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4、法持寺の僧、広明ヶ池に水神を勧請する次第

 春のうららかな日差しの中で、浄観は庭の雑草取りに勤しんでいた。

 窓ガラスを入れ直して、母屋のほうは生活感が出てきたのだが、雑草だらけの庭のままではいつまでたっても荒れ果てた印象を拭えない。この間は空き家と間違えた不良たちが深夜庭に侵入し、騒ぎ出して往生したので、ついに庭の手入れに乗り出すことにしたのだ。焔を呼び出そうと携帯に何度も電話を掛けたのに、留守電につながって連絡が取れなかったので、仕方なく自力で雑草取りをしていた。

 なんのために草を抜くのか理解できない土蜘蛛は、最初はぶうぶう文句を言っていたが、雑草の茂みを荒らされて驚いたバッタが飛び出してきたのを見事に捕まえてから機嫌を直した。

「浄観。もうその辺には虫はおらんぞ。あっちのほうの草を抜け」

 草をむしっていては急に虫が飛び出してきたときに捕まえられないので、土蜘蛛は手伝うつもりはないらしい。蜘蛛糸でバッタを絡めとり、手にぶら下げながら土蜘蛛が言った。

「虫を捕るためにやっているわけではありません」

 捕まったバッタの行く末が気になるところだが、それを訊ねるのはやめておいた。浄観も幼少期には多少の残酷な遊びもした覚えがある。だが、これ以上犠牲を増やさないように、できるだけ虫が驚かないよう草を抜こう、と決意した浄観だった。


「ごめんください」

 門前でおとなう声がして、浄観は振り向いた。

「精が出ますねぇ。ご苦労さま」

 立っていたのは近所に住むご婦人だ。引っ越したときに一度挨拶に行ったが、それ以来会っていなかった。

「おはようございます」

 浄観はズボンについた土を軽く払って、門を開いた。

「今日やっと桜草が咲いたので持って来たの。仏さんに供えてください」

「これは、わざわざありがとうございます」

 紙に包まれた花を受け取って、浄観が礼を言っていると、手にバッタをぶら下げたまま土蜘蛛が寄ってきた。

「葛城の山で採れた花じゃろう」

「そうよ。よう分かるね。今年は花がつくのがえらい遅いからあかんかと思ったけど、やっと咲いた。きれいでしょ?」

 にこにこと笑いながら、土蜘蛛を指して「弟さん?」と浄観に問いかける。浄観はとっさに「はい」と嘘をついた。土蜘蛛がいらないことを言うのじゃないか、と心配したが、土蜘蛛は花に夢中で二人の会話を聞いていなかったようだ。

「見ろ、浄観。きれいじゃろ。これが葛城の花じゃ」

 まるで自分の手柄のように花を自慢する土蜘蛛を婦人はどう思っただろう。

「ええ、きれいですね」

「わしが供えてきてやろう」

 たたっと駆けていく土蜘蛛を見送って、婦人は言った。

「かわいい弟さんね。二人で住んではるのん?」

「え、ええ」

 浄観は警戒した。あまり探られて、近所に変な噂をばら撒かれては困る。

「そう。親御さんは?」

「父は今、出張で海外に行っております」

 嘘ではなかった。浄観の師である飛鳥野研浄は浄観の養父でもあり、今は印度へ出張中である。

「まだ若いのに、小さい子のお世話は大変でしょう。困ったことがあったらいつでも言うてね」

「ありがとうございます」

 婦人はまだ話したそうにしていたが、浄観はむりやり話を切り上げて、堂へ入った。


 堂の中では土蜘蛛が、仏像に供えた桜草をつくづくと眺めていた。

「のう、浄観。この花が咲いたのは、お前がわしに会いにきて、眷族になってくれたからじゃ」

 浄観は土蜘蛛の言わんとすることが分からなくて、黙って聞いていた。

「きれいな花じゃ。この花をお前と一緒に見れて本当によかった」

 なんと答えていいか分からず、浄観は戸惑った。

 ふと、土蜘蛛が握る糸の先からバッタが消えていることに気付いた。

「ヌシ。バッタがいなくなっていますよ」

 土蜘蛛は慌てた様子もなく答えた。

「ああ。放生したのじゃ」

「え」

「わしは眷族に仏法を奉ずるものを持っておるからな。殺生はできん」

 当たり前のように言われて、浄観はことばも無く、なにか居心地の悪い思いで土蜘蛛が花を眺め飽きるまでじっとそばに座っていた。


「今日、法持寺へ行ってきたんですよ」

 錬が青丹よしをほおばりながら言った。ここはいつもの万福寺二階、大和の部屋である。取引先の銀行がよく持ってくるこのお菓子に甘樫家の面々は飽きてきているので、消費担当は錬と決まっている。錬はお菓子ならばなんでも食べるからだ。抹茶飲みたいな。錬は思った。このお菓子はコーラ片手に食べるものじゃないと思う。

「え、お前行ってきたの。今日飛鳥野からめっちゃ着信入ってたんだよな。なんか手伝わされたんじゃない?」

「ああ、なんか庭掃除してたけど、僕が手伝うわけないだろ。僕はあくまでヌシ様に会いに行ってるんだから」

「庭掃除かぁ。なんだ、それくらいなら手伝ってやってもよかったな。俺はてっきりまた妖怪退治かと思って」

 焔がそう言ったのを聞いて、錬はあんぐりと口を開いた。

「焔。毒されてるよ! 庭掃除だって手伝ってやる義理は全然ないんだから!」

「まあ、そうなんだけど」

「で、法持寺に行って、どうしたんだ」

「あ、法持寺に行ったらですね、なんと! ヌシ様と飛鳥野が二人でお堂にいて、仲睦まじく一緒に花を愛でてたんですよ!」

「おお、そうか。それはよかったな。あの二人も落ち着いてきたみたいで」

 にこにこ笑って言う大和に錬は苛立った。そんなほのぼのした反応求めていない。

「全然良くないです!」

 つばを飛ばしながら錬が叫んだ。

「お前、きたな!」

「ダメですよ! あの二人が仲良くなっちゃったら、僕の計画が台無しだ! 飛鳥野くんがかわいくない眷族だからこそ、可愛くて素直な二上錬を眷族にしたほうが楽しいなってヌシ様も思えるんであって、あの二人が仲良くなってしまったら僕が眷族になる未来が遠のいてしまう!」

「お前、まだそんなこと言ってたんだな」

 大和があきれ顔で言った。

「当たり前です! それが実現すれば、焔を眷属契約から解放することもできるし、しかも! 僕は大和・葛城でも一、二を争う妖怪の眷族としてこの地に君臨するわけです!」

「お前の真の目的は後半の方だろ」

「でも、ヌシには断られたんだろ?」

「一度断られたくらいで諦めてはダメだよ。だが、ただ押せばなんとかなるってものでもない。何事にも戦略と言うのは必要だよ」

 重々しく錬はうなずいて、ことばを続けた。

「だからまず、あの二人を仲たがいさせて、邪魔な飛鳥野くんを追い出すための作戦を今日は練りましょう」

「悪趣味な作戦だな。せっかく仲良く暮らしているのを仲たがいさせたいだなんて」

 大和が渋い顔でいうと、焔も同調した。

「俺もそう思うな。なんか、最近飛鳥野の態度も軟化してきたし。このままヌシ様が飛鳥野をうまく制御してくれるんなら、眷属のままでも、まあいいかなあって思ったりもするんだよね」

「なに言ってんの、焔。本当に人間の眷属のままでいいと思ってんの?」

「いいとは思わないけど、まあ、そこまで悪くもないかなーって」

 錬は愕然とした。浄観をどうこうというより先に、まず焔の意識を改革せねばならない。

 焔を開放するまでの道のりは、まだまだ長そうだった。


 その日、朝から浄観の様子はおかしかった。荷物を念入りに確認し、素絹と袈裟に乱れがないか鏡の前でチェックする。どこかに出かけるのかと思って見ていると、また戻ってきて座り、本を開いて読むのだが、しばらくするとまたそわそわしだして、また荷物のチェックが始まる。

 五度目の荷物チェックがはじまったところで、さすがに土蜘蛛が口をはさんだ。

「さっきからお前はなにをしておるのだ? どこかに出かけるのか?」

「今日は、私の師が印度から戻ってくるのです」

 浄観はめずらしく声を弾ませていた。

「夕方には到着されるそうですから、広明寺までお迎えに上がらなければ。ヌシ。午後から二上くんを呼びますから、彼と一緒にここにいてくださいますか?」

「おお、かまわんぞ」

 めずらしく土蜘蛛の顔色を伺うようにして言う浄観に、土蜘蛛は心よく答えた。どうやら、浄観にとって師の存在はとても大きいものらしいと、土蜘蛛は察した。

 焔に電話しなければ、と浄観は心に留める。放課後でないと焔は電話を取らない。学友の前で、アルジである浄観からの電話を受けたくないのだろう。


 浄観は相変わらず学校には通わず、ヌシと法持寺で暮らしていた。まだ学校には籍を置いていたが、そろそろ結論を出さなければならないことも分かっていた。その前に一度、研浄に会いたかった。研浄に教団に従えと言われれば、それで諦めがつく。


「すみません」

 玄関のほうでおとなう声がして、浄観が席を立った。

「おはようございます」

 玄関に立っていたのは山城だった。内心の不愉快さを完全に押し隠して、浄観は控えめな笑顔を取り繕った。

「まあ、こんな遠いところまでようおいでくださいました。ささ、どうぞ奥へ」

「いえ、ここで結構」

 断られることは想定内である。というか、上がりこまれても困る。

「浄観さん。今日は、研浄様がお戻りになられる日ですが、広明寺までお出迎えにいらっしゃらなくて結構です。そのことをお伝えに来ただけですから」

 浄観は愕然とした。

「なぜ」

 山城は呆れたようにため息を吐いた。

「私に聞かれても、答えられませんよ。上の決定ですから。理由は知りません」

 それでは、と挨拶もそこそこに山城は立ち去った。浄観はしばらく玄関に座ったまま動けなかった。


 朝のうきうきとした空気は一転、浄観は沈みきっていた。座り込んだまま微動だにしない。見かねた土蜘蛛が、浄観に声を掛けた。

「誰が何を言おうが、お前が会いに行きたいのなら会いに行けばよいではないか」

「そう簡単なことではないのですよ」

 そっけない浄観の物言いにも、土蜘蛛はもう怒らない。人間たちが、自分には分からないルールに縛られて生きているということを理解し始めていたからだ。特に浄観はいろいろなものにがんじがらめに縛られているらしいことも土蜘蛛は察していた。

 ままならないものだな。土蜘蛛は思った。彼が浄観を眷族にしたのは、こんな風に苦しませるためではなかったのに。

 土蜘蛛は突然立ち上がった。

「浄観。わしは今から奥の部屋へ篭るが、よいか、絶対に中を覗いてはならんぞ」

「……は?」

 土蜘蛛の突然の宣言に浄観は戸惑った。

「いや、別に覗いてもいいんじゃが、人間と生きる場合のセオリーとして、一応そう宣言しておく」

 浄観としては、ますます意味が分からない。

「なにをするんです?」

「ちょっと原形に戻ってやりたいことがあるんじゃ。だが、人型を解いた姿を同居している人間に見せないのが妖怪のたしなみというものじゃからな」

 なんだかよく分からないが、ともかく土蜘蛛本来の姿に戻るらしい。それを聞いて浄観は慌てた。

「ちょ、ちょっと待ってください! あの姿に戻るんですか? 家が! 壊れます!」

「心配するな。ちゃんと家のサイズを考えたコンパクトサイズでやるから」

「え? そうなんですか?」

 そんな器用なことができるのか。

「よいか、ともかく奥の部屋を覗くんじゃないぞ」

 そう言いおいて、土蜘蛛はぴしゃん、と襖を閉めた。


 周りでうるさくする土蜘蛛がいなくなって、浄観は思う存分落ち込んでいた。

 教団側が妖怪の眷属である浄観を本音では排斥したいことは痛いほど分かっているが、誰でも自由に出入りできるはずの広明寺に、僧籍を置く自分が自由に出入りできないなんて、こんなに情けないことはなかった。しかも、師であり、養父でさえある研浄に会うことまで阻まれて、浄観は怒りや悲しみを通り越して、無力感にさいなまれていた。なにをやったって無駄だ。一生懸命やってきたこと全てが急にバカらしく思えた。欲しかったものが全て自分の手のひらから滑り落ちていく。頑張ったところでどうにもならない。この現実が変わることはない。

 研浄に会いたかった。浄観は進むべき道を完全に見失っていた。師は今の私を見てなんと言うだろうか。叱られてもいい、ただ、研浄のことばが欲しかった。浄観はこの世で唯一、研浄だけを正しい鏡、真理を映す鏡だと信じていた。


「浄観」

 声をかけられるまで、浄観は土蜘蛛が奥の部屋から出てきていたことに気付かなかった。山の向こうに日は暮れかけて、庭が黄金色に染まっていた。

「浄観、これをやろう」

 そう言って土蜘蛛が差し出したのは、真っ白な修多羅だった。あわび結びを連ねたひもは細い糸で作られたようで、美しい光沢を持っていた。こんな立派な修多羅に釣り合う袈裟をつける機会は、浄観にはないように思う。

「どうしたんですか、これは?」

「わしの蜘蛛糸で作ったのじゃ。これはお前にふりかかる辛いことや悲しいことをからめとってお前を守ってくれる。父上みたいにはうまく出来なかったが、それでもきっと、お前の役に立つ」

 どうやら、原型に戻って土蜘蛛はこれを作っていたらしい。

「ありがとうございます」

 浄観は素直にそれを受け取った。今降りかかっている辛いことや悲しいことは、土蜘蛛の眷族になったことに起因しているのだけれど、それでもこの土蜘蛛の気持ちを踏みにじる気にはなれなかった。

「浄観。心配するな。わしは自分の眷族を不幸にはせぬぞ。絶対にじゃ」

 いつかも言われたセリフに浄観の胸がつまる。なにも返事ができなかった。


「ごめんください」

 玄関から聞きなれた声がして、浄観はハッと立ち上がった。

「浄観」

「お師匠さま」

 浄観はその男の顔を見るなり、深く頭を下げた。

「お師匠さま、申し訳ありません。このようなことになってしまって。使命を果たせず、あなたの顔にも泥を塗ってしまいました」

 そんな浄観を見て、その男、飛鳥野研浄は穏やかな笑みを浮かべた。

 妖怪の眷族を弟子に持つというのは言うまでもなく不名誉なことだ。下手をすれば、研浄の教団での地位を損ないかねない大きな失態だった。浄観が詫びるのも尤もだった。

「なにを言います。あなたのおかげで、今日も葛城は平和ではありませんか。よくがんばりましたね」

 その男は、浄観をぎゅっと抱きしめて言った。

「よかった。あなたが無事で」

 浄観は今まで耐えてきたことがやっと報われたような気がして、思わず涙をこぼした。


 その夜、浄観はめずらしく早く床についた。

「あの子はね、私が帰ってくると早く寝るんですよ。たぶん、本当はこれに気付いているのかな」

 そう言って、研浄は小さな瓶に入れた般若湯を振って見せた。縁側で裏庭を眺めながらやる般若湯はまた格別だ。

「なるほど、あやつは真面目じゃからな。見ないのが精一杯の目こぼしじゃろう」

 土蜘蛛がそう言うと、研浄は楽しそうに笑った。

「ヌシ様は、浄観のことをよく分かってらっしゃる」

 研浄はふと目を上げて、土蜘蛛が作った修多羅を指差した。

「ヌシ様。あれは、あなた様がお作りになられたのですか」

「ああ、浄観にやったのじゃ。あまり良い出来でもないから、そうジロジロ見るな」

「そんなことはない。私はこれほど美しい修多羅を見たことがありません。あなた様の優しいおこころざしがそのまま形を取ったようだ」

 褒められて土蜘蛛はさし俯いて恥らった。そんな土蜘蛛を研浄は好ましく思う。研浄は瓶を置き、縁側から座敷の土蜘蛛を拝した。

「ヌシ様。本当は、あなたが無体な主人ならば刺し違えてでも殺そうと思って今日ここへ参りました。浄観を守るためならば、私は神殺しの罪でも背負いましょう。しかし、あなたを見て安心いたしました」

 そう言って、杯になみなみと般若湯、もとい酒を注いで、座敷に座る土蜘蛛にうやうやしく差し出した。

「あの子が神殺しに向かうのを止められなかったこと、あの子をあなたの眷属としてしまったこと、それを今日までずっと後悔していました。ですが結果としてそれは良かったのかもしれない。ヌシ様。捧げるこの神酒はあなた様の恩恵に対する感謝でございます。どうぞお納めください」

「受けられぬ」

 土蜘蛛は手を出さなかった。

「お前が思うような恩恵を、わしは浄観に与えてやれぬ。わしはあいつの進む道を断ってしまったのだ」

 浄観が土蜘蛛を殺しに来たとき、彼をその軛から解放してやりたいと土蜘蛛は思ったのだ。アルジに恵まれていないのなら、自分が新しいアルジになってやればいい、そう思った。しかし、それは違った。浄観は、どんなに辛く苦しくても、その道を行くことを望んでいたのに、土蜘蛛がその道を断ってしまった。

「そうではない。自分の道を断っているのは結局あの子自身なのです。彼はそこにしか道はないと勝手に思い込んでいるだけだ。あの子は今、失くしたものに囚われすぎて、得たものの大きさに気付いていない」

 土蜘蛛はそれには答えず、ふっと微笑んだ。

「のう、研浄。わしもな、お前に会うて安心したんじゃ。そして心が決まった。わしは、山に戻ろうと思う」

 研浄は驚いた。

「なぜですか」

「山もずっと放っておくわけにはいかんからな。それに、浄観にはわしがおらんでも、お前もいるし、焔や大和、それに一応、錬もいる。わしも十分、里の暮らしは満喫したからもう山へ戻る」

「そうおっしゃらずに。もう少しここに居てやってください。浄観にはあなたが必要です」

 研浄のことばに、土蜘蛛はゆっくりと首を振った。

「研浄。せめて、わしはあいつを学校というのにくらいは、行かせてやりたいんじゃ。わしがここに居るとあいつはその学校というのにさえ行けない」

「ヌシ様」

「浄観によろしゅう言うておいてくれ」

 そう言うと、土蜘蛛は立ち上がり、おしりをふよふよ振りながら、寺を出て行った。


 翌朝、浄観が目を覚ますと、研浄はすでに身支度を済ませていた。

「お早いですね」

 出張から帰ってきた翌日は必ず朝寝をするのに。浄観は研浄の身支度をなにも手伝えなかったことに慌てた。

「ええ。また明日には中国へ出張ですから、今日中に済ませなければならない仕事が多いんです」

「そうですか」

 もう広明寺へ戻ってしまわれるのか。そう思って浄観は少しがっかりした。

「ヌシはまだ寝ているのですか」

 何気なく聞いた浄観のことばに、研浄は困ったような笑みを浮かべた。

「山へ戻られましたよ」

「戻った?」

 思いがけないことばに、浄観は驚いた。

「ええ。あなたを、せめて学校へは通わせてやりたいとおっしゃっていました」

「……そうですか」

 そう言って黙り込む浄観を、研浄はじっと見つめた。

「浄観。今、どう思っていますか? 正直に教えてください」

 浄観は、師が求めている答えがなにか分からず、返答に窮した。浄観はだいたいの質問の正解が分かる。質問には相手が望んでいる答えを返せばいい、それが正解だ。そこにはあまり浄観の意思は介在しない。だが、研浄はたまに正解の分からない問いをしてくるので、浄観はほとほと困り果てるのである。

「学校に通えるのはうれしいです」

 悩んだ末に言ったのは、当たり障りのないことばだった。これが正解でないのは分かっている。だが、大きな間違いでもないだろう。浄観は相手の意に沿わない回答をするのが一番イヤなのだ。

「そうですね。ほかの事は? ヌシ様の眷属となって、あなたの環境は大きく変わってしまった。この教団の中ではきっと差別されるだろうし、これからきっと苦労します。それでもこの教団に残りたい?」

「それは、教団をやめろとおっしゃっているのですか」

 思わず手が震えた。

「違います。あなたの気持ちを聞いているのです。いいですか、やる気があるというのは一つの才能なんです。やる気さえあれば、自分で道を切り開いていくことだってできる。だが逆に、やる気のない人間を導くことほど大変なことはありません。だから、あなたにこの教団の中で苦労してでもやっていきたいという気持ちがあるのかが聞きたいのです」

「……この教団をやめたいとは思いません」

 もはやこの教団で、浄観が出世できる可能性はほとんどない。あえてこの道にこだわる必要はないようにも思えた。だが、それでも浄観は教団をやめるという選択肢をとる気にはなれなかった。それは、自分の信仰を守るためかもしれない。師である研浄との関係が途絶えてしまうのが怖いのかもしれない。もしくはただ単純に、今の生活をやめて、新しいことをはじめる気力がないだけなのかもしれなかった。どちらにしろあまり前向きな選択とはいえず、研浄の求める正解からは程遠いことはよく分かっていた。

「それはやる気がある答えとはいえませんね」

 浄観の微妙な気持ちは研浄にも伝わったようで、彼はふっとため息を吐いた。

「中国から帰ってきたら、もう一度あなたに同じ質問をします。それまでよく考えておきなさい。それがどんな道であっても、あなたが意思を持って選び取った道ならば、私はあなたをバックアップしますから」

 浄観は師の望む答えを返せない自分を情けなく思いながら、小さくうなずいた。


「お、飛鳥野が学校来てる」

 席に着いて教科書を開いている浄観を見つけて、焔が近寄ってきた。

「学校来られるようになったんだー。よかったな。なに? 来て早々勉強してんの? まじめだねぇ。休んでた間のノート貸してやろうか?」

 浄観はうろんげに焔を見上げた。

「あなた、ちゃんとノート取ってるんですか?」

「取ってるわけないじゃん。俺のノートは全部錬のノートのコピー」

「なるほど」

 錬は学内でもトップ五位以内に入る秀才だ。

「なら借ります」

「なんかムカつくな、その言い方」

 そう言いながらも、気のいい焔はノート(というかコピー用紙の束)を浄観に手渡した。その中身をペラペラとめくって、浄観は驚いた。

 分かりやすく解説や補足説明まで細やかに書かれたノートはもはや参考書レベルである。さらに、重要なところは赤ペンではなく太ペンで書くという、コピーされることを前提としたノート作り。もしかしてこれは、錬が自分自身のためではなく、焔のために作ったノートなのではないか?

「あなた、毎回このノート使っていて、あの成績なんですか?」

「うっせーな。人間には得手不得手ってもんがあるんだよ」

 拗ねたように焔は言うが、単にやる気がないだけなのでは、と浄観は思った。

「あなたのお兄さんも報われませんね」

「なにがだよ?」

 錬の気遣いには気付いていない焔だった。

「そんで今日、ヌシ様はどうしてんの? 広明寺に預けたの?」

 当たり前のように焔に聞かれて、浄観は一瞬ことばに詰まった。

「ヌシは、山へ帰りました」

「え、ええ? なんで?」

 驚いた焔は素っ頓狂な声を上げた。

「さあ」

「さあってことはないだろ、お前、眷族のくせに」

 浄観に非があるかのような物言いに、内心浄観は苛立った。

「知りませんよ。里の生活にも飽きたんでしょう」

「冷たいなー。あ、分かった。けんかでもしたか?」

 能天気にそんなことを言う焔に、浄観は苛立ちを募らせた。

「あなたアホですか。けんかなんてするわけないでしょう。私はヌシに逆らえないのに」

「ああ、全然分かっちゃいないな、お前は」

 焔は腰に手を当てて、どこか自慢げに言った。

「妖怪の眷族と人間の眷属っていうのは、根本的に違うんだよ」

 なにが違うというのだ。

 結局は、眷属なんて契約に縛られた手下にすぎないではないか。得意げな焔がなんだか気に障って、浄観はその焔のことばを無視した。


 久々の登校は特に問題なく終了した。授業は大分進んでいて分からないところも多かったが、焔から入手した錬のノートがあればなんとかなるだろう。早く帰って勉強をしなければ。そう思いながら帰り路を急ぐ。

「お、飛鳥野だ」

 学校の最寄駅まで行くと、一人でホームにたたずむ大和と出くわした。

「こんにちは」

 無視するわけにもいかず、浄観は軽く頭を下げて挨拶する。

 明るい小豆色と白のツートンカラーの電車が入ってきて、二人は車両の中に入った。浄観が座席に座ると、大和は当然のように隣の席に腰を下ろした。なんでこんな日に限って大和に会ってしまうのか。何も聞かずに黙っていてほしいが、大和の性格上、そうはいかないだろう。

 車内は空いていた。通勤時間にはまだ早く、部活にいそしむ他の生徒たちは帰宅までにもう少し時間がかかる。

「なんか、お前の制服姿見るの久しぶりだな。今日はヌシ様はどうしたの?」

「ええ、ちょっと」

 また色々と聞かれるのが面倒くさくて適当な返事をする。大和はなにかを察して、深くは追求しなかった。

「ふーん。まあ、なんにせよ良かったな、学校来れて。お前もいいアルジを持って幸せだよなあ」

 大和のそのことばに、浄観は過剰に反応した。

「いいも悪いもないでしょう。眷属であることに変わりはないのだから」

 どんなアルジだろうと関係がない。眷属であることこそが不幸なのだから。

「そんな怒んなよ。悪くないと思うんだけどなあ、ヌシ様の眷族。錬なんて、眷族にしてくれってヌシ様に頼み込んでんだぞ、断られ続けてるけど」

「は? なぜ?」

「錬は二上山の縁者だから葛城のヌシとしては眷族にしにくいんじゃないか? まあ、その辺色々あるんだよ、妖怪の世界にも」

「いや、断られている理由じゃありませんよ。なにを好き好んで、彼は下僕になりたがっているんですか」

 ああ、とはじめて気付いたように大和は浄観の顔を見た。

「妖怪と人間のケンゾクってのは、根本的に違うんだよ」


「どちらも主と従の関係なのは同じだけど、そのとらえ方が違うのかな。人間は使役する妖怪を眷属って呼ぶけど、妖怪にとっての眷族ってのは、まあ、血のつながらない子どもみたいなもんだよ。どんなに言うこと聞かない子どもでも親はかわいいものだろ。誰かを眷族にするというのは、それくらいの覚悟が必要なんだ。

 だから最初ヌシ様が飛鳥野を眷族にするって言ったときは、よく知りもしない人間を眷族にするなんてって正直心配したんだけど、でもまあ、ヌシ様は少なくとも飛鳥野の良きアルジたろうと努力なさっていると思うよ。もちろん、他人の俺には分からない部分もたくさんあるだろうから、飛鳥野からすると不満もあるかもしれないけどさ」

 浄観はしばらく返事しなかった。

「俺たちは人間だけど、ヌシ様は妖怪なんだ。あの人にはあの人の考え方、感じ方がある。そこは分かってあげてほしいな」


 いつの間にか、電車は万福寺の最寄り駅に着いていた。大和が立ち上がって降りる準備をする。

「あら、大和くん、おかえり」

 電車に乗ってきて大和に声をかけたのは、この間法持寺へ桜草を持ってきた婦人だった。

「ただいまです」

「阿弥陀の水、いただいてきてん。ありがとう」

「いえいえ、それでは」

 大和は電車から降りる時に、浄観を振り返ってじゃあな、と手を振った。婦人は大和の視線を追って浄観に気付き、まあ、と言った。

「法持寺のお坊さん、大和くんと同じ学校なんやね」

「ええ」

「私はねえ、今、万福寺に行って来たんです」

「そうですか」

 にこにこと笑う婦人を見ながら、この人は万福寺にも行っているのか、と浄観は思う。一般の人からすれば法持寺も万福寺も同じ近所の寺なのかもしれないが、当事者からするとどっちを支持するのかはっきりしてほしい気持ちがある。

「なんだか、顔色が悪いわね」

 浄観の顔をのぞきこむようにして婦人が言った。

「え、そうですか?」

「具合悪いの? よかったらこれ飲んでみてくださいな。万福寺の阿弥陀の水」

「阿弥陀の水……」

 阿弥陀の水とは、万福寺近くで得られる湧水のことで、「南無阿弥陀仏」と唱えてからこの水を汲むと万病に効く薬水になると信じられている。何代か前の万福寺の住職が、地に杖を挿し「南無阿弥陀仏」と唱えたところ水が湧き出したと言われているが、真偽は定かではない。万福寺の持ち物ではないのに、先ほど婦人が大和に礼を言っていたのは、この謂れがあるせいだろう。

「飲んだことある? おいしいのよ、飲んでみて」

 ほら、と水の入ったペットボトルを差し出された。正直な気持ちを言えば、万福寺所縁の湧水なんか飲みたくもない。だが、百パーセント善意ですすめてくれているので、とても断りにくかった。他のものなら「あまり好きじゃないので」と言って断れるのだが、水が嫌いな人間はいないだろう。角を立てずに断る理由が思いつかなかった。

「じゃ、じゃあ一口だけ」

 仕方なく浄観はペットボトルを受け取り、水を口に含んだ。

「ん?」

 思わず声を上げた浄観を婦人が驚いて見る。

「どうしたの?」

「い、いえ」

 浄観は動揺を必死で押し隠して言った。

「とてもおいしかったです。ありがとうございます」


 その足で広明寺へ出向いた浄観はあからさまに嫌な顔をされてもめげず、報告があるの一点張りで研浄に会おうとした。

 やっと取り次いでもらったもののの、出てきたのは研浄一人ではなく、清心院の院主も一緒だった。

 自分のせいで、師の研浄の信頼まで揺らいでいるのだろうか。浄観は申し訳なさでいっぱいだった。

「先ほど、私は万福寺所縁の湧き水『阿弥陀の水』を飲んでまいりました」

「まあ、そうですか! 私も一度飲んでみたいのですよ。八功徳水と聞いていますが、どうです? おいしかったですか?」

 研浄がのん気な受け答えをするのを、院主が苦々しげに見ていた。師匠は少し、空気を読むということを学んだほうがいい。

「ええ。そして水の中に、感じたことのある力を感じました。あれは間違いなく九頭竜大王の力」

「ほう」

 院主がかすかに眉を上げた。


 九頭竜大王は、昔水不足の折、広明寺の高僧が天竺より勧請した神で、広明寺境内にある広明ヶ池に鎮座していた。しかし、去年台風によって地崩れが起きた時、九頭竜大王は行方知れずとなり、広明ヶ池の水量も落ち、水質も悪化してしまっている。

「確かにその水は九頭竜大王の加護を受けているのですね」

「はい」

 院主に念押しされ、浄観は確信を持ってうなずいた。

「まあ、それは困りましたね」

 全然困っているように聞こえない声音で研浄が言った。

 九頭竜大王が広明ヶ池を捨てて阿弥陀の水を守護しているということは、九頭竜大王が広明寺を捨て、万福寺を支持しているということを意味してしまう。瑞森地区における妖怪跋扈の中心、普段から憎憎しく思っている万福寺に所縁の神を奪われるなどということは、広明寺としてはあってはならないことだ。

「それは捨て置けません。あなたは法持寺にて待機なさい」

 院主に言われて浄観は暗い気持ちになった。またこの仕事も自分に回ってくるのか。

「私が参りましょう」

 研浄が何気ない様子で、しかしきっぱりと言った。

「いえ、あなたには他にいくらもお役目があるでしょう」

 研浄のことばに、院主は大きく首を振った。研浄はなおも食い下がる。

「しかし、まだ浄観は九頭竜大王を相手にするには力不足でしょう」

「いえ、そうは思いません。彼が、彼のアルジを上手に使えばそれは可能です」

 浄観とて分かっていた。広明寺が浄観を飼い殺しにしているのは、こういうときのためなのだ。だが、今の浄観では広明寺の期待にこたえることができない。

「それが実は、」

 研浄が言いかけたのを、浄観は慌ててさえぎった。

「お師匠さま、どうぞお気遣いなさらず。これも私の修行のうちですから」

「浄観」

 まだ教団に土蜘蛛を失ったことを知られたくなかった。研浄は浄観の顔をじっと見て、諦めたようにため息をついた。

「分かりました。院主さま、今、葛城のヌシは山の様子を見るために葛城山に帰っておられます。浄観に呼びにやらせますから、こちらにおいでいただくまでに少々時間がかかります。浄観、いいですか。今から葛城の山に行き、くれぐれもヌシ様にお願いなさい。あなたが頼めば、ヌシ様は応じてくださるでしょうから」

「はい」

 そう答えたが、浄観は葛城の山に行くつもりはなかった。


 なぜ、土蜘蛛は葛城山へ戻ったのだろうか。浄観は土蜘蛛の気持ちがよく分からなかった。浄観に嫌気が差したからだとしても、逆に浄観のために身を引いたのだとしても、浄観の勝手な都合で呼び戻すことはできないと思った。

 一人で九頭竜大王に立ち向かうことが無謀であることは承知していた。だが他に方法はない。任務で死ぬのなら、妖怪の眷属となった浄観の汚名もそそがれ、研浄の名誉も回復されるだろう。そう思えば、いくらか気持ちが楽になった。

 そもそも死ぬかもしれない、と思って任務に赴くのは何も今回が初めてではない。土蜘蛛討伐のときも彼は死を覚悟していたのだ。あの時は妖怪である焔を盾にする、という安全策を用意していたが、今回は焔を呼ぶつもりはなかった。

「腹の立つ奴だが、みすみす殺すには長く付き合いすぎた」

 自分が死んだら、眷族契約から解放されるにもかかわらず、それでも焔は自分の死を悲しむだろうという考えがちらついたのも、彼を呼び寄せるのをためらった理由だったかもしれない。


 深夜、浄観は阿弥陀の水の前にいた。ちょろちょろと湧き出す水があたりの塵を沈め、すがすがしい空気を作り出している。

 山々の地下を通るうち地上の汚れを落とし、土の恵みを受けたふくよかな水。九頭竜大王がこの水を気に入るのも仕方のないことだと浄観は思う。

 しかし、浄観は今からこの湧水の水脈を立つ。

 要は広明寺は自分自身の力で九頭竜大王を連れ戻す自信がないのだ。人々が喜んで使っている阿弥陀の水と、広明寺の僧が年に一回の法要のときにしか使わない広明ヶ池の水と、どちらを守護するのがいいか、答えは明白だ。

 だが阿弥陀の水が止まってしまえば、九頭竜大王は守護する水を失い、居場所を失う。そうすれば広明ヶ池に戻るしかなくなるだろう。それが広明寺の狙いだった。


 昼間、浄観に阿弥陀の水をすすめてくれた婦人の顔が思い出された。一駅電車に乗ってまで水を汲みに来ていたあの人。顔色の悪い浄観に阿弥陀の水をすすめてくれた気遣い。

 師匠にも、一度この水を飲ませてあげたかったな。まあ、言うても詮無いことだ。


 浄観は錫杖を地に刺した。静かな夜に、金属の擦れあう高い音が響き渡る。

 これから、小規模な地震を起こし、水脈をずらすのだ。念珠を左手に三回り巻きつけ、房を手のひらに持ち、合掌した。浄観が真言を唱えようとした途端、錫杖がはげしく鳴動しはじめた。

 おかしい。まだ浄観は術を為していない。

 闇空を切り裂いて雷鳴がとどろき、山鳴りがして地面が揺れた。かたかたと動いていた錫杖は急に鳴り止み、見る間にどろどろと溶け出して地面にしたたり落ちた。錫杖のしずくは土に混じる前に泡立ち、跡形もなく蒸発した。大きな影が浄観にのしかかるように揺らぎたち、ゆっくりと形をとった。

「何をしておる」

 そう言って浄観の前で長い首を揺らめかしているのは、まぎれもなく九頭竜大王だった。あまりに大きな存在感に、浄観は怖気だった。

「それは、こちらのセリフです。こんなところで、何をしていらっしゃるのですか」

 引いてはダメだ。と浄観は思った。心の中でどんなに恐怖していても、それを相手に悟られてはならない。

「お前、広明寺の僧か」

 浄観のものの言い方に何か感じたらしく、九頭竜大王は尋ねた。

「正確には、違いますが」

 浄観は自嘲気味に言った。

「法持寺の僧です」

「そうか。あそこの先代の住持は気持ちの良い奴だった」

 そう言われても、浄観は先代と面識がないのでなんとも言えない。

「お前、この水を止めるつもりか」

 浄観は黙秘した。

「人間はこの水の恵みに喜び、それを褒め称える。私はここが気に入っているのだ。いくら法持寺の僧であっても、この水を止めるというなら容赦はしないぞ」

 どうやら自分は先代の法持寺住職のおかげで、いきなり殺されることなく撤退を忠告されているらしい。しかし浄観の任務はあくまで阿弥陀の水を止めることなので、おいそれと撤退するわけにはいかなかった。反対に浄観は九頭竜大王を説得にかかる。

「人間が感謝しているのはあくまで阿弥陀仏ですよ。彼らはあなたが守護していらっしゃることさえ知らない」

 浄土門の万福寺所縁の阿弥陀の水は、その名の通り阿弥陀仏の功徳によって湧き出していると信じられている。この水を加護しても、人間は九頭竜大王の神徳に気付きはしない。いくら人間を喜ばせても、それが九頭竜大王に還元されることはない。所詮九頭竜大王の自己満足にすぎない。

「同じことだ。この世のありとあらゆるものはすべて、根源的に仏へと還る。なぜお前にそれが分からないのか」

 言われて、浄観は押し黙った。

「帰れ。そうすれば見逃してやろう」

「それは出来ません」

 九頭竜王の背後で雷鳴がとどろいた。浄観はひるまず九頭竜大王を睨みつけた。ここを引いては、戻る場所がない。

「所詮は広明寺の手の者だな」

 馬鹿にするように九頭竜大王は嗤った。

 空を切り裂いて雷光が千と降り注ぎ、浄観目がけて走った。

 構える暇もなかった。轟音が轟き、思わず目を閉じた浄観の前を、一陣の風が吹き抜けていった。

 恐る恐る目を開けた浄観は目の前に人影を見つけて驚いた。

「お待ちください! どうか、お待ちを!」

 二つの数珠を交差させた独特の数珠を持ち、左手を九頭竜大王を押しとどめるように掲げているのは、制服姿の大和だった。息せき切っている様子。

「なんだ、大和」

 どうやら九頭竜王は大和と面識があるようだった。

「甘樫先輩?」

 浄観を振り返って大和は苦笑いした。

「そうか。広明寺にバレたんだな」

 その大和のことばを聞いて、浄観はまさかと思う。 

「どういうことですか」

 大和は言いにくそうに眉尻を下げて答えた。

「いや、悪気はなかったんだよ。いや、悪気はないとは言えないかもしれないけど、すぐ返すつもりだったんだ。でも帰ってくれなくてさ」

「つまりどういうことですか」

 要領を得ない大和の話に浄観のいらいらは募った。

「いつも、広明寺にやられっぱなしだから……、たまには良いんじゃないかと、うちのオヤジが。九頭竜大王がいなくなったらあいつら焦るだろうって言って」

「……つまり、あなたたちが広明ヶ池から九頭竜王を奪い、この阿弥陀の水に勧請したということですか」

「うう、まあ、簡単に言えばそういうことかな」

 万福寺の計画的犯行だったというわけだ。浄観は信じられなかった。広明寺がどんなことをしても、大和は、万福寺はそんなことをしないと思っていたのに。

「甘樫先輩のこと、ちょっと見損ないました」

「ええ?」

 大和はびっくりした。見損なわれるほど認めてくれていたのだろうか。

「どけ、大和。わたしはその人間を殺す」

 九頭竜大王が咆哮した。

「どうかお鎮まりください。彼は私が説得いたしますから」

 左手を掲げたまま必死に頼む大和のことばに、九頭竜大王はゆっくりと頭を振った。

「言ったところでこいつは聞く耳を持たんよ。こいつらは自分たちの持っている特殊な定規を唯一正しい定規だと信じて、それで世の中全てを観測する。他の人間の使う目盛の読み方さえ知ろうとはしない。お前が懇切丁寧に道を説いてやっても、こいつには到底理解できはしまいよ」

 さすがは九頭竜王。長い付き合いのある広明寺の僧をよく分かっていると、浄観は感心した。

「飛鳥野がそういう輩だと勝手に決め付けないでください。少なくとも私はあなたより彼のことをよく知っている」

 めずらしく憤然として大和が答えた。

「お前のそういうところは嫌いではないが、」九頭竜大王は大和を優しい目で眺めながら言った。「結局裏切られるぞ」

「九頭竜大王様の仰るとおりですよ」

 浄観も言った。

「あなたに説得されたところで、僕の気持ちは変わりません」

「飛鳥野……」

「そういうことだ。そこをどけ、大和」

 九頭竜大王がもう一度雷鳴をとどろかせ雨雲を呼ぶ。大和はなにか言おうとしてことばを探したが、結局思い浮かばず口を閉ざした。浄観は印を結んだが、おそらく勝てないだろう、という予感はあった。死にたいわけではない。ただ、立ち向かう以外にどうすればいいのか分からないだけだった。自分の力ではどうにもならない。

 九頭竜大王が浄観を見据えた。浄観はどこか現実感がないその光景を眺めていた。目の前に立ちふさがる大和の背中が大きく見えた。

 この人はここを退かないつもりだろうか。それは困るな、と浄観は思った。他人を巻き込んで死んでは、研浄に申し訳が立たない。


 突然、あたりの空気が変わった。ぴり、と何にも触れていないのに、肌に静電気が当たる。雷鳴をとどろかせていた雨雲が霧散し、乾いて張り詰めた空気が肌を撫でる。ふと見上げると満天の星空が掻き消えるほどの黒い影が空を覆っていた。

 驚いた九頭竜王が慌てて逃げようとしたが、その黒い影はふわりと九頭竜王の上に舞い降りて、その体を地に縫いとめた。銀色の糸が舞い飛び、九頭竜王の九つの首を巻き取る。九頭竜王は地響きするような咆哮を上げてもがいた。

「人の土地のことにまで干渉するのはどうかと思うたが、我が眷族に手を出されては話が別じゃ」

 細長い八本の足に、光る尾。一丈ほどもあるその大蜘蛛を、浄観は確かに一度見たことがあった。

「ヌシ?」

 浄観は思わず一歩踏み出した。人型を見慣れて忘れかけてはいたが、その姿はまぎれもなく、葛城山で見たあの土蜘蛛であった。

「浄観はわしの眷族じゃ。手出しするというのなら、容赦はせん」

 大きく振り上げた前二本の足は先端がへしゃげている。以前錬に折られた足は再生の途中のようだ。

「面倒くさいのが来たな」

 九頭竜大王は無駄な抵抗をやめて、地に伏したまま言った。

「なんだ、この人間はお前の眷族なのか」

「そうじゃ」

 九頭竜大王は体を震わせて嗤った。

「なんだ、お前、広明寺の僧のくせに、妖怪の眷族なのか」

「法持寺です」

「そうだった。どっちでもいいが」

「分かったなら、浄観から手を引け」

「手を引けもなにも、手を出してきたのはお前の眷族だぞ。手を引くのはお前の眷族のほうだ」

 九頭竜大王のことばを聞いて、土蜘蛛は深いため息をついた。

「なんだ、また『上の命令』か? 今度はなにをやらされとるんじゃ?」

 浄観は返事しなかった。こんなことをしていることを土蜘蛛に知られるのがなぜかたまらなく嫌だった。

「お前、なんで土蜘蛛の眷族になったんだ? そんなものになっては、あの寺では苦労するだろう」

 九頭竜大王の問いになんとも答えられず、浄観は目を彷徨わせた。だがその浄観の反応をみて、九頭竜大王は思うところがあったようで、満足げに笑った。

「これは面白い。気が変わった。よかろう。広明ヶ池に戻ってやってもよいぞ」

「本当ですか?」

 なぜか大和がうれしそうに聞き返した。

「だが条件がある。私の遷座の法要はお前がやれ、法持寺の僧」

 言われて驚いたのは浄観だ。

「私は修行中の身ですから、そのような大役は」

「私はお前の求めに応じて広明ヶ池に戻るのだ。広明寺の僧のためではない。そのことを連中にもちゃんと理解させねばならん」

 そう言うと、九頭竜大王はこらえ切れずに笑った。

「あいつらがばかにしている妖怪の眷属が、一柱の神を勧請するんだぞ。あいつらの悔しがる顔を思うと今から愉快だ。あの寺にはなんの未練もないが、お前のような僧がいるなら、おもしろそうだ。どうだ。妖怪の眷族としての役得もたまにはないとな」

 教団内でばかにされているのは真実だけれど、それを面と向かって言われるのはやはりきついものがある。素直にはうなずけない。

「よかったじゃん、飛鳥野。お前、ヌシ様の眷族でさ」

 大和が追い討ちをかけるようなことを言う。九頭竜大王が戻るといってくれているのだ、余計なことを言って気分を損ねたくはない。色々な思いを飲み込んで、九頭竜大王に礼を述べるしかない。浄観はそう思って、笑顔をとりつくろって口を開こうとした。

「やめろ、大和」

 だが、浄観が口を開く前に、土蜘蛛が苦々しげに言った。

「人間が妖怪の眷族になって、良いことなどなにもない。わしはそれが分かっておらんかったのじゃ」

 浄観の舌がこわばって、ことばが出てこなくなった。取り繕うことばはいくらでもある。そんなことはないと言ってすがれば、土蜘蛛は浄観の元に戻ってきてくれるかもしれない。

使い慣れた美辞麗句が頭の中をぐるぐる回っているのだけれど、それを口に出すことがどうしてもできなかった。

 浄観は、心のこもらないことばを土蜘蛛に使うのが恐ろしかった。土蜘蛛は見かけの美しさには惑わされず、その内側を見通す。

 何も言えない浄観の前で、たちまち土蜘蛛は幼い人間の形を取った。浄観を見て、そっと笑みを浮かべる。

「浄観。また会おう。その時にはちゃんと話し合おう。……今はまだ、お前を手放す決心がつかんのじゃ」

 言われて、浄観はハッと息を詰めた。それでは土蜘蛛は、この眷族契約を切るつもりなのだ。浄観は晴れて妖怪の眷族ではなくなる。だが、その時浄観の心を過ぎったのはそういった打算ではなくて、もっと心の内側にある感情だった。浄観と土蜘蛛をつなぐ糸がきっぱりと断ち切られることに対する恐怖にも似た悲しみだった。

「ヌシ!」

 浄観は立ち去ろうとする土蜘蛛を思わず呼び止めた。

「あなたが思うほど幼稚園というのは楽しいところでもないと思いますが、興味がおありなら通われてみてはどうですか」

 こんなことより先に言わなければならないことがたくさんあるはずなのに、口から飛び出てきたのはそんなことばだった。

 土蜘蛛はしばらくぼうっと浄観の顔を眺めていた。

「なにが言いたいんじゃ、お前は」

「つまり、その」

 言いたいことはたくさんあるようで、実はひとつしかなかった。だが、なんだかはっきり言うのはおこがましく、恥ずかしく、なかなか言い出せなかった。

「また一緒に、暮らしませんか」

 土蜘蛛は目を見開いた。

「いいのか」

 土蜘蛛の声は小さく、震えていた。

「はい」

「わしがいては、お前は苦労するんじゃろう。やりたいことを、何一つできんのじゃろう」

 言われて浄観は胸を打たれた。土蜘蛛がそれを気にしていたということに浄観は気付きもしなかった。いつでも土蜘蛛は浄観を気に掛けてくれていたのに、浄観は自分の不幸ばかり嘆いて、土蜘蛛を見ようともしていなかった。でも本当に自分は不幸だったのだろうか? 土蜘蛛が来てからの日々は本当に不幸な日々だっただろうか。

「そう思っていました。けれどそれは間違いだ。やりたいこともできないと思っていたけれど、それは本当じゃない。たぶん、方法はいくらでもありました」

 全てを手に入れることは難しい。失ったものは確かに多い。だが、土蜘蛛によって与えられたものは、それを捨ててでも受け取るべきだったのに、浄観はその全てを拒んできた。

「あなたは私に、望むことさえ不可能に思えた素晴らしいものをくれる。だったら、多少の不便が何だというのか」

 遅すぎるかもしれない。けれど、今はそれを手に入れたいと心から思うのだ。

「教団の中の地位なんて、少なくともあなたを失ってまで得なくてはいけないものではありません」

 思いもよらない浄観のことばに、土蜘蛛は驚いていた。人間の価値観はよく分からない。けれど、浄観にとってそれは、とてもとても大事なものだったはずだ。

「それでお前はいいのか」

「ええ。教団をやめさせられはしないでしょうからそれで十分です。結果的に寺持ちまでは出世できたし、まあ、足りるを知るということは必要でしょう」

 土蜘蛛の眷族のまま教団の中でやっていくことは、たぶん困難が伴う。だが、それも悪くはないかな、と思った。自分を家族のように愛してくれる土蜘蛛とともに生きることを思えば、多少の困難は苦にならない。

「そうか。お前はあの教団でやっていくんじゃな」

 土蜘蛛はかみ締めるように言った。

「はい。教団が私を救ったとは言いがたいですが、少なくとも私の信仰は私を救ってくれたし、私を裏切らない。だから、私はこの道を行きます」 

「そうか」

 そう言ってほっとしたように土蜘蛛は笑った。

「それならな、浄観。わしはずっと考えとったことがあるんじゃ。お前、わしに名前をつけぬか」

「い、いきなり何を」

「焔たちを見ていて、わしも名前がほしゅうなったんじゃ」

「ヌシ、あなた、意味が分かって言っているんですか」

 妖怪には本来名前がない。名前を知られることで、相手に支配されるリスクが高まるから、元々名前を持たないのだ。その大事な名前をつけられるということは、魂を握られるに等しい。人間に名前をつけられるというのは、契約で結ばれた人間の眷属になるのとは比べ物にならないほど絶対的な主従関係を結ぶことであり、アルジに名前を呼ばれると、妖怪は絶対に抵抗できない。

「構わん。お前は妖怪の眷属じゃから虐げられるんじゃろう。だったら、お前が妖怪を従えればよい。簡単なことじゃ」

「そんなこと!」

「遠慮することはない。お前との契りが切れないのならば、わしはその形にはこだわらんよ。お前はやっと出来たわしの新しい家族じゃ。失いたくない。二重の契約があれば、お前とわしとの契りはより強固になる」

 土蜘蛛が重々しくうなずきながら言った。

「そんな……え? 二重?」

 突然新しい単語が出てきて、浄観は思わず聞き返した。

「二重じゃろ。お前はわしの眷族で、お前はわしのアルジじゃ」

「え、今の眷族の契約は切らないんですか?」

「誰がそんなことを言った。今の眷族の契約を切ってしもうたら、わしは完全にお前の下僕になってしまうではないか」

 あきれたようにため息をついて、土蜘蛛は言った。なるほど、契約が二重になっていれば、主従関係が重なり合って相殺する。いや、それでも契約上の主従よりも名前で縛られた主従の方が優先されるだろう。それくらい名前の契約は強い。

「名前を受けることで、わしはお前との契りをより強固にしたい。だめか?」

 少し上目遣いに、不安そうに問いかける土蜘蛛を見て、浄観はたまらなくなった。土蜘蛛は浄観を信用して大切な名前を預けようとしている。

「いえ、だめではありません」

 ならば、この信頼に応えたい。

「お受けいたします。我が眷族にして、大事のお方、我が君様」

 浄観はほとんど泣きそうなのをじっと耐えた。今ならば大和に言われたことがよく分かる。土蜘蛛は確かにいいアルジだ。この人の眷族になれたことは、きっととても幸運なことだった。

「ありがとう。浄観。さあ、わしに名前をくれ」

「あなたの名前……」


 浄観には、土蜘蛛を見るたびに想起する文字があった。

 土蜘蛛は強い。それはただ戦闘能力としての強さではなく、幼くして親をなくしてもまっすぐ生きる強さ、自分を殺そうとした人間を許せる強さ、他人の幸せのために孤独を選べる強さ。その強さは深い思いやりに裏打ちされていて、どんな困難にあっても曲がることがない。

「剛。我が君、君の名は剛です」

「剛か。我が名は剛。法持寺の僧、飛鳥野浄観の眷属である」

 美しい夜だった。月は十三と七つ。東の空は青みがかって、やがて明けくる光を湛えていた。


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