2、葛城の土蜘蛛、新たな眷族を得る
金剛山の麓に位置する高天彦神社は、雄大な山の中にあって神秘的な雰囲気が漂う美しい神社だ。が、二上兄弟の住む場所からは電車に乗って、バスに乗って山道を登ってやっとたどり着くような場所で、はっきり言って遠い。用がないと来ない。
「なんなんだ一体」
参道前の駐車場には、不機嫌顔で仁王立ちする焔がいた。錬は携帯で風景写真を撮りまくっている。
「ねぇねぇ、焔。せっかくここまで来たんだから、温泉入って帰ろうよ」
「お前はお前で観光気分か!」
普段来ない場所まで来て若干テンションが上がっている錬に、焔のイライラは募った。
二人は浄観に呼び出されてここまで来たのだが、待ち合わせ時間から三十分立っても当の浄観は現れない。
もう帰っていいだろう、と錬は思っていた。遅刻するほうが悪いのだ。
「もういいじゃん、焔。あいつ来ないよ絶対。温泉行こう! はやく!」
錬にゆらゆらと揺さぶられて、焔の心も揺れる。正直帰りたい。でも後が怖い。勝手に帰ったら右足を縊り落とされる可能性がある。
「温泉は仕事が終ってからにしてください。最もそんな元気があればですけど」
背後から声が聞こえて錬が振り返ると、そこには浄観が立っていた。僧形である。
しまった。ぐずぐずしていたから来てしまった。ちっと浄観に聞こえるか聞こえないかの音で錬は舌打ちをした。
「呼び出しといて遅刻か!」
焔が吠えた。
「なぜ二上くんのお兄さんがいるんですか」
浄観は焔に問いかけたが、錬は焔に答えさせず、すかさず答えた。
「そんなことは僕の勝手だろう? 僕は君の眷属じゃないんだから、君の思い通りになると思わないでほしいね」
浄観はすっと目を細めて錬を見やった。
「……まあ、いいです」
それ以上は何も言わず、浄観は踵を返してスタスタと歩いていく。
「おい、どこでなにするつもりなんだよ。ちゃんと説明しろ!」
吼える焔に、浄観は一言だけ答えた。
「登山ですよ」
「登山?」
「え、まじで? この靴、先週天王寺で買ったばかりの新品なのに」
錬が不平を鳴らした。
「だったらあなたはここで帰ったらいいでしょう?」
「そういうお前もその格好で山登んのか?」
焔が思わず聞いた。いくらなんでも今どき草鞋では山登りしにくいんではないだろうか。。
「大丈夫ですよ。慣れてますし」
「へえー」
焔は素直に関心した。
「で、山登ってなにするんだ」
浄観はその焔の問いには答えず歩き出した。焔はさらに言い募ろうとしたが、右足首のアンクレットが突然きつくなったので、黙って浄観に従って歩くしかなかった。
浄観はいのしし避けの柵を押して、迷うことなく林の中の道へと入っていく。最初は広かったその道も、やがて幅が狭くなり、最後にはけもの道と呼べるかどうかもあやしい道なき道となっていった。普通の人間ではとても歩けないような険しい道だ。しかし、そんな険しい道を浄観は草履で苦もなく進んでいく。
最初のうちは、二上兄弟も浄観に遅れまいと必死に歩いていた。草や低木に傷つけられて、服が傷だらけになっても必死に歩いた。浄観が平気な顔をしているのに、自分たちが歩くのに苦労しているということに気付かれたくなかったのだ。しかし、舗装されていない道の歩きにくさは想像を絶し、滑落しそうになること数度、二人の体力は限界に近づいていた。
息が上がっているのを浄観に悟られるのが悔しくて、必死に呼吸音を抑えていたのだが、もはやそんな余裕はなく、錬も焔も口を開けて全身で呼吸していた。
「つらい。死ぬ」
ついに焔が弱音を吐いた。
「妖怪はこんな道なんともないんじゃないですか?」
馬鹿にしたような笑みを浮かべ浄観が言った。焔がすかさず噛み付く。
「俺たちも普通に人間の体だっつうの!」
「じゃあ、原型に戻ればいいじゃないですか。なんの妖怪か知りませんが、あなたたち、名字からして山の妖怪でしょう」
言われて焔は歯噛みした。
「どうする?」
錬が焔に小声で聞いた。確かに彼らは山の妖怪だ。原型を取れば、今とは比べ物にならないくらいラクに山を登れるだろう。
「……なんかあいつにだけは原型を見せたくない」
焔は憮然として答えた。
「うーん。そうだよなあ」
ああいう人間至上主義のヤツに原型を見せても良いことは一つもないだろう。見せなくても十分二上兄弟を馬鹿にした態度を取っているが、原型を目の当たりにすれば二人が人間ではないということを再認識し、その扱いはもっとひどくなる可能性が高い。
「ねえ、目的地まであとどれくらいかかるの?」
近ければなんとか人間の体でも頑張れるだろう、と思って錬は尋ねた。
「さあ。あと一時間なのか、二時間なのか私にもよく分かりません」
けろっとした顔で言われて錬は絶句した。
「どういうことだよ? お前、自分で自分の行く先、分かってないのか?」
焔が激しい呼吸の間に尋ねた。
「まあ、だいたいの場所は分かりますが、正確な場所は分かりません」
「なに言ってんの?」
錬はあきれ果てた。
「もう帰ろう、焔。付き合いきれないよ」
「誰もあなたに付き合ってほしいなんて頼んでませんよ。いやならどうぞあなたは帰ってください。僕は弟さんを呼んだだけで、あなたは呼んでいませんし」
むしろ帰ってくれたほうが都合がいい。
「なに言ってんの。僕が飛鳥野くんと焔を二人きりにさせるわけないだろ。僕が帰るときは焔も一緒だよ」
そう言って睨みつけてくる錬を、浄観は心底わずらわしく思った。
高校で焔と同じクラスになったその時から、ひそかに浄観はこの純血の妖怪に目をつけていた。力の純度の強い純血の妖怪を眷属にすれば、それは浄観の実力の証明となり、浄観の教団内での地位を確固たるものにする。それに焔の単純で扱いやすそうな性格も眷属には理想的だった。強いけれど、浄観に逆らえない眷属。焔はかなりの逸材だった。ただ、焔にはひとつだけ余計なオプション、双子の兄・錬がついていた。錬は焔と違って要領がよく、頭の回転も早い。力でねじ伏せ眷属にしたとしても、簡単に制御できるとは思えなかった。だから、浄観はあえて錬は眷属にはせず、焔だけを従えたのだ。制御できない眷属など使えないし要らない。それよりも、兄弟間で立場に格差をつけることで、不和の原因を作り出し、二人の協力体制を崩そうと考えたのだ。
「飛鳥野くんが焔を解放しない限り、僕はどこまでも君にまとわりつくよ」
だが結果はこれだ。錬は焔を守るのに必死だし、焔も自分だけ眷属にされたことで錬を恨んだり妬んだりしている様子もない。
思ったより二上兄弟の絆は強かったようだ。なんとかこの二人を引き離せないものか。内心浄観はそんなことを考えていた。
「なんにせよ、二上くんにはついて来てもらいます。右足首のアンクレットをお忘れなく。お兄さんはお好きにどうぞ」
錬との不毛な言い争いを打ち切るため、浄観はそう言うと踵を返して歩き出した。しかし錬はさらに食い下がる。
「いったいどこへ向かおうっていうんだい? それだけでも教えてくれないと、僕らはついて行かないよ」
「そうだぞ、飛鳥野。ゴールの分からない登山とか、ほんとすごい拷問だよ? 教えてくれんと、俺はもう一歩も動けねえぞ。心も体も疲れ果ててんだけど」
焔のことばに浄観はしばらく黙って考えていたが、ふいに後ろを振り返って二人に聞いた。
「あなたたち、金剛の山は詳しいんですか?」
「いや、全然。昔、甘樫のおじさんに連れられて葛城のヌシに挨拶に来たことはあるけど。あ、ちなみにそのヌシ様も去年亡くなって、新しいヌシには会ったこともないからね!」
葛城のヌシというのは、金剛、葛城の二山を牛耳る大妖怪だ。錬は二上山の縁者だが、大和の父親に連れられて、挨拶に来たことがあった。そんな大妖怪と知りあいだなどと言ったら、協力を仰げなどと言われかねない気がして、慌てて今のヌシとは付き合いがないことを強調した。
「そう。ではあなたは葛城のヌシの住処を知っているんですね?」
「え? う、うんまあ」
とまどいながら答える錬に浄観は満足げに微笑んだ。
「ではその場所へ案内してください」
「案内っつったって。ヌシさまは人間にはお会いにならないと思うよ」
「余計なことは考えず、あなたたちは私を連れて行けばいいんです」
言われて錬は憮然として黙った。絶対に教えたくなかった。
「二上くん。あなたもヌシの住処を知っているでしょう? どっちですか」
「もうちょっと南だけど」
あまりよく考えずに即答した焔を錬は無言でにらんだ。なんだかイヤな予感がするのだ。
「君はヌシさまに会ってなにをしようとしているの? それを教えてもらわなければ、ヌシさまのところへは連れて行けない」
錬のことばに浄観は眉をひそめた。本当に面倒くさいな、この人。疲労で思考能力の低下している焔だけならば、二つ返事で連れて行ってくれそうな雰囲気があるのに、錬はダメだ。思い通りには操れない。
「聞いてどうするんですか。どちらにしろあなたたちは私に従うしかない」
「そうだね。君の力はたしかに脅威だけれど、葛城のヌシに逆らうことだって恐ろしいよ。君がなにをするのか聞くまでは僕はここを動かない」
浄観は苛立った。錬の横槍によって自分の眷属である焔を自由に動かせないのが腹立たしかった。眷属というのはアルジに絶対服従のはずなのに、この邪魔者のせいで全くうまくいかない。もう一度、この妖怪どもにちゃんと立場を理解させる必要があった。
「いいでしょう。教えてあげます。私は上から特命を受けて葛城に来ました。その特命とは、新しい葛城のヌシを殺すことです」
こいつ正気か? 錬は思った。葛城のヌシを殺せると考えていることもアホだし、この金剛の山中でそんなことを堂々と言い放つこともアホだし、ともかくアホでしかなかった。
焔と錬は顔を見合わせ、小さくうなずいた。
逃げよう。
今すぐダッシュでこの山から逃げなければ、マジで命が危ない。木霊がざわめいて、今の浄観のことばをヌシのところへと送っていっているのが分かる。ことばがヌシの元へ届く前に、自分はこのアホの人間に従う意思がないことをはっきりさせなければ殺されかねない。
二人はくるりと踵を返し、今までにないひたむきさで草を掻き分け下山を開始した。
「なにやってるんですか、二上くん。逃げないって言ったじゃないですか」
焔が怒鳴り返す。
「時と場合によるだろ! 右足縊り落とされるか殺されるかだったら、縊り落とされるほうがまし!」
「なにを言ってるんですか」
浄観が印を結ぶと、焔が「あっ」と声を上げ、右足首を押さえてうずくまった。今までにないほどきつく右足首を締め上げられて、痛みにとても動けない。
「ぐっ、がぁっ!」
浄観は焔に襲い掛かって馬乗りになり、焔の喉元を押さえつけ、耳元で囁いた。
「足を縊り落とされたら結局逃げられないでしょう? それに私はあなたを殺さないとは一言も言っていません。選んでください。今ここで私に殺されるか、私をヌシのところまで連れて行くか」
二上兄弟は、迷いなく後者を選んだ。
「お前は簡単に言うけどさあ、葛城のヌシを殺すなんて絶対ムリだぞ。そのへんの妖怪とはワケが違う。あの伝説の妖怪だよ? 葛城の山を牛耳ってんだぞ?」
「そうだよ飛鳥野くん、あきらめて下山したほうがいいよ」
逃げられないと知って、二上兄弟は浄観を説得する作戦にシフトしていた。
「今ならまだ見逃してもらえるよ、きっと!」
「そういうわけにはいきません」
「なんでぇ?」
うっとうしそうにため息をついて、浄観は二人に尋ねた。
「あなたたちはこの金剛山を見てなにか感じることはないんですか」
「感じること?」
錬が小首をかしげる。
青々と茂る木々、木々の間からこぼれる薄い木漏れ日。ごく普通の山の風景だった。
「うーん。別に何も。あ、でも今年は寒いのかな。開花が遅いよね。山吹も山瑠璃草もまだ咲いてなくってびっくりした」
青々と茂る木々は元気だが、春の山にしては彩りが少ないように思う。
「なんだ、気付いてるじゃないですか」
「なに? どういうこと?」
「金剛山と葛城山では、一年前からどの植物も花をつけません」
「え、まじで?」
「ツツジも山桜も当然咲いていませんから、登山客は激減です」
「やったね、登山客が二上山に流れる!」
焔が諸手を挙げて喜びを表した。二上兄弟の両親は二上山麓でカフェを経営しているのだ。二上山の登山客が増えるのは大歓迎だった。
「そんな悠長なこと言っている場合じゃないんですよ。金剛・葛城のふもとでは、田んぼの稲も、畑の植物も、全て花をつけない。花が咲かなかったら当然実は成りませんから、かつてないほどの大凶作に見舞われているんです」
「それが葛城のヌシの仕業ってこと? なんか眉唾だなあ。タチの悪い植物のはやり病じゃないの?」
「金剛山系のなかで花が咲かないのはこの二つの山だけです。あなた方の大事な二上山はなんの異常もないでしょう?」
言われてふーむ、と錬が考え込んだ。
「それならヌシ様に『花を咲かせてください』ってお願いすればいいんじゃないかな。何も殺さなくても」
「そうそう、それがいい。甘樫のおっさんに頼んで仲介してもらおうぜ」
万福寺は古くから妖怪とヒトとの間の揉め事を取り仕切る仲介役として活躍してきた。こんな時は「妖怪寺」万福寺に頼るのが常道である。
「ふざけないでください」
浄観は吐き捨てるように言った。
「あんな新興の宗派に何ができますか」
なかなかの剣幕だった。
「え、なに。なんか仲悪いの?」
「同じ仏教でもきっと色々あるんだよ」
浄観の勢いに気圧されて、二上兄弟は、こそこそと囁きあう。
「あんなモノに頼るわけにはいきません。私自身の力で葛城のヌシを滅しなければ意味がありませんから。ほら、しゃべってないで行きますよ」
すたすたと歩き出す浄観の後ろ姿を見て、錬は説得を諦めた。
多少修行したくらいの僧が葛城のヌシに敵うはずもない。浄観は返り討ちにあって、下手すれば死ぬかもしれない。まあ、そうすれば焔も契約から解き放たれるわけで、そう悪い話ではないか。後はヌシ次第だ。眷属とされて逆らえなかったことを訴え、ヌシの慈悲にすがれば、焔と錬は許してもらえるかもしれない。
どうか新しいヌシ様がお優しい人でありますように。
錬が願うのはただそれだけだった。
それは突然現れた。
昼なお暗い林の中にあって、木のまばらなその場所には光が降り注ぎ、遠くからみるとうす明るい光の柱が立っているように見えた。
近づくと、そこは円形の広場だった。その真ん中には大きく平らな岩が積み重なっており、その周りをマサキカズラが這い回っていた。マサキカズラは岩だけでなく、隣の榛の木にもまとわりつき、岩と樫の木の間に大きな空間を作り出していた。そこには白いヴェールのようなものが掛けられていている。
「なるほど、ここがそうですか。どうもありがとう」
浄観はすたすたと近づいていき、樫の木とそれにまとわりつくマサキカズラを見上げた。風にざわめく枝葉の音もたけだけしく、ヌシの寝所にふさわしい威厳あるたたずまいである。だが、浄観は圧倒された様子もなく、淡々と周囲を回って観察している。
「ふむ」
おもむろに浄観はマサキカズラの蔓を錫杖で突き通した。
「なっ!」
ヌシの寝所を傷つけるというあまりに思いがけない行動に、二上兄弟には止めるヒマもなかった。
「オン アミリテイ ウン ハッタ」
浄観が真言を唱えはじめると、錫杖から白い霧のようなものがあふれ出し、螺旋のように帯をなしてマサキカズラと榛の木に絡みつき、やがてそれはその隙間を埋め尽くしていった。
「ちょっ、なにしてんだお前!」
我に返った焔が慌てて浄観の肩を引くが、彼はびくともしない。
「こわい。この人マジ怖い!」
「お願いだからやめて!」
二上兄弟は半狂乱だ。
「この場所を軍荼利明王の庇護下に置きました。これで仏法の具現に対するあらゆる障碍は取り除かれ、まつろわぬモノはこの地に住めなくなるでしょう。つまり、ヌシはもうここに住めない。ここまでされれば、さすがにヌシも出てくるでしょう」
あまりのことに二上兄弟はことばも無かった。これはダメかもしれない。錬は思った。ここまでされて許してくれる妖怪はまずいない。
唐突に周りの気温が下がった。きーんと耳をつんざくような音がして、二上兄弟は総毛立った。
榛の根と岩の間から灰黄色に黒の縞模様の入った細長い脚がぬっと飛び出し、ついで八つ目のある頭胸部が現れた。それは音もなく岩を登りきって、三人を睥睨した。大きく鋭角に尖った八本の足と、尻には光る尾。背中には縅のような黒の模様。それは体長が一丈ほどもある土蜘蛛だった。
大きな頭胸部を振りながら、土蜘蛛は三人に問うた。
「貴様ら、何をしておる」
二上兄弟は答えられない。怒気を撒き散らす土蜘蛛の迫力に圧され、声が出なかった。
「あなたが葛城のヌシですか」
唯一人、平然として浄観が分かりきったことを聞く。
「左様。わしは、『青柳の葛城山に白くもが 嵐吹かせる笹蟹の土』」
「え、なんて?」
「たぶん、和歌で自己紹介をしたんよ」
「ほう」
焔はあんまり分かっていなかったが、分かったフリをした。
「葛城のヌシ、申し訳ないが、死んでもらいます」
当たり前のように浄観が言うのを聞いて、土蜘蛛は嗤った。
「お前が、わしを殺そうというのか。自分の力量も測れぬとはおろかな人間じゃな」
「できるかできないかは問題ではありません。やるしかないのですから。二上くん。あなた方が攻撃して、ヌシを弱らせてください」
「え」
当たり前のように言われて驚く焔を、浄観はしかめ面で見た。
「なんのためにあなたを連れてきたと思っているんですか。殺せとは言いません。弱らせてくれればいいんです」
「何言ってんだお前」
どう考えてもそんなことは無理だ。肌で感じる格の違い。土蜘蛛と二上兄弟では同じ妖怪だからと一括りにはできない、はっきりした実力差があった。
「なんで分かんないの。ヌシを倒すなんてことはとても無理なんだよ」
ヌシに刃を向けるなんて、無謀でしかない。そのことを焔はよく理解していた。
「無理でもやるしかないんです」
けれど、そう言った浄観の目には切迫した色があって、思わず焔は黙り込んだ。
焔は迷った。浄観に従わなければ浄観に殺される可能性があったし、浄観に従えばヌシに殺される可能性がある。どちらにしろ殺されるのなら浄観に従う気はなかったのだが、浄観の目を見てその決心は揺らいだ。なぜそんなに切羽詰っているんだろうか。上の命令だといっていたが、無理でもやるしかない、と言わせるほど浄観を追い詰める「上」とは浄観にとってどんな存在なのだろうか。
錬は正面にいる土蜘蛛を見上げた。土蜘蛛を殺すことは無理だとしても、土蜘蛛に一矢放ったという事実で浄観の「上」が納得するのなら、なんとかなるかもしれない。
心の片隅で、そこまでやってやる必要はないんじゃないか、という声がする。だが、追い詰められたような浄観の目を見て、見捨てるのはなんだか罪悪感があった。
「狙うなら脚かな」
体に比べれば華奢に見える脚を狙えば、多少のダメージは与えられる可能性がある。その後は、平謝りに謝って、ヌシのご慈悲にすがるしかない。
ごめんなさい。
心で謝りながら、焔はその手から炎を放った。一直線に土蜘蛛に向かって走る火柱は轟々と勢いよく燃え盛り、土蜘蛛の体を飲み込んだ。
「どうだ!」
焔は休むことなく炎を出し続ける。火にまみれた土蜘蛛の姿は全く見えず、多少なりともダメージを与えられているのかどうかよく分からない。
しかし唐突に、土蜘蛛の方角からきらりと光る細い糸が走った。炎を出し続けていた焔からはその細い糸は見えなかっただろう。
「危ない!」
気付いた錬が指先から稲妻を走らせその糸を焼き切った。
「うおっ」
驚いた焔が炎を止めると、消えた炎の中から土蜘蛛が姿を現した。その体には一点の傷も焦げ痕もなく、先ほどとなんら変わらない姿のままだった。
「うわー、マジか」
焔は目に見えて落胆した。いくらなんでもノーダメージは悲しい。
「ヌシには火が効かないようですね。お兄さん、あなたの方が見込みがありそうだ。あなたがやってください」
横から口を挟む浄観に、錬はむっとした。
「なんで僕が」
「別に無理強いはしませんけど。弟さんが死んでも良いなら」
錬は歯軋りした。悔しいが、焔のためにやるしかなかった。
土蜘蛛の脚を狙って、錬は稲妻を放った。土蜘蛛はさっとよけたが、それでもつま先に稲妻が当たり、バチっと大きな音が鳴った。確かに先ほどの焔の攻撃よりは効き目があるようだ。
「休まないで! 攻撃し続けないと押し切られます!」
浄観の声が飛ぶ。いちいちうるさい奴だな。ていうか、どっちにしろいつかは押し切られるに決まっているだろう。口答えをしたかったがやめておいた。下手に逆らうと焔が何をされるかわかったものじゃない。
ヌシ様ごめんなさい。
心で謝りながら、錬は集中し、手元に稲妻を集める。実際、錬が本気を出したところでヌシが死ぬなんてことはありえないのだから、多少頑張ってみてもいいだろう。ただ一つ心配なのは。
(どうか僕が殺されませんように……!)
ヌシが本気になれば、錬などひとたまりもない。そうはならないよう祈るしかない。すがるような気持ちで稲妻を放つ。土蜘蛛は機敏な動きでそれをかわし、錬に向かって糸を放った。錬は飛びずさってそれをかいくぐるが、左手にすこし糸が引っかかってしまった。連続して稲妻を放つが、なかなか土蜘蛛には当たらない。それなのに、土蜘蛛の放つ糸は少しずつ錬にまとわりつき、徐々にその身体を搦め取りつつあった。
「くそっ!」
稲妻を使えば糸を断つことはできるだろう。しかしその間攻撃も防御も手薄になり、その隙に一気に攻め込まれる可能性が高い。
勝ち目はないけれど、せめて一矢報いたい。そうすれば浄観にも申し訳が立つだろう。
錬は逃げるのをやめた。どうせ搦め取られる運命である。降りかかる蜘蛛の糸には頓着せず、土蜘蛛の前脚をよく狙って渾身の一撃を放った。
ドゴォ! と大きな音を立てて、土蜘蛛の前脚が二本吹き飛んだ。
「よし!」
浄観がらしくなくガッツポーズをした。錬は蜘蛛の糸にがんじがらめにされて身動きが取れなくなってしまった。
「ここまでやってくれればなかなかのものです」
浄観はそう言うと、印を結んで真言を唱え始めた。
「ノウマク サマンタ バサラナン……」
その瞬間、ぐっと身体を押さえつけられるような感覚があって、焔は思わず膝を突いた。糸の圧迫に加えてさらに圧を加えられた錬はもっとつらい。声も上げられず身悶えた。どうやら妖怪全てに効果のあるような術を使っているらしい。
「飛鳥野、てめぇ」
苦しい。いくらなんでも浄観のために戦った自分たちに対してこの仕打ちはないんじゃないのか? 焔が絞りだすように言ったことばにも、浄観は答えない。
「おい、ヒトよ。その者たちはおぬしの眷族じゃろう? それを苦しめてまでもわしの命が欲しいのか」
ヌシは苦しむ二上兄弟を見ながら浄観に問いかけた。
「それが私の使命ですから。彼らを殺してでもやり遂げます」
浄観の答えに、土蜘蛛は呆れた。
「本当にお前は愚かじゃのう。まともに話す価値もないわ」
ああ、このヌシはすごくまともな人だ。これなら命乞いすれば助けてもらえるかもしれない。錬の心に一条の希望の光が差し込んだ。
「臨兵闘者皆陣列在前」
浄観は九字を切り、土蜘蛛に不動金縛りを掛けた。脚を二本失い、動きの鈍っていた土蜘蛛は避けることができず、まともにその術を喰らい、よろける。
浄観はマサキカズラの木に刺していた錫杖を引き抜くと、両手で掲げ持ち、まっすぐに土蜘蛛の腹部めがけて振り下ろした。だがその瞬間、カツン、と鋭い音がして、錫杖が真っ二つに割れた。土蜘蛛は不動金縛りを食らっても完全に動きを封じられたわけではなく、その鋭い鋏角で錫杖を噛み切ったのだった。
「言うたはずじゃ。おのれの力量を測れぬとはおろかだと」
土蜘蛛はぐわっと頭を振り上げ、浄観に襲い掛かった。浄観はとっさに飛び退ったが、肩口に鋏角が突き刺さり、傷を負った。
「くっ」
結構深く抉られている。しかし、やはり土蜘蛛の動きは鈍い。不動金縛りが全く効いていないわけではないのなら、まだ勝ち目はありそうだ、と浄観は考えた。
もう一度、術をかけよう。そう思って浄観は姿勢を立てたが、なぜか足に力が入らない。
「あ」
自分の意思とは関係なく、体中の筋肉が弛緩し、姿勢を保てなかった。
「蜘蛛に咬まれたら、獲物の運命はそこで終わりなんだよ」
その場に崩れ折れる浄観を見下ろして、焔が言った。土蜘蛛が光る尾から、千もの糸を放ち、浄観を絡め取る。
「蜘蛛は捕らえた獲物に毒を流し込んで殺すんだ。その辺の蜘蛛に咬まれても人間は死なないけど、ヌシ様は土蜘蛛だからな」
焔はそう言って、ズボンについた土を払った。
「ヌシ様。数々のご無礼、どうかお許しください」
錬が縛られたまま、できる限り頭を深く下げて詫びた。本当は稲妻を使えばこの糸を断ち切ることはできるのだが、勝手なことをして土蜘蛛の怒りを買いたくはなかった。
ヌシはその鋭い鋏角で、錬を縛り上げた糸を噛み切って自由にしてやった。
錬は感動した。この人は絶対いい人に違いない。
「ありがとうございます。われわれは二上山のむじなの兄弟でございます。あの人間に隷属させられてヌシ様に刃を向けました。許されることではありませんが、どうか我々の事情も慮って、温情を垂れてくださいませ」
錬は地面に平伏して許しを乞うた。
「うむ。だいたい事情は分かったから、そうかしこまらんでよい」
「ヌシ様、あんたいい人だな」
焔が感心したように言った。脚を二本もぶっ飛ばされて、こんなことを言えるのはよっぽどの大物である。
「お前も謝れ!」
錬に言われて、そっか、と焔はつぶやく。
「いきなりあんなことしてすんません。でも」
そう言って、ちらりと焔は土蜘蛛の毒に朦朧としはじめている浄観を見やる。
「あいつ、助けてやってくれよ。なんか俺もよく分かんないんだけど、あいつも上に命令されてヌシ様を殺しに来たみたいなんだ」
土蜘蛛はゆるやかに首を振った。
「それはできん。あの人間はわしの住処をめちゃくちゃにして、前脚をふっ飛ばしたんじゃぞ」
「前脚ふっ飛ばしたのは錬ですけどね」
「要らんことを言うな!」
焔の首をつかんで錬が叫んだ。僕が殺されてもいいの?
「同じことだ。やれといったのはあの人間じゃ。その報いは受けてもらう」
「そこをなんとか」
焔は食い下がった。
「くどい。そこをどけ。止めを刺す」
言われても焔は一歩も動かなかった。
「ねぇ、焔。もういいだろ。そこまでしてやる義理はないよ。お前だって、あいつから自由になれるんだよ?」
引っ張る錬の手を引き剥がして、焔はきっぱりと言った。
「どんなにむかつく奴でも、目の前で殺されそうになってるのを黙ってみているわけにはいかないよ」
「焔! もうやめてよ! ヌシ様に刃向かうな!」
錬はほとんど泣きそうだった。焔の言っていることは正しいのかもしれない。けれど、錬にとっては他の誰よりも焔の命のほうが大事だ。それは当たり前のことじゃないのか?
土蜘蛛は動かない焔に痺れを切らし、残った脚を一振りし、二上兄弟をなぎ倒した。
「かはっ」
立ち木に激突して、二人は息を詰まらせた。
「待って、ヌシ様」
焔が手を伸ばすが、それより早く土蜘蛛が浄観に迫る。ダメだ。間に合わない。焔は絶望的な気分で祈った。誰かあいつを助けてやってくれ。
「ヌシ様。その行為は契約違反ですよ」
背後から声がして焔は振り返った。
「兄貴!」
「大和さん?」
そこに現れたのは上から下まで登山ウェアで固めた甘樫大和だった。大和は背負った三〇リットルザックから巻物を取り出して、はらりと開いた。
「第四条違反行為のため、拘束」
大和が言うとその巻物は光を放ちながら空中を飛び、土蜘蛛に巻きついて、その体をがんじがらめにした。
「す、すげぇ」
あのヌシの動きを封じ込めるなんてとても信じられない。焔は憧れのまなざしで大和を見つめた。
「ヌシ様。古の契約をお忘れですか? あなたは人間に一切の危害を加えることはできない」
大和のことばに、土蜘蛛は怒りもあらわに体を震わせた。
「あんな契約。お前たちがお父上を騙して結ばせた、人間に都合のいい契約じゃないか!」
「まあ、それは否定しませんが」
昔の万福寺の住職が人間の意向を受けて葛城のヌシとの間に結んだこの契約は、色々な点で不平等がある。例えば土蜘蛛が人間に危害を加えてはいけないという条項はあるが(第四条)、人間側には土蜘蛛に危害を加えてはいけないという条項はなく、ただ蜘蛛窟の周囲一里に立ち入ってはいけない(第三条)という条項があるだけだ。
「ちょっと待って。蜘蛛窟ってここじゃん。一里以内に入っちゃいけないって」
説明を聞いて錬が疑問を呈した。
「そうなんだよな。実は先に契約違反してるのは飛鳥野なんだよ。でも、契約に則ると、飛鳥野はこの地から即刻立ち去らないといけないけど、ヌシを襲ったことについては不問。ヌシは襲ってきた飛鳥野に反撃をしたこと自体が契約違反ということになる」
「それはさすがにおかしいだろ」
焔は土蜘蛛に同情した。
「契約というものの意味もわかっていない、いたいけな先代のヌシ様を騙して結んだ契約だからな」
万福寺の跡取りがさらっと万福寺の過去の悪行を堂々と認めたので、錬は反応に困って黙り込んだ。
「だが、誤りは正されるべきだ。それが遅すぎたとしても、正されないよりはマシだ。だから、ヌシ様。新しい契約を作りませんか」
大和のことばに、土蜘蛛は触肢を動かした。
「新しい契約?」
「そうです。もっと中立的で、お互いが納得できるような契約を」
「……どうせわしにはよく分からんことばを入れて、騙すつもりじゃろう」
「いえ、同じ過ちは繰り返しません。人間側の代理人、万福寺は現在の契約を破棄します。ヌシ様。今の契約を破棄されませんか?」
新しい契約を結ぶ前に古い契約を破棄しようとするのは、大和なりの誠意の見せ方だった。結果どのような合意がなされようとも、なされなくとも、この今の不平等な契約を認めはしないという意思の表れだ。
「……よかろう、破棄しよう」
土蜘蛛がそう言うと、土蜘蛛を戒めていた巻物は光り輝いて、ばらばらに千切れ、空に散った。
「消えた?」
「契約が失効したからね」
そう言って、大和は草の上にどかりと腰を下ろした。
「さて、では話し合いましょうか」
土蜘蛛と大和と、ついでに二上兄弟が頭をつき合わせて相談をはじめた。
和解書
葛城山のあやかし(以下甲という)と人間(以下乙という)は、下記の通り合意する。
第1条 甲は乙に危害を加えない
第2条 乙は甲に危害を加えない
第3条 甲もしくは乙が、上記いずれかの条の履行を怠った場合には、この和解書は拘束 具となり、不履行者を縛る。
以上、合意の成立を証するために、本書2通を作成し、甲乙各1通を保管する。
「すごいシンプルだ」
「ものすごく基本的な、でもこれだけはどうしても結ばなければならない最低限の契約です。ではお手打ちを」
大和が言うと、土蜘蛛はゆっくりと首を振った。
「いや、まだ手打ちしない」
「なぜですか」
「契約する前に、あの人間だけは殺さねばならん」
そう言って、土蜘蛛は浄観を見やる。
「ヌシ。契約に例外を作ってはいけない。契約の根幹が揺らぎます」
「だがアレはこのまま放っておけば、またわしを殺しに来るじゃろう。その方が契約の妨げになるのではないか」
「ヌシ様が私のお願いを聞いてくださればその心配もないでしょう。彼もたぶん、私と同じ理由でここに来たはずですから」
「なに?」
「葛城二山に花を咲かせていただきたいのです。困った人間たちが万福寺に仲介の依頼に来ました。ヌシ様、なぜ花を咲かせてくださらないのですか?」
大和の問いに土蜘蛛は小さな声で答えた。
「別にわしはなにもしてはおらん。草木が勝手に花をつけないだけだ」
「だがそれは、花を見てヌシ様が悲しまれるからでしょう。ヌシ様はお寂しかったのではないのですか? お父上を亡くされて、あなたは一人ぼっちになってしまった。その悲しみを草木も慮って喪に服している。この山は清く美しい。ですが花が咲かなければ、やがて老いて死んでいってしまう。どうかヌシ様、この山に、この地に住むものたちに恵みを垂れてやってください。花さえ咲けば、飛鳥野くんもあなたを狙うことはなくなる」
そう言われて、土蜘蛛は驚いたようだった。
「お前、花が咲かないというだけの理由で、わしを殺すつもりだったのか?」
土蜘蛛が聞くと、浄観はゆっくりと顔を上げて答えた。
「そういう命令、ですから」
「哀れじゃのう。アルジに恵まれておらんのじゃな」
土蜘蛛は心底かわいそうなものを見る目で言った。浄観は答えなかった。
「そうじゃ! わしがおぬしのアルジになってやろう。お前をわしの眷族にしてやろうぞ」
土蜘蛛の突然のことばに、一同は驚いた。
「なにをおっしゃってるんですか、ヌシ様」
戸惑ったように大和が聞いた。
「わしの眷族になれば楽しいぞ! 山の幸は食べ放題じゃ!」
土蜘蛛はなんだかよく分からない勧誘の仕方をする。
「ヌシ様。花さえ咲かせてくだされば、彼はきっともう、あなたに迷惑はかけません。ですからどうか許してやってください」
大和のことばに土蜘蛛は首を振る。
「お前の口約束だけで安心できるか。眷族にすればこやつももう、わしを襲うことはなかろう。花は咲かせてやる。契約も結んでやろう。だが、こやつがわしの眷族になればの話だ。ならんのなら、わしはこの人間を殺して、契約も結ばん」
「ヌシ様」
大和は困り果てた。土蜘蛛は浄観に向き直って言った。
「お前が選べ。死ぬか、わしの眷族になるか。人間との契約がなければ、わしは人を狩るぞ。父上が人肉はとてもうまいとおっしゃっていたから、一度腹いっぱい食うてみたいのじゃ」
無邪気だな。錬は思った。肉食である土蜘蛛が人間を狩らなかったのは、ひとえに契約があったからに過ぎない。契約が無ければ、土蜘蛛にとって人間も他の動物たちと同じくただのエサだ。
「聞いておるか?」
朦朧としながらも、浄観はこくりとうなずいた。
「どうする?」
そんなことを言われては、浄観が取るべき道は一つしかなかった。たとえそれがどんなに屈辱的であっても。
「あなたの、眷属に……」
「なるか?」
こくり、と浄観はうなずいた。思考能力の落ちた頭で、それでも浄観は自分がとても大事なものを失ってしまったことを理解していた。
「よし、飲め」
鋏角を浄観の口の中に突っ込み、土蜘蛛は体液を流し込んだ。土蜘蛛の体液はその毒を中和する。そして、その体液を体に取り込むことによって、浄観は土蜘蛛の身内となるのだ。
「ふぁっ、んっ」
「こぼさず飲め」
無理やり口の中に体液を注がれて、浄観はびくびくと震えた。
「しばらくすれば、体も動くようになる」
土蜘蛛が浄観を戒めていた糸を噛み切ると、浄観はその場にぺたんと座り込んだ。
「よし、これにて手打ちじゃ」
上機嫌で土蜘蛛は大きく手を打ち鳴らした。
「ありがとうございます」
大和は座り込んだまま動かない浄観を横目で眺め、表情を押し殺してそう言った。
「でもヌシ様、これから大変だな。住む場所作り直さないと」
焔のそのことばに、錬がうれしそうに答えた。
「心配要らないよ。だってほら、ヌシ様には新しい眷族がいるもの。手伝わせればいいんだからさ」
「そうか。でもなにか手伝えることがあったら言ってくれよ? 俺も錬も手伝うからさ」
焔のことばに錬は眉をひそめる。土蜘蛛に面と向かっては言えないが、そんな面倒くさいこと、できれば手伝いたくない。
「いや、その必要はない。わしは山を降りるからな」
「へ?」
「前は契約があって、高見岩より西の人間の住む地域には行けなかったからな。わしもあっちに住んでみたいのじゃ」
土蜘蛛の爆弾発言にさすがに一同慌てた。
「いやいやいや、ムリだよ! ヌシ様みたいな巨大な蜘蛛が降りてきたら、みんなびっくりするよ、阿鼻叫喚だよ!」
「それくらい分かっとる。ヒト型になればいいのじゃろう」
そのことばと同時に土蜘蛛の体がするすると縮み、鋭く細い後ろの肢が二つずつ固まって人間の肢に成り、残った前の肢が人間の腕に成り、柔らかい肌に濡れたカラスのような美しい黒髪、大きな二つの目とぷっくりと膨らんだりんごのように真っ赤なほっぺたを持った人間の姿になった。だが、そのサイズは。
「幼稚園児?」
「幼稚園児だね」
どう見ても幼い男の子の姿だった。
「どうじゃ、かっこいいじゃろう」
「いや、どっちかって言うと、かわいい?」
「すみません、ヌシ様。え、ヌシ様って何歳なんですか?」
「一〇五歳じゃ」
「もしかして、土蜘蛛の一〇五歳って子どもなのかな?」
「分からん。でもそうかも」
こそこそと囁きあう二上兄弟。
「なにを言うておる。一〇五歳にもなれば十分オトナじゃ!」
その発言はまさに、大人ぶりたい子どもの発言ではないだろうか。
もしこの土蜘蛛が、まだ精神的に未熟な子どもなのだとしたら、父親が亡くなって、どんなに心細く、寂しかったことだろう。金剛・葛城の草木が悲しむ土蜘蛛に同情して花をつけなかったのもうなずける。
「どうじゃ、これなら人間の里で暮らせるじゃろう」
自信満々で胸を張る土蜘蛛。
「うーん。まあ」
大和はすっかり土蜘蛛に同情していた。こんな幼子を山の中に一人置き去りにもできない。
「仕方ない。一人くらい増えてもまあなんとかなるし、ヌシ様、万福寺にいらっしゃいますか?」
万福寺はそう大きな寺ではないが、一般の家よりは広い。大和の家族も、他人が家に入ることに慣れている。
「何を言うておる。なぜわしがお前の世話にならねばならんのじゃ。わしには眷族がおるのじゃぞ。眷族と暮らすに決まっておるじゃろう」
土蜘蛛は高らかにそう宣言し、浄観を振り返って見た。
「僕、いいこと考えました」
葛きりをすすりながら、錬が言った。場所はいつもの万福寺二階、大和の部屋だ。
土蜘蛛の一件が無事済んで、瑞森へ帰ってきた三人は早速作戦会議を開いていた。浄観の立場が変わったからである。浄観と焔の眷属契約を絶つ、新しい方法が見つかるかも知れない。
「僕も葛城のヌシの眷族になるんです。そんで、ヌシ様から飛鳥野くんに、焔を解放するよう命じてくれってお願いする」
錬がドヤ顔で言い放つのを、焔がちょっと馬鹿にして鼻を鳴らした。
「お願いするのはいいとして、なんでお前がヌシの眷族になる必要があるのか分からん」
「あの人は身内に甘いタイプと見た! だから僕もあの人の身内になる! 身内になれば色々いうこと聞いてくれそうな気がする!」
「お前、ほんとに狙いは俺の眷族契約解除だけなの? 他にも色々お願いしようとしてない?」
「それもある!」
「それもあるのかよ」
「おい、錬。お前はあのヌシ様をえらく気に入ったようだけど、まだどんなお方だかよく分からないんだから、気軽に眷族になるなんて言うな。一歩間違えば、取り返しのつかないことになるんだぞ」
大和にたしなめられて、錬はちょっとふて腐れた。
「絶対いい人だと思うんだけどなあ」
「いい人は、出会ったばかりの人間を眷族にしたりしない」
なるほど、大和の言うことにも一理あった。眷族の契約というのは、お互いの心底の見えた状態で、納得尽くで結ぶべきだ。あんな一方的なやり方は常道とは言えない。
「飛鳥野、大丈夫かな」
大和は心配げにつぶやいた。




