10
結局、保奈美の家に行ったのは昼下がりの時間になった。午前中まるごと寝て過ごしてしまい、起きると同時に、慌てて保奈美にメールを送った。眠っているかと思ったけど、ブランチになってしまった食事をとっていると、携帯が震えた。今から行ってもいいと確認が取れて、私は保奈美の家に向かった。
チャイムを押すと、保奈美の母親が出た。珍しく思いつつ、保奈美の見舞いに来たことを告げると、「どうぞ」の声とともにドアが開けられ、彼女の顔が覗いた。保奈美の家に来るのはもう何度目になるかも分からないけど、初めて母親の顔を見たように思う。保奈美に似ず目が細くて、少しキツイ印象を覚える顔だった。「お邪魔します」と玄関に入ると、彼女はすぐに奥のリビングへと消えていく。自分の娘を見舞いに来た友人に、微塵も興味がない様子だった。
二階へと続く階段を上り、保奈美の部屋の前まで着くと、ドアをノックしてから中に入る。保奈美の部屋はずいぶんと空気が悪くなっていた。カーテンは締め切られ、電気も付いていなくて、昼だというのに薄暗い。視線を部屋の奥に向けると、ベッドの上で上体を起こすような体勢の保奈美が見えた。顔には覇気がないが、それほど顔色が悪いわけではなさそうで少し安心した。
「体調は大丈夫?」
「さとちゃん……」名前を呼んでから、力なく笑った。「うん。どうにかって感じかな」
「そっか。熱はあるの?」
「少し、かな。昨日は結構あったんだけど、今はたぶんそんなに」
保奈美はベッドの上に座ったまま、身体の向きをこっちの方へ向けた。
保奈美の顔色が、私にはどうにも腑に落ちなかった。熱は下がったと口にしながらも、その表情はあまりに冴えない。その顔色は、体調がいいとか悪いとか、そういうのとはどこか別の場所に起因しているように思った。
「……何か、あったの?」
訊いていいのか、分からなかった。でも、訊かなくちゃダメだと思った。
保奈美は、私の問いに視線を落とす。何かに迷うように、じっとうつむいている。やがて、そのままの体勢で言った。
「さとちゃんは、風邪引いているのに、家に置いてけぼりにされたことある?」
「えっ?」小さく、声が出た。
「私、昨日具合が悪かったのは本当だよ。朝から身体が重くって、どうしようって思いながらそれをママに話したの。そしたら、ママは露骨に迷惑そうな顔をしたの」
近くにあった枕を引き寄せて、胸のところでぎゅっと抱いた。
「弟の絵が賞を取った話はしたよね? 私以外の家族みんな、昨日はそのお祝いでお出かけをする予定だったの。だから、私のことなんてどうでもよかったんだろうね。具合が悪いことを話しても、ママはちっとも心配なんてしてくれなかった。ただ一言、『そう』って。それだけ言って、予定通り家族みんなは、私を置いて出かけて行ったんだよ?」
保奈美はますます枕に顔を埋めて、うずくまるみたいな体勢になった。私はただ、保奈美が続きを語るのを待った。
「頭も痛かった。気持ち悪かった。一人ですごく、心細かった……夕方になってやっと帰って来たと思ったら、ママは晩御飯の準備を始めてた。私が咳をしても何をしても、ママが話しかけるのは弟だけ。やっと準備が終わって夕ご飯を見た時には、もうショックどころじゃなくなっちゃった。お肉とかばっかりのご馳走だよ? 弟のお祝いだから、って。普通、病人がいるときにご馳走なんて出す⁉︎」
叫んだ拍子に、保奈美はゲホゲホと咳をした。やっぱり、まだ具合もあまり良くはないのだろう。今にも泣き出してしまいそうなほど、弱々しく頼りない。
「保奈美……」
どんな言葉をかけていいのか、まるで分からなかった。
親に無視をされる辛さが、私には理解できなかった。母はいつだって鬱陶しいほどに介入してきたし、放っておいてくれと何度願ったか分からない。母親なんて、きっとそんなものだろうと思っていた。
風邪をひいた時、心細くなるような気持ちなら分かる。だからたぶん、今の保奈美は、身体が弱ってしまったせいで、心まで弱ってしまっているんだ。
「今はもう少し身体を休めよう。具合が悪いと、心まで参っちゃうんだよ」
「関係ないよ! 確かに、最初のきっかけは具合が悪くなったことだけど、今私が赦せないでいることとは、何の関係もないよ」
相変わらず保奈美の顔は枕に埋められたままだけど、その言葉の響きだけで、今どんな顔をしているのかが伝わってきた。保奈美がこんなにも感情的になっているのを、私は初めて見た。
「なんで私じゃダメなんだろう。やっぱり、私になんの取り柄もないからかな? 私が、ママやパパにとって、不出来な娘だったから……」
保奈美の肩が、小刻みに震えているのが見えた。
「保奈美!」
ベッドまで行って、その肩をゆする。かける言葉なんて見当たらないけど、こんなにも弱りきった友達を目の前にして、じっとしていられるはずがなかった。
どんな言葉をかけたらいい? どんな言葉で励ましたらいい? その肩を抱きながら、ひたすら考えた。
私だったらどうするだろうか。落ち込んだ時や、悔しい時、そして、怒りが湧き上がった時。
私だったら――。
「そうだ。具合が治ったら、あの穴でも見に行ったらいいよ。少しは、気持ちも変わるだろうから……ね?」
私の言葉に、保奈美はゆっくりと顔を上げた。両目は真っ赤にうるんでいる。その目で私の顔をしばらく覗いた後、小さくうなずいて「……そうだね」と言った。そしてすぐ、また一つ咳をした。
「やっぱり、さとちゃんの言う通り、もう少し休むよ。ごめん、また横になっていい?」
「もちろん。まずは身体を直さないと。ごめんね、具合悪いところに押しかけて」
「ううん。さとちゃんが来てくれて嬉しかったし、話が出来て少し楽になったよ」
「なら良かった。じゃあ、もう行くね」
私は保奈美から離れ、ゆっくりと立ち上がる。
「ありがとね」と小さく手を振る保奈美に、手を振り返しながら、私は部屋を出た。
部屋を出た瞬間、頭に浮かんだのは、保奈美の母親の顔だった。娘の見舞いに来た私を見ても無関心を貫いていた、あの冷たい顔。きっと保奈美の弟には、あの冷たい顔からは想像もつかない柔和な笑みを向けているのだろう。
弟にも私にも、平等に過干渉な私の母とは違う。けど、最低な母親という面では変わらない。一人ひとり形は違っていても、大人はみんな勝手だ。
階段を降りて、一階に行く。目の前のこのドアを開ければリビングがあるはずだ。おそらくそこにいるはずの保奈美の母親に、この怒りをぶつけたくてしょうがなかった。
けれど結局、そんなことできるはずもなく、私はそのまま玄関から外に出ていた。
大人たちはみんな最低だ。平気な顔をして、私たちの大事なものを踏みにじっていく。そして、きっとそれを無自覚にやっているところが、余計に頭にくる。ムシャクシャする気持ちを足の裏にぶつけるように、家までの道をズンズンと歩いた。
保奈美のことは心配だけど、今の私にできることはもうこれ以上ないだろう。体調が良くなってまた明日学校で会えば、きっとまたいつも通りに戻れるはずだ。
また一緒に帰って、うらやましがられるかもしれないけど、東京での話だって聞かせてあげよう。明日になれば、きっとそれができる。
――そう、信じていた。
私がその知らせを受け取ったのは、次の日の放課後になってのことだった。
東京に行った日から二日後、保奈美の見舞いに行った次の日の月曜日、保奈美の姿は隣の教室になかった。
午前中の授業の間に送った『大丈夫? まだ具合悪い?』というメールの返事は、午後の授業に入っても、まだ返ってきていない。授業中、ポケットに入れた携帯が震えるのをずっと待っていたけど、その気配もないまま時間が過ぎる。
新しい数学の公式とか英語の熟語とか、頬杖をついていても勝手に耳に入ってくるけど、すぐに右から左へ流れていく。休み時間になれば、吉野や男子たちがぎゃあぎゃあと騒いで雑音をまき散らす。彼らの高い声が響くたび、イラっとくる。いつもは平気なことでも、どうにも今は赦せなかった。
耐え忍ぶようにして教室での時間をじっと過ごしていると、ようやく放課後の時間になった。帰りのあいさつが終わり、さっさと教室を出る。相変わらず返信のない保奈美のもとへ、今日もお見舞いに行こうかと思っていた。
その時だった。
制服のポケットでそれが震えた。長いバイブ。電話だった。画面に表示されていたのは、保奈美の名前だ。
通話のボタンを押して、思わず叫んだ。
「もしもし!?」
『もしもし』と、スピーカーからは落ち着いた女性の声。その声に驚いた。
それは明らかに、保奈美のものではなかった。
『遠藤里子さん、よね? 突然電話してごめんなさい。保奈美の母です』
「え? なんで……?」
『授業は、もう終わってますよね? 今、電話大丈夫ですか?』
「まあ、学校はさっき終わりましたけど……」
『良かった。もし平気なら、この後うちへ来てもらえませんか? 訊きたいこととか、話したいことがあるんです』
保奈美の母を名乗る女性は、電話越しにそんなことを言った。
その後の私が、どんな風にその電話を切ったのかはよく覚えていなかった。気づけば、携帯電話を持った右手をだらりと下げて、廊下に立ち尽くしていた。
なんで? どういうこと? この電話の意味を考えていると、疑問ばかりが頭に浮かぶ。しばらくの間そうして立ち尽くして、やがて、行かなきゃと気づいて歩き出した。最悪な想像が頭をよぎるたび、首を横に振って打ち払う。
学校から近いはずの保奈美の家までの距離が、ひどくもどかしかった。
玄関のドアを開け、私を出迎えた保奈美の母親の顔は、不安そうな表情をしていた。それを見て、ことの重大さを察すると同時に、保奈美が母親から心配されている事実に少し安心をした。
「どうぞ」私を招き入れる保奈美の母親は、昨日とは違い、すぐにリビングの方へ消えたりはしない。所在なさそうに目を伏せて、「とりあえず、あの子の部屋へ」と歩き出す。
何があったんですか、と訊きたかったけど、訊けなかった。前を歩く彼女の背中が、言葉を拒んでいるような気がした。
私は、彼女の後をついて歩く。
「あまり驚かせないように先に言っておくと、保奈美は今寝ています」
「寝てる? やっぱりまだ具合が悪いんですか?」
「……すぐに、分かります」
重々しい声で、彼女はそう言うに留めた。想像ばかりが膨らんでしまう口ぶりだ。
もう何度も訪れた保奈美の部屋のドアが目の前まで迫る。もう何十年も開かれていない忘れられた部屋のような、そんな物々しさすら感じられた。
「保奈美、入るわよ」
返事など来るわけがないと分かっているかのように、彼女は断りを入れながらドアを開けた。電気の点いていない、真っ暗な部屋が出迎えた。保奈美の母親に続いて、私もその部屋に足を踏み入れる。話にあった通り、確かに保奈美は眠っていた。
彼女の寝顔は、まるで何かにうなされているみたいだった。最悪の想像とは違っていた姿に胸をなでおろす。が、それはほんの一瞬のことだった。
不意な言葉が、私を強く揺さぶった。
「昨日の夜、保奈美は行方不明になったんです」
「――え?」
「あなたが帰ってからしばらくして、この子は突然家を出て行きました。薬でも買いに行ったのだろうと、放っておいたの。でも、いつまでも帰ってこなかった」
ただ淡々と、事実のみを語るかのような口調だった。あえて感情を抑えているのか、単に娘に興味がないからなのか、私には判断がつかなかった。
「夜中になっても帰ってこないからさすがに不安になって、私は探しました。でも全然見つからなくて……警察の方にも捜索願を出して、ようやく見つけたのが今日の昼過ぎでした」
彼女の語る言葉が、私にはいまいち腑に落ちなかった。行方不明になった保奈美。今も目の前でうなされるように眠る保奈美。その二つが、私のよく知る保奈美に繋がらなくて、どこか現実感がなく聞こえていた。
しばらく考えてから、浮かんだ疑問を訊いた。
「保奈美は、ずっとそれから?」
「それから、というのはいつでしょう。この子が眠ったのは、発見されて家に帰ってきてからじゃありません。この子は、警察の方が発見したその瞬間からすでに眠っていて、その時から今まで、ずっと眠り続けているんです」
ただ、絶句した。家に戻ってからずっと、とか、そんな話だと思っていた。だって、発見された時からずっと眠り続けているなんて、そんなの明らかにおかしいじゃないか。家まで連れてくる途中とかで、普通は目が覚めそうなものじゃないか。
「遠藤さん。私があなたを呼んだのは、娘の現状を知って欲しかったという理由だけじゃありません。あなたに、訊きたいことがあったから」
彼女の言葉に、私は唾を飲んだ。
最初から分かっていたんだ。なんとなくだけど、私がここに呼ばれた理由を。
そして、私が保奈美に何をしたのか……
「ねえ、あなたは昨日、お見舞いに来てくれたでしょう? その時にこの子は、夜の家出につながるような話をしていましたか?」
うなされたように眠り続ける保奈美。
昨日の私と保奈美の会話。
警察の協力がなければ見つけられないような場所にいた保奈美……
あまりにも簡単なパズルゲームだ。
保奈美が昨日の夜から行方不明になっていた、と。本当はその話を聞いた瞬間から気づいていたじゃないか。
そのあまりにも簡単なパズルゲームの、足りない最後のピースの形に――。
私は、その最後のピースの形を確認した。
「保奈美は、どこで見つかったんですか?」
「――山の中よ」
思わず目を閉じた。
「警察の方に呼ばれて慌てて行ったら、この子は山の中の少し開けた場所で、横になって眠っていたわ」
ああ、と思った。
全部、可笑しいくらいに予想通りだ。証拠なんてないけれど、確信はある。昨日の夜、ベッドを抜け出して山の中に行った保奈美は、あの穴を見に行って、そして、その穴の中へと落ちたのだ。
やっぱり、私のせいじゃないか。
私が、あの穴でも見に行ったらいい、と勧めたから。きっと保奈美はその言葉を思い出して、一人で山の中に向かったのだ。そして、足を踏み外したのか、その穴に落ちて意識を失ったに違いない。
あれに落ちたらいったいどうなってしまうんだろう、と考えたことがあった。その答えがこれだ。
意識を失い、うなされながら眠り続ける。
胸の奥が強く締め付けられて、どうしようもなく苦しい。これが何に対する感情なのか、もう分からなかった。
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。私があんなことさえ言わなければ、保奈美は山に行こうともせず、今日にも元気になって、何もなかったように学校で会えたかもしれないのに……
今更どうしようもないと分かっているけど、そんな後悔が止まらなかった。
胸の奥が、何か得体のしれない塊で埋め尽くされていくのを感じた。はち切れそうで、切り裂けそうで、それがとても辛く苦しい。
制服のスカートを、ぐしゃっと握り潰した。そうやって堪えようとしたけど、無理だった。
「遠藤さん……?」
涙が出て、嗚咽がこぼれた。
「ごめん、なさい……」
そう口にしたら、もう絶えられなかった。いろんなものが、私の内側から溢れ出て、止められなかった。
ごめんなさい。ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったんです……と、たぶん、そんなことを口走りながら、私はただひたすらに泣きじゃくった。
どんなに私が涙を流しても、そんなものはお構いなしに、保奈美はただベッドの上でうなされるだけだった。
「何かあったの?」夕食時、無心になっておかずを頬張っていると、母が訊いた。飲み込んでから、億劫に思いつつ返す。
「別に」
「本当に?」
「だから、別に何もないって」
「ならいいけど……何かあったらいいなさいよ」
早く会話を終わらせたくて、短く「うん」と言い放つ。こんな時まで、いい母親気取りかよ。こんな母親に見透かされるほど、そんなに今の私はひどい顔をしているのだろうか。そんな心配の言葉より、今はただ放っておいて欲しかった。この母は、そのことを分かっていない。
けど、風邪を引いた保奈美にはそれさえもなかったのだと思って、また胸が痛んだ。
「母さんに言いにくかったら、父さんに相談してくれてもいいからな」今度は父だった。
「うん」
和明は、私の表情が珍しいのか、不思議そうにして隣から顔を覗いていた。
「元気が出ない時は、いっぱい食べるのが一番だから。ほら」
父は、テーブルの真ん中に置かれた主菜が盛られた皿を私の方に押した。的外れなその行動に、私は何も反応できなかった。
この人たちに相談することなんて、何もありはしない。どうせ、この人たちには私のことなんて、何も理解できるはずがないんだ。
あなたたちの出番なんて、どこにもない。
次の日の朝になっても、私の気持ちは沈んだままだった。けれど、そんな私の気持ちなんてお構いなしに、いつものように忙しない朝が訪れる。食欲なんてあるはずもなく、朝食をつつく箸は遅くなる。サラダもパンも、味なんかしなかった。
私がゆっくりと食べる隣で、今朝の母はやけに慌ただしかった。普段よりも遅いペースで、うつむきながら朝食を食べる私には目もくれない。
母が父と話す声が聞こえて、その理由を知った。どうやら、今日はPTAの仕事があるらしく、その準備に明け暮れているようだった。
時計を見ると、いい加減に時間がなかった。このままのんびり朝を食べていたら、間違いなく朝の会に間に合わない。残りの朝食を一気に詰め込む。
無理に胃に押し込んだせいか、家を出てからしばらく、胸の辺りが苦しかった。
「ねえ、遠藤さん。保奈美ちゃんの様子、何か知らない?」
放課後になって教室を出ると、隣のクラスの女子が私を呼び止めて訊いた。あまり話したことはないけど、保奈美と仲が良かったはずだ。彼女の不安そうな表情を見て、きっと詳しい話を聞かされていないんだろうと察した。
保奈美が不思議な穴に落ちたことなんて、そのきっかけを作ったのが私だなんて、話せるわけがなかった。
「すごく具合が悪いみたいだって聞いてるけど……ごめん、詳しいことは私も……」
「そっか。ごめんね、引き止めて」
「ううん」
彼女は友達グループの方へと戻っていき、私から聞いたことを報告している。彼女たちはそれを聞いて、心配するように眉を下げたりなんかしている。その表情に、また胸がチクリと痛んだ。
本当は、保奈美は眠り続けていて、それは私の言葉のせいなのだ、と。その事実を知っているのは私一人だ。それを誰かに話す必要なんてないし、誰にも話せるわけがない。なんだか今は、無心になりたかった。
私の足は、自然と美術室へ向かっていた。
美術室の前まで来ると、ドアをわずか開けて中を覗く。そこにいたのは、今日も高垣一人だった。少し躊躇して、中に入る。高垣はこっちに目を向けて、「よう」とだけ言った。私はそれに応えることもせず、いつもと同じ、窓際の高垣から離れたドア付近の椅子に座る。
東京に行く前と何も変わらない、私たちのいつもの距離感だった。美術室の端と端。その二つの端の間には、沈黙の壁が横たわる。東京駅の喫茶店で軽い言い合いになってから、私たちはまともに会話を交わしていなかった。
東京の街を二人で歩いて回った、あの時間がおかしかっただけだ。東京という特別な場所に行って少し浮き足立っていただけで、またいつも通りに戻っただけだ。あの時間は何かの間違いで、今のこの距離感こそが本当の私たちなんだ。
スケッチブックを広げ、シャープペンを握る。まだ何も描かれていない、真っ白なページ。しばらくそれと向き合ってみても、どこから描き出せばいいか分からない。線を引こうとしては、何か違う気がしてその手を止める。そんなことを、繰り返した。
そうしていると、高垣がこっちを見ているのに気づいた。目が合ってしまって、慌てて私は視線を逸らした。
「安川、まだずっと具合が悪いのか?」
心配するような口調で、高垣は訊いた。
高垣は、保奈美に何があったのかを知らない。だから、土曜からの風邪がずっと長引いていると思っているんだ。そういえば、高垣にはまだ何も話していなかった――と、そう思った瞬間、私は気づいてしまった。
いたじゃないか。保奈美が今どうなっていて、それが一体誰のせいなのか。それを話せる相手が、今ここに。
私は高垣の方をじっと見た。こいつになら、すべてを話せる。穴のことだって知っているし、保奈美と母親との関係を勘付いてもいるだろう。
だけど、それを打ち明けるということは、こいつに対して弱みを見せることに他ならない。私のせいで保奈美がおかしくなってしまったことなんて……
じっと、高垣の目が私を射抜いていた。だからきっと、その目で見つめられたせいなのだと思う。「違うよ」と、私の口からこぼれていた。
「風邪とかじゃなくて、今の保奈美はただ寝てるだけだよ。何かにうなされながら、ただ眠り続けているだけ」
「――え?」と、高垣は言葉を失った。
「保奈美ね、行方不明になってたの。今はもう家にいるんだけど、日曜の夜から月曜の昼過ぎまで、ずっと見つかってなかったんだって」
話し始めたら、私はもう止められなかった。すべてを吐き出してしまいたい衝動を、抑えられなかった。
高垣の顔色が変わっていく。
「私、日曜の昼過ぎに、保奈美のところにお見舞いに行ってたの。東京に行けなかったのは、本当に具合が悪かったからみたいなんだけど、その時の保奈美は、いろいろあってすごく落ち込んでたんだ。だから、私は言ったの。体調が落ち着いたら、あの穴でも見にいきなよって」
高垣はもう気づいただろうか、この話が向かう結論に。
「行方不明者になった保奈美が見つかった場所、どこだと思う? ――あの、穴があるところだよ。実際に見たわけじゃないけど、間違いない。保奈美は、あの穴に落ちたんだ」
高垣は口を開きかけて、そのまま閉じた。どんな言葉をかけていいか分からない、そんな仕草に見えた。
「安川は、大丈夫なのか?」高垣はようやく震える声で言った。
「分かんないよ。そんなの、分かんないよ……」
全部話したら、また堪え切れなくなった。こんなやつの前で弱みは見せたくない。そう思っていたのに、あっという間に私を守っていた殻みたいなものがなくなっていく。
ダメだ、と思った時には、もう間に合わなかった。
堪えてきたものが、一気に溢れ出てきた。
「私が、私が余計なことを言わなければ、保奈美は穴に落ちたりしなかったのに! あんな風に、うなされながら眠り続けることもなかったのに! 全部、全部私のせいだ……」
「遠藤」高垣は、私の名前を口にして、立ち上がった。一歩ずつ、近づいてくる。
来ないで欲しい。こんなやつに泣いた顔なんて見られたくなかったし、慰めの言葉なんか聞きたくはなかった。だけど、私の口から拒絶の言葉は出てこない。高垣が、私の背後に回る気配がした。思わず、身体に力がこもった。
そして、高垣はその両腕で私の身体を背中から包んだ。
「遠藤は何も悪くない。たまたま結果が悪くなっただけで、何も間違ったことなんてしていない」
高垣のその言葉は、はっきりと力強かった。
涙がこぼれて、膝に置いたスケッチブックを濡らした。嗚咽が漏れるのを堪える。どうしても肩が震えてしまうから、泣いているのはたぶんバレている。
こいつに涙だけは見られたくない。それだけが、私の最後のプライドだった。
「安川だって、きっと大丈夫だ。ちょっと長く眠ってるだけで、そのうちひょっこり目を覚ますさ」
背中に触れる高垣の身体が暖かい。その暖かさに、私の中で何かが溶けていく。
――だめだ、これ以上こいつに抱かれていたら、私が壊れてしまう。
腕を解いて立ち上がった。
「遠藤?」
「ごめん」
「遠藤!」
私はカバンを手に取り、逃げるように美術室を飛び出した。
背中に感じた高垣の身体の温もりが嫌じゃなくて、嫌じゃない自分が嫌だった。




