3、法持寺中興の次第
用水路のある大きな道を右に曲がり、家々を抜けて田んぼまで出る。そこからさらに二百メートルほど歩いたところに、ぽつんと一軒の家が建っていた。
「ここか」
「はい」
土蜘蛛の問いに浄観は答えた。ここが二人の目的地、彼らに与えられた新しい住処だ。
ここはかつて法持寺という広明寺の末寺であった。後継がなく三年前に廃寺となっていたのだが、今回浄観が住職に就任したのである。
法持寺は檀家を持っていないので、浄観は経済的には教団に完全に依存するしかない状態だった。形の上では異例の出世だが、結局浄観は教団の中で生かさず殺さず飼われているにすぎない。教団はただ単純に、妖怪とその眷属となった浄観を総本山広明寺の境内に入れたくなかったのだ。身内に置きたくはないが、手放してしまうと危険な存在。妖怪の眷属など、もはやまともな僧として認められなかった。
三年間人の住まなかった寺は荒れ果てていた。
石垣の上に植えられた生垣は好き勝手に枝を伸ばし、一部は根元から折れ崩れている。庭もやはり手入れされておらず、雑草が茫々に生えている。肝心の母屋もところどころ窓が割れていて、うらぶれた印象を与える。
しかし土蜘蛛は、そういう表層的なことには全く頓着せず、うれしそうに浄観を振り返って言った。
「良い場所じゃな。清い気に満ちておる。それに虫がいっぱいいそうじゃ!」
「いや、虫は排除していきたいのですが」
浄観のことばには耳を貸さず、土蜘蛛はふよふよとお尻を振りながら、未知なる母屋へと突撃していった。
「ちょっと! 手入れしていない建物ですから危ないですよ」
慌てて後を追うが、土蜘蛛は鍵の開いていた玄関の引き戸を勢いよく開けて、どんどん中へ入っていった。
家の中は蜘蛛の巣だらけだった。だが壁も、板張りの床も案外傷んではいない。なんとか住めそうだ。
「よかった。思ったよりはひどくないですね」
ほっと胸をなでおろす浄観とは対照的に、土蜘蛛は興奮を抑えきれない様子だ。
「おお。これが人間の巣か。なかなか立派なものだな」
浄観は運んできた荷物を床に降ろした。大きな荷物は後から車で運んできてくれることになっている。
「窓にガラス入れないと」
ため息を吐きながら浄観がつぶやく。浄観が自由にできる金はほとんど無いので、こんな細かいことでも教団を頼るほか無い。しかし、広明寺まで行ってガラス代を請求するのはなんだか気の重いことだった。
土蜘蛛は雨戸を開け放って縁側に出た。
「おおぅ。これはなかなかよいぞ、浄観。見てみろ」
裏庭には松や楓の木が植えられ、手前にはツツジの低木があった。かつて池だったと思しき窪みの横にはあやめが群生し、美しい花を咲かせていた。
「きれいじゃな」
かつては手入れされていたであろう庭は、雑草が至るところに生えて当時の面影はないが、自由さの中に秩序を感じて、これはこれで風情があった。
「ええ、そうですね」
気の無い様子で浄観は答えた。手のかかりそうな庭である。しかし、庭師を入れるような余裕はとても無い。
庭のことはとりあえず置いておこう。まずは家の中だ。せめて寝るスペースだけでも確保しなければ。
縁側に座り込んで足をぶらぶらさせている土蜘蛛を捨て置いて、浄観は部屋の掃除に取り掛かった。埃をはたき、蜘蛛の巣を絡め取ろうとしたところで、土蜘蛛が悲鳴を上げた。
「お前はなんということをするんじゃ!」
「え、なんですか?」
「また勝手に人の巣を壊して! かわいそうじゃろうが!」
どうやら蜘蛛の巣を取り除いたことを怒っているらしい。
「しかし、ここを私たちの寝床にしたいので、蜘蛛には退場してもらうしかありません。屋根裏か床下なら住んでいただいても結構ですが」
「なんでそんな上から目線なんじゃ! まったく、礼儀知らずな眷族を持って苦労するわ」
土蜘蛛はぷりぷり怒りながら、床に這いつくばって、蜘蛛に話しかけた。
「すまんな。うちの眷族が無礼な真似をした。私は葛城の土蜘蛛、こやつはわしの眷族で人間の浄観という。今日からここで住まわせてもらいたい。よろしく頼むぞ」
土蜘蛛は蜘蛛にこの場所を空けてくれるように説得をはじめた。屋根裏への移動を勧めている。どうやら、高い位置を陣取ったほうがステイタスが高いらしい。浄観はそれを横目で眺めながら、こっそり他の場所にある蜘蛛の巣を取り除いていく。土蜘蛛の説得に付き合っていては、一日たっても部屋が片付かないだろう。
「すみません」
玄関で声がして、浄観は立ち上がった。そこには清心院から車で荷物を運んできた山城が居た。
「ありがとうございます」
丁寧に挨拶する浄観に、鷹揚にお辞儀して、山城は荷物を降ろしはじめた。浄観が慌てて走り出て、荷物降ろしを手伝いはじめた。
「浄観。こやつは誰じゃ? お前の仲間か?」
遅れて玄関に出てきた土蜘蛛は不思議そうに山城を見た。なぜか肩にクサグモを乗せている。浄観は慌てた。浄観の仲間呼ばわりなどされては山城が気分を害するだろう。
「いえ、こちらは清心院に勤めていらっしゃる山城さんです」
「そうか。わしは葛城の土蜘蛛じゃ。よろしくな!」
「……どうも」
無遠慮に土蜘蛛を上から下まで眺め回して山城がそっけなく言った。荷物を全て降ろして玄関先に並べ終わると、山城は澄ました顔で言った。
「では私は戻ります」
「ありがとうございました」
浄観は深々と頭を下げて礼を述べながら、引越しの手伝いくらいしていけよ、と内心で毒づく。まあ、妖怪のいるこんな穢れた場所には一分一秒もとどまっていたくはないのだろう。それにしても態度に出しすぎだ。
しかし、正直人手は必要だ。一人ではとても片付けられそうにない。
焔を呼ぼう、と浄観は思いたった。こんな時のための眷属ではないか。錬の方もついて来そうで面倒くさいが、まあ、人手は多いに越したことはない。
そう思って浄観が携帯電話を取り出した瞬間、なんの予告もなく、ガラガラっと勢いよく玄関の扉が開いた。
「こんにちは」
そこに立っていたのは、まさに今呼び出そうとした二上兄弟だった。
「え? どうしたんですか?」
まだ呼び出していないのに。浄観は驚いていた。
「どうしたって、引越しの手伝いに決まってんだろ」
そう言いながら、焔が靴を脱ぎ捨てて勝手に家の中に上がりこんで来た。土蜘蛛は来客に大喜びだ。
「よく来たのう。どうじゃ、なかなかよい巣じゃろう。虫もいっぱいおるのじゃぞ!」
土蜘蛛は焔の手を引いて、家の中を案内しようとする。
「いや、だから虫は駆除しますからね」
「お邪魔します」
焔の脱ぎ捨てた靴をきちんと並べて、錬が挨拶した。手に持った紙袋を浄観に見せる。
「まず掃除しなきゃだよね。一応雑巾をいっぱい持ってきたよ」
「……ありがとうございます」
奥まで上がりこんだ焔が声を上げた。
「うわっあぶね! 窓ガラス割れてる!」
「キラキラしてきれいじゃの」
「こら、ヌシ様さわっちゃダメだよ。飛鳥野! ホウキある?」
浄観はため息を一つ吐いて、ホウキとちりとりを持っていった。そこにはガラスを触ろうとする土蜘蛛と、それを羽交い絞めにする焔がいた。
「止めるな、焔! あのキラキラをわしのコレクションにするのじゃ」
「ダメなの、あれは危ないヤツだから!」
「いーやーじゃー! はーなーせー!」
イヤイヤと全身を使って焔から逃れようとする土蜘蛛と必死に抑える焔。なんだかとても楽しそうだ。
「窓なんとかしなくちゃね。もうすぐ大和さん来るから、とりあえずなにか塞げるものを持ってきてもらおう」
錬のことばに浄観は驚いた。
「え、甘樫先輩まで来るんですか?」
「うん。引越しには人手が要るだろうって。あの人も焔もお人よしだからね。ちなみに僕は全然手伝いたくなかったんだけど、焔が言うから来ただけだからね!」
「はあ、そうですか」
浄観には焔の気持ちが全く理解できなかった。力でねじ伏せられ、無理やり眷属契約を結ばされても、その人間のために何かをしてやろうという気持ちになるものだろうか。
「見返りを期待しているなら無駄ですよ」
浄観がそう釘をさすと錬は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「はは。飛鳥野くんって、ほんとにあほだね。死ねばいいのに」
そう言い捨てて、錬は大和に電話をかけに行ってしまった。
焔はガラスを掃きながら、器用に土蜘蛛をブロックしていた。
「そのきらきらを集めてどうするんじゃ? 捨てるんならくれ」
「ダメ! これは危ないから捨てます」
仲良さげにじゃれあう二人を見ていると、浄観はなぜかモヤモヤした気持ちになった。
「二上くん。それが終ったら雑巾がけしておいてください」
錬が置いていった雑巾をあごで指して居丈高に言い放った。なにか焔の機嫌を損ねてやりたいという気持ちが湧き上がって抑えられなかったのだ。
「おお、いいぞー」
しかし焔は当たり前のように返事して、気を悪くした様子もない。浄観のことばに命令されてくやしがる焔が見たいのに、こんなに素直だとなんだか物足りなかった。
焔は早々にガラスを片付けて、雑巾がけに取り掛かる。めんどくさがる素振りもなかった。土蜘蛛も焔の見よう見まねで雑巾がけをはじめた。土蜘蛛を見て、焔が「あー!」と声を上げた。
「ヌシ様、雑巾べちょべちょじゃん! ちゃんと絞ってよ」
「なに? イミが分からん」
「こうやって、バケツの上でぎゅーってやるんだよ」
「こうか!」
「そうそう、うまいうまい」
掃除の仕方を教える焔と真剣な表情で雑巾がけをする土蜘蛛の姿は、年の離れた仲睦まじい兄弟のようにも見えた。なにか、物事が浄観が意図したのとは違う方向に動いているような気がした。こんなほのぼのした情景が見たかったわけではないのだ。自分に命令されて渋々言うことを聞く、二上兄弟の悔しがる顔が見たかったのに。
テキパキと動く二上兄弟と、遅れて手伝いにきた大和のおかげで、一日で家の掃除は大方片付いてしまった。
「一度業者は入れた方がいいだろうけど、少なくとも今日は寝られるだろ。頑張った甲斐があったぜ」
大和がまるで自分の手柄のように満足げに言った。
「そう言うけど、大和さんが一番手伝ってないですよ。来るの遅いし」
錬が不機嫌さを隠さずに言った。
「仕方ないだろ。もうちょっと早く来るつもりだったんだけど、おやじに捕まっちゃって、手伝わされてたんだよ」
「まあ、いいです。終ったし、さっさと帰りましょう」
錬は思っていた以上に手伝わされたのが腹立たしいらしく、さっさと帰り支度をはじめた。
「なんだよ。引越しそばとか出ないのかよ」
見返りを要求する焔。
「焔。飛鳥野くんが作ったそばなんか食べたい?」
「そばに罪はない。俺は出てきたら食うぞ」
「こらこら無茶言うな。そうだ。うちでみんなで晩飯食うか? 飛鳥野も今から晩飯用意するの面倒だろう?」
大和の提案にしかめ面をしたのが二人、錬と浄観だった。錬は甘樫家にいくのはやぶさかではないのだが、浄観と同席したくなかった。浄観は浄観で、たくさんの妖怪に囲まれて食事をするなんて絶対に嫌だった。たった一人の妖怪の相手をしているだけでもかなりの苦行だというのに。
「いえ、せっかくですが遠慮します。荷物を片付けなければなりませんから」
浄観のことばに大和はそっか、とつぶやいた。
「まあ、今日はゆっくり休めよ。なんか困ったことがあったらいつでも連絡してくれ」
三人が玄関で靴を履いていると、土蜘蛛が悲しそうな声で言った。
「なんだ、お前たちもう帰るのか」
幼稚園児の悲しむ顔は、一同の心を揺さぶった。
「心配しなくても、また遊びに来るからさ」
「そうですよ、ヌシ様。今度は是非うちにも遊びに来てください」
「僕は今度、ヌシ様におすすめのスイーツ買って持ってきますから」
口々に土蜘蛛を慰める三人だった。
「今日はありがとうございました」
浄観が頭を下げると大和はにっこりと笑った。
「いえいえ」
「別に、お前のためじゃない! ヌシ様のためだ!」
ピッと浄観に指を突きつけて、焔は吠えた。
「じゃあね、飛鳥野くん。また学校で」
「……ええ」
錬のことばに浄観はうなずいた。一抹の不安を押し隠しながら。
翌日、浄観は土蜘蛛を連れて広明寺へと出向いた。以前は毎日くぐっていた山門を通り抜けるのには勇気が必要だった。寺務所に出向くと、慌ててすぐに奥へ通された。寺務所より奥の建物には踏み入れさせたくないのだろう。分かっていたこととはいえ、こうあからさまに拒否されて、浄観とてなにも感じなかったわけではない。けれど、それをあからさまに態度に表すことはできなかった。
「それで、どういった用件ですか」
応対に出た事務方は冷たい口調だった。努めて平静に浄観は答えた。
「お願いがあって参りました」
浄観は今日、並々ならぬ思いで広明寺へ来ていた。この願いが聞き届けられなかったら、浄観は学校に通えなくなる。
「私が学校へ行く間、ヌシを預かっていただきたいのです」
浄観が学校へ行っている間、土蜘蛛を一人残していくわけにはいかない。彼はまだ、人間の生活に慣れていない、幼稚園児なのだから。
「我々がですか?」
あからさまに顔をしかめられたが、浄観も引くわけにはいかなかった。
「はい。ヌシを一般の施設に預けるわけには行きません。なにか起こったときに対処できません。だからお願いしたいのです」
「困りましたね。我々だって何かあった時に対応は難しいでしょう。やはり、あなたが責任を持って、相手をするしかないのではないですか」
勝手なことを言う、と浄観は思った。一般人ならともかく、広明寺の僧たちと浄観の間にそう実力差はないはずだ。浄観にできることは彼らにだって出来るし、彼らに出来ないことは浄観にだって出来ない。むしろ、土蜘蛛の眷族である浄観は土蜘蛛が本気になれば逆らえないのだから、彼らの監視下にヌシを置いておくほうがよっぽど安全なはずなのである。けれど彼らはもっともらしいことばでその仕事を浄観に押し付ける。
「学校にいる間だけです。授業が終わればすぐに引き取りに参りますから」
食い下がる浄観に、相手は渋い顔をした。
「あなたが良き僧となるため勉学に励んでいることは承知していますが、妖怪の眷属となった今、もう一度立ち止まって考えてみるべきではないですか。あなたの学費を出してくださっている研浄様のご負担も考えなければなりませんよ。なにも、学校に通うことが全てではありませんからね」
妖怪の眷属ごときに高校へ行く資格はないと遠まわしに言われて、浄観はさすがにショックを受けた。
「ともかく、我々が葛城のヌシを預かることはできません」
話は終わりとばかりに席を立たれて、浄観も引き下がるよりほか無かった。
「のう、浄観。おぬし、学校というのに行きたいのか?」
広明寺からの帰り道、土蜘蛛に聞かれて浄観は返答に困った。春らしいうららかな陽気の中、二人は歩く。
「いえ。気にしないでください」
「行きたいんじゃろう? それは何をするところじゃ? 楽しいのか? 楽しいならわしも行ってみたい」
浄観の歩幅に合わせて、とてとてと小走りしながら土蜘蛛は言った。
「楽しいところではないですし、あなたは学校には行けませんよ」
「何でじゃ?」
土蜘蛛の質問攻めに浄観はいらいらしてきた。
「あなたには関係のないことです」
「なんじゃ。教えてくれてもいいじゃろうに」
土蜘蛛は気分を害したようで、そこから家まで二人は無言で歩き続けた。
「あ、やっと帰ってきた」
法持寺に着くと、縁側に座ってくつろいでいる二上兄弟の姿があった。学校から直接来たらしく、制服を着ている。
「なにをしているんですか、あなたたち」
「ヌシ様に会いに来たんだよ」
「そうかそうか。よく来たのう」
土蜘蛛はうれしそうに言って、二人に駆け寄った。
「それに、今日もお前休んでたからさ。まだ引越しの準備とか忙しいのかと思って。なんか手伝ってやろうか?」
焔が土蜘蛛を抱き上げて自分の股の間に座らせながら聞いた。
「いえ。おかげさまで大方片付きましたから、今日はもう帰ってください」
浄観は、なんだかこの二人の相手をするのがすごく億劫だった。誰とも話したくない。その中でも特にこの二人とは話したくなかった。
「はぁ、愛想の無いやつだなお前は。ヌシ様もこんなヤツと一緒じゃ大変でしょう?」
焔がわざとらしくため息をついて、土蜘蛛を撫でくりまわす。
「うむ。浄観はあんまりなに考えてるか分からんから大変じゃ」
もっともらしくうなずく土蜘蛛に、焔と錬は大笑いした。
なんだか、全てがうっとうしい。彼らの笑い声がひどく神経に障った。
「お二人とも。私は修行がありますから、しばらくヌシを見ていてください」
浄観はそう言い置いて、奥へと続く襖をぴしりと閉めた。
「うわー、まじ感じ悪いな、アイツ」
焔の声は襖を越えて、浄観の耳にも入ってきた。
「ヌシ様ヌシ様。あんな感じ悪いやつが眷族ではさぞおつらいでしょう」
土蜘蛛ににじり寄りながら、錬が言った。土蜘蛛は、ぷうとふくれたまま、それには返事をしない。
「ヌシ様ヌシ様。もっと従順で言うことを聞く眷族を持たれたほうがよいと思いますよ。例えば僕とか!」
「お前すごいな。ぐいぐい行くな」
焔はびっくりした。
「なんじゃ。お前、わしの眷族になりたいのか?」
「それはもうなりたいですとも!」
興奮気味に錬は叫んだ。
「今のところ間にあっておる。他をあたれ」
「ヌシ様。絶対僕、飛鳥野くんよりいい眷族になれる自信があります。大体なんですか、あの態度は。失礼すぎます!」
「そもそもなんであんな機嫌悪いの、アイツ」
焔に聞かれて、土蜘蛛は今日あったことを語った。
「なるほどなあ」
土蜘蛛の話を聞いて、焔は少し浄観に同情した。なんとか彼を学校に通わせてやることはできないだろうか。
「ヌシ様。僕に名案があります」
ずいと顔を近づけて、錬が言った。
「名案?」
「はい。それを教えますからその代わり、僕をヌシ様の眷族にしてください」
「嫌じゃ!」
「むむ。じゃ、じゃあ僕も教えません!」
ぷい、と顔を背ける錬を焔が「おい」とぺしりと軽く叩く。
「いいから教えろよ。いきなり眷族にはなれなくても、こう、地道に好感度をあげていけばいつか土蜘蛛エンドを迎えられるかもしれないだろ」
「言いたいことはわかるけど、キモイ言い方だな」
「錬、なんじゃ、その方法は。早う教えてくれ!」
幼稚園児の土蜘蛛にすがりつかれて、錬は渋々その方法を伝授した。
何があっても、修行は修行だ。
浄観は部屋に入ると陀羅尼を唱えた。集中していると、外で土蜘蛛と二上兄弟が笑いさざめいている声もだんだん遠くなっていく。
浄観が何度も何度も陀羅尼を唱え、自他を超えた境地へと入っていこうとしていたその時、襖が勢いよく開いて、土蜘蛛が走りこんできた。
「浄観! 喜べ!」
三昧の境地に入ろうとしたところに思わぬ珍客を迎えて、浄観はとっさに反応ができなかった。
「錬たちに聞いたんじゃがな、大和の家は幼稚園というのをやってるらしい。これはな、お前の好きな学校みたいなモノでの、わしでも通えるというのじゃ。だから、お前が学校に行っておる間、わしは大和の家の幼稚園に通うぞ!」
どうだ、名案だろう、とばかりに胸を張る土蜘蛛を見ていると、なんだか頭痛がしてきた。
「これでお前も学校っていうのに行けるじゃろう?」
「それは無理です」
「なんでじゃ!」
「なんでもです!」
感情に流されてはダメだ。そう思っていたはずなのに、浄観は思わず叫んでいた。
「いい加減にしてください! 勝手なことばかりして!」
むりやり妖怪の眷属にされ、そのせいで寺での地位を追われ、学校にも行けず、修行まで邪魔される。耐えに耐えてきたものが一気にあふれだして、声を荒げてしまう。ダメだ。自分はもう土蜘蛛に逆らってはいけない身。アルジにこんな口を利いては、きっとひどい目にあう。そう思っていても止められなかった。
「勝手? 勝手じゃと? 勝手なのはどっちだ!」
土蜘蛛はそう叫ぶと、襖をぱん! と勢いよく閉めて部屋を飛び出していった。
「え? ヌシ様どこ行くの?」
驚いたらしい二上兄弟の声が聞こえたが、ドタドタという土蜘蛛の足音はやむことが無い。
「待ってくださいよ、ヌシ様!」
続いて二上兄弟らの走り去る足音がして、急に辺りは静かになった。
山の向こうに日は落ちて、万福寺も日中開けていた門扉を閉めた。大和の代わりに門扉を閉じに行った焔が甘樫家の居間へ戻ると、土蜘蛛が怒り覚めやらぬ様子で声を上げたところだった。
「全く! あいつは本当に勝手じゃ!」
「まあまあ、ヌシ様。そうお怒りにならずに」
大和は慌てず騒がず、檀家から貰った和菓子を土蜘蛛に勧めた。
「食べます?」
「ふん!」
土蜘蛛は包み紙を破り捨てると、菓子をまるごと口の中に放り込む。甘い餡が口の中で溶けて、土蜘蛛は幸せそうに目を細めた。
法持寺を飛び出した土蜘蛛は、なぜか万福寺に来ていた。「今日はここに泊まるぞ!」と一方的に宣言し、勝手に居間のテレビ正面の一番良い席を占領してさっきまで子供向け番組を興味津々で見ていたのだが、大和が「飛鳥野とけんかでもしたんですか?」と聞いたところ怒りが再燃したらしく、今日あったことを事細かに説明したところのようだ。
「あいつはいつも、急に怒り出す! わけが分からん!」
土蜘蛛は怒りに任せて、二つ目の和菓子に手を伸ばした。
「しかしまあ、飛鳥野にも立場ってのがありますからねえ」
大和は浄観に同情的だった。
「たちば?」
小首をかしげながらも、菓子の包み紙を破る手は止めない土蜘蛛。
「飛鳥野のいる広明寺と、この万福寺はけして仲が良いとは言えません。ていうか、めっちゃ仲悪いっていうか……。あそこの教団は、妖怪のことを人間を惑わす仏敵と思ってるから、うちみたいな妖怪寺、その存在自体が許せないんですよ。だから、飛鳥野としては、どうしてもうちを頼るわけにはいかなかったんでしょう。ヌシ様をうちの幼稚園に通わせるなんてことは、あそこの人たちからすれば言語道断の行為ですよ。飛鳥野の立場では、そんなこと絶対できない」
「だが、あいつの仲間たちはわしの面倒をみたくないといったのじゃぞ」
「それはそれ、これはこれなんです。今日もヌシ様がここに来ていると知ったら、飛鳥野は怒るだろうなあ」
「人間というのは、ややこしいのう」
土蜘蛛が訳知り顔でうなずいた。
大和と土蜘蛛のやり取りを携帯ゲーム片手に眺めていた焔の携帯が震えた。
「げ」
浄観からのメールだ。見たくないなあ。焔は思う。しかし、見ないでいるのも気になるので、仕方なくメールを開いた。
「ヌシはどこにいますか。至急連絡ください」
「……見なきゃよかった」
「ん? どうした?」
「いや」
大和に聞かれてことばを濁す焔の手の中で、再び携帯が震えだす。今度は電話の着信だった。浄観は相当切羽詰っているらしい。
「出なくていいのか?」
「うーん」
大和に聞かれて焔は返事に窮した。全然出たくはない。しかし、電話は鳴り止む気配もなかった。このままひっきりなしに着信が入ると、落ち着いて携帯ゲームも出来ない。焔は観念した。
「ごめんなさい。ちょっと電話出てくる」
廊下に出て通話ボタンを押した。
「もしもし」
「今どこにいますか」
挨拶もなしに浄観は聞いてきた。
「えー、万福寺だけど。……ちなみにヌシ様も一緒」
ヌシの居場所を教えてやるべきかどうか、焔も少し迷ったが、どうせしつこく聞かれるのだろうから先に教えてやることにした。
「くそっ! やっぱり!」
浄観は相当焦った様子で声を荒げた。
「……実はもう、万福寺の前まで来ています」
「え?」
浄観のことばに驚いて、焔は玄関まで行っておそるおそるドアを開けた。果たして閉じられた門扉の前には浄観が携帯電話片手に立っていた。
「開けてください」
門前のライトに照らされて薄闇に浮かぶ浄観の顔は、怒りで引きつっていた。
関わりたくない。
「本日の開門時間は終了しました」
「何を馬鹿なことを言ってるんですか。開けなさい」
そうすごまれては、浄観の眷属である焔は門扉を開けるしかなかった。
門を開けると浄観は焔を押しのけるようにして甘樫家に上がりこんできた。家主の許可を得ず上げてしまったがよかったのだろうか。焔は戸惑った。
「ヌシはまだ怒っていますか?」
「うん。すごい怒ってた」
先ほどの剣幕を思い出しながら焔が答えると、浄観はうんざりしたようにため息を吐いた。
「そうですか。今からヌシに謝りにいきますから、あなたは口添えしてください。あなた、ヌシに気に入られているようだから」
「えー、やだよ。なんで俺が」
「もう忘れたんですか。あなたに拒否権はないんです」
「わ、分かった、分かった!」
また右足の締めつけがはじまったので、焔は慌てて言った。
「くそっ。妖怪に頭を下げるのかと思うと胸糞悪い」
「……お前、実は結構口悪いよな」
「あなた相手に取り繕う必要はありませんからね」
つんと顔をそむけて浄観は言った。
「そんなに妖怪嫌いなら、昼間言ったようにさ、ヌシ様のこと万福寺に預けちゃえばいいじゃん。ヌシ様を幼稚園に通わせるっていうのは我ながら名案だと思うんだけどなあ」
幼稚園児に混じってお遊戯をするヌシ様。幼稚園児に混じってお歌を歌うヌシ様。かわいいし、面白い。
「そうはいきません。私は、ヌシを手放すわけにはいかない。万福寺なんぞに取られるわけにはいかないのです」
そう言った浄観の顔は、悲愴ですらあった。
突然甘樫家の居間に現れた浄観に、土蜘蛛はイジけてテレビに夢中のフリをした。浄観はその土蜘蛛の対応に一瞬ひるんだが、ぐっと拳を握り締めて呼吸を整えた。
浄観は土蜘蛛の前に頭を垂れて「我が君よ」と呼びかけた。その表情は苦しみに満ちていた。その苦しみが自責の念からでなく、妖怪に頭を下げるという屈辱からであることを焔は知っている。土蜘蛛にチクってやりたいが、後が恐いのでできない。むずむずする。
「眷属でありながら無礼な振る舞いの数々、どうぞお許しください」
こんなこと言うんだ、と焔は少し感心していた。悪いとは全然思ってないくせに、表面上だけ見れば殊勝に見える。本当に反省している時でも「反省の色が見えない」と怒られる焔とはえらい違いだ。
土蜘蛛はそんな浄観をしばらく打ち眺めていたが、ふっと息を吐いて言った。
「浄観。なんでわしがここの幼稚園に行ったらお前が怒るのか、大和に教えてもろうた。でもな。言うてくれねば、分からんじゃろう」
「……はい」
浄観はうつむいたまま小さく返事した。
「お前はなにも教えてくれんから、わしにはお前のことがよう分からん。今も、お前がなんでそこまでへりくだって、悪いとも思うておらんくせにわしに頭を下げるのかどうしても分からんのじゃ」
バレてる。焔は心の中で快哉を叫んでいた。ヌシ様すごい! この浄観の嘘のお詫びを見抜くとは、やはり葛城の山を治めるだけのことはある。
浄観は思わずうろたえて視線をさまよわせ、ふと目のあった焔をひたと見据えた。焔はそういえば口添えを頼まれたのだった、と先ほどのことを思い出した。
「あー、ヌシ様。飛鳥野が詫びを入れるってのはよっぽどのことだと思うんだ、たとえ心がこもってなくても。だから今日のところはこの謝罪で許してやってよ、心がこもってなくても」
焔としては精一杯の援護射撃のつもりだったのだが、言ってからあまりフォローになっていないような気がした。もうちょっとなにか言ったほうがいいかもしれない。
「いや、許せない気持ちも分かるよ? 飛鳥野って人の話聞かないし、高圧的だし、妖怪のことバカにしてるし」
言っているうちに腹が立ってきた。
「なにか言うたびにすぐ俺の足首締めつけるし、殺すだの殺さないだの言って脅してくるし、ああ、あとなにがあったっけ」
「焔。ちょっと黙っておれ」
「あい」
珍しく土蜘蛛に冷たくあしらわれて焔は素直に言うことを聞いた。浄観に睨まれたような気がしたが、気のせいということにしたい。
「浄観。お前がなぜそんなに無理をしているのか、わしには理解できんのじゃ。なにがお前をそうまでさせる?」
浄観はじっと目を伏せ、押し黙った。
「浄観。言うたじゃろ。教えてくれねば分からん」
そう言った土蜘蛛の声は澄み切って、怒りや悲しみを全く感じない、透明な声音だった。
浄観はふっと息を吐いた。その美しい声音には観念するしかないと思わせる不思議な力があった。じっと土蜘蛛の顔を見て、浄観は口を開いた。
「私には選択肢がないから。私には、教団の道具として生きるしか道はないのです」
「道具?」
浄観は自嘲的な笑みを浮かべた。
「考えてもみてください。相手が妖怪とはいえ、殺生など破戒行為。葛城のヌシを討つなどということが、まともな僧の仕事だと思いますか? 彼らにとって私は、簡単に切り捨てられる都合のいい道具でしかない」
「切り捨てられるって、なんでだよ?」
大和が思わず尋ねた。
「私は訳あって両親とは一緒に暮らせず、教団が経営する養護施設で育ちました。先生方は愛情いっぱいに私を育ててくれて、そういう意味では自分を不幸だと思ったことはありません。けれど成長するにつれて、自分が将来取り得る選択肢が非常に限られていることに気付いたんです。寄付に来る人たちを見ながら、私が人に施しをする側に回れる可能性はまずないと思い知ったとき、私はそれはイヤだと思った。自分の可能性を信じたかった。出家を決意したのは、自分が教団にとって有用な人間だと証明できれば、教団も私に投資してくれるだろうと思ったからです。事実、彼らは私に僧としての教育を施し、高校にも通わせてくれました。ただしそのためには、私は常に、自分が教団にとって有用な人間であるということを証明し続けなければならなかった。そのためにはどんなことでもやりました。それがいつか、出世の道へとつながると、そう信じて。だが、もはやその道も閉ざされた。妖怪の眷属となっては僧として出世することなどできません。ヌシを教団の影響下に留め置くということだけが、今の私のたった一つの存在意義なのです。そして、その役目をしっかり果たせれば、いつかは認められる日も来るかもしれないと、」
一縷の望みを捨てられずにいるのだ。
「仰るとおり、先ほど頭を下げたのはただの自分勝手、あなたにすまないと思ってのことではない」
言い切って土蜘蛛の顔を見るが、その顔には取り立てて感情は浮かんでいなかった。
「だが、自分の立場はよく分かっています。もはや、私はあなたの慈悲にすがるしかない、生かすも殺すもあなた次第。あなたに法持寺へ戻ってもらわなければ、私に生きる道はないのです」
土蜘蛛はなにも言わなかった。しばらくして、おもむろに手元の和菓子を二、三個ティッシュでくるんで席を立った。浄観がじっと探るような目で見ているのに気付いて、土蜘蛛はぐいっとティッシュを突き出して言った。
「浄観。大和にはお菓子までもろうて、世話になったんじゃ。お前からも礼を言うてくれ」
「……はぁ」
「大和。世話になったな。わしは法持寺に戻るぞ」
「そうですか」
大和はにっこり微笑んで言った。
「また遊びにいらしてくださいね」
土蜘蛛はすたすたと玄関へ向かった。浄観はなにが起こったのか一瞬理解できず、ぼうっと土蜘蛛の後姿を眺めていた。
「浄観。なにをしておるんじゃ。早う来い!」
土蜘蛛に呼ばれて、浄観は慌てて立ち上がって後に続いた。
許してくれるということなのか。確たることばはもらえず、浄観は態度を決めかねていた。
万福寺を出て、暗い道を二人で歩く。自分からは話しかけにくくて、浄観は黙りこんでいた。
「のう、浄観。このお菓子を食うたことがあるか?」
「は? い、いえ」
突然話しかけられて、浄観は戸惑いながら答えた。
「そうか。このお菓子はおいしかったからな。法持寺に戻ったら、お前にも一個だけやろう。いいか、一個だけじゃぞ!」
「いえ。私、甘いもの苦手なんでいりません」
「なんじゃ。もったいないことを言うやつじゃな。せっかく一個やると言うておるのに」
土蜘蛛は不機嫌そうに口を尖らせた。
「わしはこれを一口食べたら、とたんに幸せな気持ちになったんじゃ。だから、わしはお前にこれを食べさせてやりたい」
言われて、はっと浄観は土蜘蛛の顔を見た。
「わしはお前のアルジじゃ。きっとお前を不幸にはせぬぞ。さあ、帰ろう」
そう言ってたたっと先を走っていく土蜘蛛の後姿は、夜闇の中でもわずかな光を集めて反射して、ぼんやりと光り輝いて見えた。




