の目がまぶしくて、見ていられなくなる。顔は舞花の方を向けたまま、目だけを動かして彼女のその表情から逃げる。
なんだか、舞花がすごく遠くに行ってしまったような気がした。
「勉強、頑張ってね」
それだけの言葉を返すのがやっとだった。うまく優しい表情を作れているか分からない。けれど舞花は、私の言葉に「うん」と、明るくうなずいて返した。舞花はベンチから立ち上がり、晴れ晴れしたような顔で私を見た。
「話、聞いてくれてありがとう。どうしても、それだけ伝えたかったから」
「ううん。話、聞けて良かった」
私がそう言うと、舞花はまた無邪気に笑った。初めて会った時はあんなにぎこちなかったのに、今ではすごく自然に笑うようになった。
「それじゃあ、また今度ね」
「うん、じゃあね」
歩き出す舞花に手を振る。『また今度』は、いつになるのだろう。一応連絡先なら聞いているけど、舞花はあまり携帯を使わない。私の方から連絡する勇気は、しばらくは湧いてきそうになかった。
舞花が家の方へ歩き出すのを見てから、私も自分の家に向かって歩き出した。しばらくは後ろを向けば舞花の背中が見えたけれど、やがてその背中も見えなくなる。一歩歩くために持ち上げる足が、鉛のように重い。重くて、重くて、ついに私は歩くのをやめた。
舞花はすごく変わった。たぶん、すごく成長をした。本来それは祝福すべきことのはずなのに、私の心はこんなにも沈んでいる。
思わず天を仰いだ。見上げた空は曇天。
頬に冷たい感触がした。そしてすぐ、今度は額に冷えた水滴の感覚。いよいよ降ってきたようだった。
冷たい雨粒に顔をしかめる。けれど、この雨を避ける気力もなくて、屋根を探すでもなく、相変わらずこの身体で雨粒を受け止め続ける。
――この退屈な町の中で、私はいつも一人だった。
この町はすべてが退屈で、つまらなくて、苛立ちに満ちている。クラスメートも、教師も、両親でさえ、誰も彼もくだらない人たちばかりだ。こんなくだらない町の中に、私の味方なんて誰一人としていなかった。
私は、東京に行きたかった。
私は、どこか広い世界に行きたかった。
私は、この町の人たちを置いて、どこか遠くに行くはずだった。
高校に上がったら東京の学校に通って、そして、芸能人になる。
その願いさえあれば、味方なんていなくても平気なはずだった。
――なのに。
いつの間にか、私は一人じゃなくなっていた。隣には保奈美がいて、高垣がいて、舞花がいた。こんなくだらない町の中にも私の味方になってくれる人がいて、私はそれを嬉しく思っていた。そして――
いつしか私は、一人でいることに耐えられなくなっていた。
あまりにも皮肉が過ぎる。舞花も高垣も、私のことを『強い』とか、『すごい』とか、もてはやしていたのに、気づけば私はこんなにも弱くなっていた。これが皮肉でなければなんなのだ。
保奈美も舞花も、弱くなった私を一人残して、遠くへ去っていった。それを今、私は間違いなく寂しく思っている。
まるで、置いてけぼりにされた気分だった。私一人だけが、この狭い箱の中に取り残されている。やっと一人じゃなくなったと思ったのに、私はまた一人になっていた。今の私は、もう味方がいないことに耐えられない。
私のことを弱くして、そして挙句には、この場に一人残して行ってしまうみんなが憎い。そして、そんな風に考えてしまう、自分が一番憎らしかった。
山の中であの穴を見つけて、それを保奈美と二人で調べに行くまで、私はたしかに一人でも平気だったはずなのに。
こんな狭い町、どうせすぐに出ていくんだ。この田舎町でのうのうと生きていく、他のつまらないやつらとは違う。私は私の道を行く。
私はずっと、そう信じて生きてきた。
だから、これからもそれでいいじゃないか。
なのにどうして、私の胸はこんなにも苦しい?




